37.
正体を現した卑劣な敵を前に、勇者テオドールは立ち尽くしていた。
聖女アリシアは今にもその毒牙に犯されようとしている。
しかし、傍にいる仲間たちには、この危機を打開する術が思いつかなかった。
何故なら、唯一の打開策は人質の村人を見捨てることだ。
正義の使者である勇者と聖女に、そんな選択ができるわけはない。
唯我独尊のラーシュもその実、情に厚い男である。判断力のあるイニゴも無辜の民を殺す判断は下せず、合理的なアンスガルも非合理的な感情に抗えない。
そんな勇者一行にサンドラは静かに声をかけた。
「お待ちになって」
彼女だけはこの危機を打破する術を持っていた。
傍らに精霊の存在を感じながら、誰もが立ちすくむ中、サンドラだけが前へと踏み出した。
テオドールの驚愕に見開かれた瞳と、一瞬、目が合った気がした。
サンドラは微笑んでいた。
勇者のおかげで自分は悪魔と戦う力を手に入れたのだ。
渾身の一撃を振るいながら、サンドラは精霊との出会いを思い出していた。
* * * * *
その日、フェルセン伯爵家の屋敷には不気味な歌声が響いていた。
サンドラが人生最大と言っていいほどご機嫌だったのだ。
本人は機嫌よく鼻唄を歌っているだけだが、今世では音楽らしい音楽に触れたこともないから、前世の流行歌などを適当に口ずさんでいる。だから、何も知らない使用人たちには調子っ外れな奇怪な歌にしか聞こえないのだった。
しかし、機嫌が良いのは真実、サンドラが不気味なのは通常運行、フェルセン伯爵家の屋敷は朝から賑やかに使用人たちが駆け回っていた。
それは、今日この屋敷に勇者がやってくるというからだ。
報せが来たのが昨日の夕方だった。アリシアから勇者の説得に成功した、急で申し訳ないが明日送り込む、非礼は先に詫びておく、といった連絡が来たのだ。
あまりに急な報せだったので、今日はロベルトとカリーナだけでなくマルティンも不在だ。
三人とも昨日までどうにか都合をつけて家にいようとしたが、マルティンは近隣領主との会合のため、ロベルトは行方不明事件の調査のため、カリーナは親戚付き合いのため、どうしても予定を変更できなかった。
泣く泣く出かけていった家族を他所に、サンドラだけは大変ご機嫌に昨日からずっと笑顔だ。いつものように顔はほとんど見えないけれど、口元はずっとニヤッと歪んでいるから、お嬢様を見慣れている屋敷の者たちにはサンドラが上機嫌なことは見て取れた。
しかも、今回はまた八年ぶりに、客人をこの屋敷の玄関ホールよりも先に踏み込ませるという。
今日、勇者を招き入れるのは、火の精霊を召喚する儀式を手伝わせるためだ。精霊召喚の儀式をするためには玄関ホールでは手狭だし、屋外で行うには勝手が変わってしまうため、屋敷で一番広い大広間を使うことにした。
勿論準備がいる。ただの客を持て成す準備ではなく、屋敷中の悪魔除けの結界を張り直し、悪魔感知の魔法をかけ直す準備である。
そのためにサンドラは徹夜をした。屋敷中に結界を張り直した後で、今日の本題である精霊召喚の儀式の準備もあったから、助手であるフリーダとスウェンも徹夜した。
「ああ、間に合ったわ、ウフフ、ウフフ」
「間に合いましたね、お嬢様」
「いよいよですね、お嬢様」
徹夜のせいでちょっとテンションのおかしいサンドラに、フリーダもスウェンも同じくちょっとおかしい。大広間で朗らかに笑い合っているだけだが、薄暗い中でヘラヘラしている三人は何らかの薬物をキメていそうな顔をしていた。
三人とも本格的な魔術はこれが初めてなのだ。
今までも日常的に悪魔除けの結界術や悪魔祓いの儀式はしているけれど、いるかどうかも怪しい魑魅魍魎相手だったから、イマイチ手応えがなかった。前回の村で試みた大規模魔術も勇者に邪魔だてされてしまったから、この精霊召喚の儀式が正真正銘の初体験になる。
そのために三人とも浮足立っていた。気分は遠足前夜の子供のそれだが、眼の下に隈を浮かべ、血走った目を爛々と輝かせている姿は、明らかにヤバい薬物をキメているヤバい人たちだ。
客人を迎えるとあって、三人とも準備を終えてから大急ぎで最低限の身支度は整えたが、顔を洗ってもやつれた表情は直らない。整えた衣服はいつも通りの黒いローブだ。
しかし、実際は三人とも正気である。大真面目に客人を持て成し、大真面目な魔術を実行しようとしている。大広間に描かれた大きな魔法陣を何度も見返して、シェフに客人の分も昼食の準備を言いつけ、最終の確認を何度も行う。
マルティンはサンドラの願いだからと、精霊召喚に必要な物をあっという間に揃えてしまった。中にはサラマンダーの血や火ネズミの肝など、入手困難で高価な素材も多数あったが、金に糸目をつけず大急ぎで入手してくれた。
残るは魔力源となる魔石が少々足りなかったけれど、勇者を生贄にすれば充分足りるだろう。既に彼は火の精霊を使役しているから、精霊も合わせて補助としては打って付けだ。
行方不明事件が発覚した当初は、精霊召喚の儀式は間に合わないと思ったから、悪魔の正体を特定することを優先していた。
だが、火の精霊が呼び出せるのならば、悪魔の正体をつきとめる必要もない。火の精霊は凡そ全ての宗教の悪魔に対抗することが可能である。
つまり、火の精霊と契約できれば、サンドラはもう悪魔に怯える必要はなくなるのだ。
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