月下のシオン 第1章 第1話
俺が思うに、勉強は大切だと思う。もちろん、自分の好きではない勉強はやらなくていいならやりたくない。将来使わないから勉強したくない、ではない。"純粋に"嫌いだからやりたくない。それだけのことだ。
俺は、次の授業のコマを確認し、ため息が出る。次の授業は古文。過去の人の恋文を読んで何が楽しいのだろうか。俺には理解ができない。
「そんな大きなため息ついて、どうしたんだよ」
「いや、人の恋心に首を突っ込む阿呆は馬に蹴られればいい、と思ってな」
「おいおい、そんなにナイーブになるなよ。こんな子に育ってちゃって、俺ちゃん悲しいわ〜」
しくしくとボディランゲージまでつけて鬱陶しくしているのは、クラスメイトの渡辺彰。クラスのムードメーカーにして俺の悪友。文武両道、女子にモテモテな絵に描いたようなイケメン高校生。柔道部の主将もしている。玉に傷なのは、相手の感情を察する力に疎いことだ。何度機嫌を悪くさせられたか。数えるのも憚られる。
俺は一瞥するだけで答えることはせず窓の外を眺める。外は、雲ひとつない快晴。まったく、毒の一つも吐きたくなる。
「無視してんじゃねぇ!」
彰の絞技に、俺の意識は持っていかれる。無視した代償は、大きかったようだ。普段から筋トレをしている俺でも、彰には勝てるはずない。プロに勝てるほど、俺は自分の腕に自信がない。素直に彰の腕を叩く。勝ち目のない試合はしたくない。
いぇい討ち取ったり〜、なんて言ってる彰から解放された俺はよれたシャツの襟を直す。
「別に、無視したわけじゃねぇよ。返答する気がなかっただけだ」
「もっとタチ悪いだろ、それ」
あっけらかんと答える俺に、また絞技をしようとする彰。俺は両腕を上げ、降参の意を示す。彼と争うつもりはない。それに、彼のことは気にいっている。
数少ない人間の友人を失うのはおしい。
俺はあげている腕をおろし、真面目に彰と話す決意をした。話し始めたら長いんだよなぁ、と思いながらも、何か得られるかもしれないと思うようにする。100話せば90はくだらないことを言う男だ。覚悟は必要になる。
「んで?俺になんの用だ?何かあるんだろう」
「そうそう、次の授業なんだけどさ、自習だってよ」
驚いた。今日は10を引いたらしい。しかも自習になる、ときた。学生にとっての自習は、休み時間に等しい。俺はガッツポーズをする。勉強したくない古文から逃れられるだけでなく、睡眠をとることもできる。花の高校生にとっては朗報すぎる。
「なんでも昨日、先生、ヨステビトに襲われたんだと」
「・・・。は?」
頭が真っ白になる。古文の先生がヨステビトに襲われた。このワードは、戦闘員である俺には辛すぎる言葉だ。瞬時に、昨日の業務内容が頭を巡る。どこか落ち度がなかったか、見落とした点がないか、思考する。
フリーズした俺を哀れに思ったのか、彰は、
「壮が担当してるのは、神奈川だろ?でも、あいつが襲われたのは東京だよ。さっき職員室の前通るときに聞こえてきたんだ。だから、壮は何も悪くないよ」
俺は思わず椅子から崩れ落ちた。安堵と自己嫌悪、が、同時に襲ってくる。自分に落ち度がなかったことに安堵した自分に怒りを覚えざるおえない。残酷な自己中心的な男。これが今の俺には相応しいレッテルだ。
俺は、興奮した心臓を宥めるように胸を強く掴み、深呼吸をする。彰は、体を摩って落ち着かせようとしてくる。
「落ち着けよ。先生は生きてっから」
俺は、心配する彰を横目に椅子に座る。もう一度、大きく息を吸い込み、吐き出す。
「ごめん、落ち着いた。とりあえず、次は自習なんだよな。教えてくれてありがとうな」
彰はまだ不満そうだが、俺が平気だと言った言葉を信じ、自分の席へ戻って行った。きっと、うまく笑えてなかったからだろう。だが、話を聞いた俺の手には昨日の感触が戻っていた。ヨステビトを霧散させた時の感覚が。そして、耳には悲鳴が。決して気分の良いものではない。うまく笑えなくても仕方ない、と自分に言い訳をする。
「くそっ・・・」
弱い自分に苛立ちを覚える。迷っている暇がないことは理解している。討伐しなくてはならないこともわかっている。だが、頭の中で迷いがチラつく。
人間しか救えないように、ヨステビトも救えないのか。
俺は無意識に拳を強く握ってしまっていた。手を開くと、手のひらに食い込んだ爪の先に赤色がチラついている。その赤を俺は、ひどく綺麗だと感じた。