おさんぽ
「おお、お久しぶりです」
朗らかに笑う三鷹さんは、のんびりと歩いていた。顔中の皺が僅かながら広がり、柔らかな白髪を弱々しい風に触らせている。
そんな三鷹さんの姿を捉えると、息を整え、口角を上げた。
「お待たせして、ごめんなさい……行きましょうか」
三鷹さんはきょとんとした顔で、俺を見る。
「……どうかしました?」
「……お蕎麦屋さん」
ポツリと呟いて、道の先に遠く視線を動かす。
「お昼、まだです?」
「あー、いや、僕は別に……」
歯切れ悪く言葉を並べる三鷹さんに、俺は笑顔で寄り添った。
「俺、昼、あそこに行くんすけど……行きます?」
本当は、全然そんな予定なかった。だけど、三鷹さんが行きたいなら行きたいし、それで喜ぶなら……。
「おー、行きましょうか。じゃあ、そうしましょう」
さっきの何処か萎縮した三鷹さんは吹き飛んで、意気揚々と蕎麦屋さんの方へと歩き出した。……待って、逆だ。違う、そっちの道違う。
慌てて手を握って、元の道へと方向転換する。
「道こっちですよ〜」
「ああ、そうか……。いつもすみませんねぇ」
「困った時はお互い様っすから」
申し訳なさそうに、三鷹さんは頭を下げる。これぐらい、どうってことないのに。三鷹さんが笑顔でいてくれれば、別にいい。
「そういや、昔ここら一帯は畑でね……」
あ、三鷹さんの昔話だ。滔々と、息を吐く間もなく語る。三鷹さん自身の話や、かつての地域の姿……。何回聞いてもよく耳に馴染み、じんわり浸透していく。
話だけではなく、掠れた低い声が、心地良いのもある。だから、例え聞く気が無くとも、つい耳を傾けてしまう。三鷹さんの話を聞きたくないなんて思った事は、今のところないけれど、そうなる時、来るんだろうか。……嫌だなぁ。
蕎麦屋まで、道はさほど複雑じゃない。体感十分あたりで、着いてしまう。
古ぼけた暖簾と、曇り止めの硝子が嵌め込まれた引き戸が見えてくる。デカデカと書いた『そば屋』の三文字は、懐かしさと共に時の流れを誘発する……もっと話聞いてたかった、短けぇよ。
まあ、ついた事は仕方ないので、俺は引き戸をガラリと開けた。
店主から飛んでくる快活な挨拶に会釈を返し、三鷹さんを座らせる。三鷹さんは何だか疲れてしまったようで、こっくり、こっくりと、船を漕いでいた。瞼が今にも閉じそうで、身体を不安定に揺らしている。
……休ませてあげよう。店主を呼んで、手早く注文を済ませる。
「いつも、ありがとさん」
軽やかに言う店主に釣られて、こちらの胸も軽くなる。
「いえ、いつもすみません……」
「三鷹さんには、小さい頃良くしてもらったからなぁ。これぐらいなんて事ないよ」
「でも、まだ準備中、でしたよね? 開けようかどうか、迷ったんですが……」
「俺が準備中でも良いよって、前に言ったじゃん。三鷹さんが……」
「……あの〜」
我に返って、三鷹さんを見ると目をまん丸く開いていた。
「……三鷹さん」
声を掛けると、三鷹さんは明るく顔を綻ばせた。
「もうそろそろ帰らないと。孫が、待っているんですよ」
「あ、お孫、さんが……」
俺は、動揺を隠すのに必死で堪えた。手が震えないよう握りしめ、引き攣る口角を何とか元に戻す。
店主は空気を読んだのか、ありがとうございます〜と笑顔を浮かべて、頭を下げる。
「いやぁ、早く帰らないとね、口では言わないけれど、寂しがり屋ですからあの子は、伊月っていうんですけど、息子と嫁さんは仕事が忙しくてなかなか構わないから、私がね、えー、一緒に遊んでるんですよ、孫と、色んなね、とても可愛くてねぇ」
「み、三鷹さん! そろそろ行きましょう!」
止まらない孫語りに、俺は思わず三鷹さんの話を乱雑に区切った。ニコニコ聞いていた店主も、俺の様子に目を丸くしている。
驚かせてしまった事も含め、俺は腰を90度に曲げて謝ると、店を出た。
……流石に孫語りは、聞いててむず痒いよ……。本当はもっと話させてあげたいが、店主の手前どうも……。
迷子になった子供のように、感情の行き場をこぼした三鷹さんが、ぼんやりと立っている。
つい、目を背けた。本音を言うならそのまま後退りたいけれど、益々惨めになるから、足を何とか地に繋ぎ止める。……いや、繋ぎ止めちゃダメだ。三鷹さんと一緒に……。
そう思って、俺は口を開いた。
「じゃあ、帰るかぁ。伊月」
突如、あたたかに寄り添う声と、差し出された皺々の手が差し出される。口が半開きのまま、息を呑んだ。
……爺ちゃんが、いる。もう、三鷹さんって他人行儀に、思い込まなくていいんだ。知らない人に、接するみたいな意識、持たなくていいんだ。良かった……身内相手みたいに、接するといつも混乱しちゃうから……。
とめどなく溢れる想いに区切りを入れるように、爺ちゃんの手を握る。皺ついた手が、俺の手を包み込む。
あったかい……あったかいなぁ……。
爺ちゃんと、家に帰れるんだ……まぁ、それでも、孫である俺を、忘れてしまう時あるけれど。
でも……これで帰ったとて、また家の中から、出るんだろうな。今日みたいに……。
頑張らないと。出ないようにするのもそうだけど、出たら見つけないと。
俺一人で、爺ちゃん見てんだから。爺ちゃんいなくなったら、父さんも母さんも、皆に迷惑かけちゃう。
温もりがまだある手を強く繋ぎながら、爺ちゃんの歩幅に寄り添う。
こうやって手を繋いで、散歩行くの大好きだったよな。あの蕎麦屋で、一緒に昼ご飯食べてさ。最後は、父さんにも母さんにも内緒で、お菓子買ってくれたっけ……全部、小さい頃の、話だけど。俺が、朧げで覚えてないくらい、小さい頃の話。
その話を、俺がちゃんと覚えて、話に上手く乗っていたら、家出ないのかな……。いや、忘れたものを数えても、しょうがない。覚えてなくても、相槌は打てる。それで、爺ちゃんは満足するから。
よし、帰ったら、爺ちゃんに早速実践……。
「今日はね、孫が帰りを待っているから、お菓子をお土産に持って帰るんですよ」
手が、冷えていく、ような気がした。どっちの手だろ……。それを深く考える前に、俺は喉に詰まった言葉を、慌てて押し出した。
「……そうなんですね〜」
若干語尾に、震えが走る。
……いらないよ、そんなもん。ただ、世間話を交わすだけだから、いらない。
喉を強く飲み込んで、引き締める。ついでに奥歯を思いきり噛んで、口角を無理矢理上げるのも忘れない。
最後は、爺ちゃんと……三鷹さんと目を合わせて、弾けるように言えばいいだけ。
「お孫さん、きっと喜びますよ!」