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ヒマラヤンブルー

作者: ウマレ

ヒマラヤトレッキング開始の当日の早朝、


テントから這い出ると、目の前に馬の顔があった。


あたりを見回しても馬が数頭、のんびりと草を食んでいる。


空気はひんやりとして霞がかかり、テントは朝露で湿っている。


道路の向こうには、クライミングで有名だという巨大な崖がそそり立っていた。


この道をまっすぐ行くとラダック地方に行く、とガイドが言った。


「だがわれわれが進む道は」、若いガイドは厳かな口調になる。「シヴァリンガのようにそそり立つこの崖をまわりこんでいくんだ」


これから数頭の馬と共に、ガイド、ポーター、それに専属のコックとわたしは10日間のトレッキングを始めようとしていた。


登山初日、意気揚々として、はじめての、そしてあこがれだったヒマラヤをおとずれることのうれしさから足取りは軽い。


先へ先へと行こうとするわたしをよそに、慣れている若いガイドの足取りはゆっくりだ。


「行けるところまで高い場所に行きたい」


わたしは登山前にガイドに伝えていたが、ここがヒマラヤのどのあたりでどこに向かっているのかはじつはよくわかっていなかった。


後で知ったことだが、


一口にヒマラヤといっても広さは日本の国土ほどもあるらしい。


ブータン、ネパール、インド、パキスタンにまたがって、閉ざされた秘境のある山々が連なっている。


順調にすすむ足取り、ときどきジプシーの小さな小屋が点在している。


まだ木々が茂り、針葉樹のあまい香りがあたりに満ちている。


次第に道は細くなり、ポーターが引いていた馬たちが通れるのかと思われるほどの急な登りが続きはじめた。


やがて、


渓谷沿いを進んでいくと、やがて少しひらけて平坦な場所にでる。


まだ日暮れには早いがガイドは今夜はここで泊まるといい、もう少し進みたいわたしはしょうがなくガイドの言う通りにする。


「もしジプシーの女に相手になってほしいいならいいな」


とガイドがすすめてくるがわたしは興味がなかったわけではないが、何となく怖さを感じ、再三進めてくるその誘いには乗らず、テントの中で、煙をくゆらせ、夕食の準備ができるのをのんびりと待っていた。


専属のコックは口髭の生えた精悍な顔つきのよく冗談をいう男だった。


彼の引く馬の腹にはにわとりが束になって足を縛られ、生きたまま吊るされていた。


ポーターは口数は少ないが、やさしい雰囲気の男で、なにかのたびに祈りの言葉をささやき、最後にふっと指に息を吹きかけるジェスチャをしていた。


若いガイドは軽いノリの若造といった感じで、携帯電話がつながらないのが不満そうだったが、ことあるごとに話かけてくれ、こちらとしても気軽に接せられる相手だった。


わたしが大きな岩のかげで用を足しているとき


ふと足元をみると、無数の羽が地面に散乱している。


テントのそばの焚火場に戻ると、鍋からは湯気が立ち上り、コックは座り心地の良さそうな岩に腰掛けながら、料理を仕込んでいる。


「残った毛はこうやって火であぶって燃やすんだ」


そういうと、コックはニワトリの足を持ち、ぶらぶらと火の上であぶりはじめた。毛の焦げたにおいがあたりに漂う。


平らな石の上にあぶったニワトリを置くと、トサカのついたニワトリの頭に勢いよく包丁を下ろす。


「血抜きのためしばらく吊るしておくんだ」


コックは料理の説明をすることがうれしいようだった。自分自身もトレッキング中のこの役割に満足しているような自信がうかがえることができた。


ヒマラヤの渓谷の日暮れは早かった。


焚火で湯を沸かし、そこに茶葉とクローブ、たくさんの砂糖を入れて飲む。トレッキングのあいだ何杯飲んだだろうか、


休憩や食事時になると必ずこの紅茶がでてきて、登山に疲れた体を甘さで癒し、クローブの軽いしびれる様な感覚で心を落ち着かせる。


さばきたての鶏肉の入ったカレーは極上の旨みが引き出され、ニンジンやジャガイモなどの野菜が形がなくなるほど煮込まれた汁は熱く、スパイスは優しめで何杯でも食べられそうだった。


疲れた体を寝袋の中に埋めると、深い眠りのなかに誘われていった。


2日目からは馬に乗って進んだ。


人生で初めての乗馬だが、列の後方につくわたしは、鞍に乗っかっているだけで馬が前の馬の後についてあるくのでまったく問題はなかった。


急峻な上り坂を馬たちは辛抱強く登っていく。


見上げると空の蒼さに感動を覚える。澄んだヒマラヤンブルー。


眼下には川が小さく流れている。300メートルはあろうか、もし馬が足をすべらせたら一気に川底まで滑落してしまうだろう。


ときどき身の縮む思いをしながら、上へ、上へとヒマラヤの奥地目指して登り続けた。


何度かの休憩にはドライフルーツやハスの実を食べた。ハスの実は梨のような淡い上品な甘さがあった。


馬の扱いにも大分なれてきた。


急な登りのあとにゆるやかな草原が続き、馬の尻を蹴って走らせる。ひんやりした風を切る疾走感がたまらなく楽しい。


馬上でわたしは高揚感に包まれていた。


そういえば馬は何を食べていたのか...旅の最中にはそのことまで気が回らなかった。


道の向こうからジプシーたちが馬に乗ってやってくる。みな痩せて浅黒い肌をしており、目がぎょろっとして大きく、白目が目立つ。


馬の背に2メートルほども高く布団をつんでおり、さらにその上に子供がちょこんと座っている。


わたしは驚き、平然と馬上であぐらをかく、まるで聖者のような雰囲気のその少年から目がはなせなかった。


向こうの崖の中腹では、ヤギの群れがかすかな窪みをその足でとらえてへばりついている。


四方八方あらゆる光景が驚きと新鮮さと神秘に満ちていた。


ときどきヒマラヤの雪解け水が沢となってきらきらと流れている。


わたしはその水を手にすくい、顔をあらい口にふくむ。天国のような心地で振り向くと、「オームシャンティ!うしろでポーターが祝福の手ぶりと言葉を投げかけてくれた。



わたしはこれ以上ないほど満ち足りていた。わたしはその時、私の念願の夢のただなかにおり、その現実は夢よりもなお鮮やかで、感動に満ちていた。


3日、4日と同じように渓谷沿いをひたすらに登って行った。ずっと、わたしのこころを恍惚感が包んでいた。


「あれがK2だ」がガイドが言う。


遠く前方に切り立った独立峰が屹立している。


こんなにかっこいい山を見たのは初めてだった。わたしの心は少年に戻っていた。


歓喜の声を上げ、わたしはヒマラヤを褒めたたえた。


わたしは澄んだ空気を吸い、透明で清らかな雪解け水を飲み、固いドライフルーツを食べ、夜になるとニワトリを一羽使ったカレーを食べた。


コックの馬の腹にぶら下がるニワトリたちは一匹また一匹と数を減していくのだった。


とうとう5日目になると、標高は5000メートルを超え、空気が薄い。


馬から降り、10歩も歩くと息切れが一向に収まらなくなっている。


頭痛が止まらなくなり、昼間のうちからテントの中で休む事になった。


その間もたくさんのクローブの入った甘い紅茶を飲み、渓谷の狭い空にちりばめられた満天の星を眺め、不思議な聖者たちのでてくる夢のはざまで、夜を過ごした。


”人は口のみで食べるにあらず”


まどろみのなかで静かな、だが確固とした威厳のある声が聞こえてきた。


だがあたりのは声の主は見当たらない。


ガイドもポーターもコックも寝静まっている。それに言葉は日本語なのだ。


わたしのこころのなかで、尊い意識の声明が流れ、その言葉を反芻しながらヒマラヤの朝の空を、わたしは、飲み込み、まさに体全体で、いや魂でヒマラヤという偉大な存在の教えを咀嚼していたのだ。


わたしはテントから抜け出し、息を切らしながらいくつかの岩を超え上へ、上へ登って行った。


10メートルはある崖に突き当たった。


わたしはなぜか、この崖を登ろうとした。テントにいるガイドたちを置いて、このままヒマラヤの奥へと独り進んでしまいたいという衝動が沸き起こり、


わたしは命綱なしでその崖を登り始めた。


心臓の音が大きくこだまする。呼吸は荒いまま、何も考えることなく、登ることそのものとなったかのように、


わたしは登り続ける。


そして崖の中ほどを超えたあたりで右手が岩をつかんだその時、岩は崖から剥がれ落ちた。


手を離したら死ぬ。


一瞬で本能的な判断が起こり、わたしは頭を剥がれ落ちてくる岩にむけて前にだした。


激痛が走る。が、手は強く近くの岩にしがみつき、痛みに耐え、九死に一生を得た。


下を見ると、すでにかなり高く登っており、頭はくらくらする。


ふとすると下から声がする。


ガイドががけ下に走り寄ってわたしの安否をたずねる。


やっとわれに返り、大丈夫だとガイドに答えると、わたしは一手一手慎重に崖を降りることにした。


頭からは血が垂れている。ガイドが布を雪解け水に浸し、頭の傷に当ててくれた。


「なんてあぶないことをしているんだ。ぼくには君を安全に帰す義務があるんだ。絶対にこんな真似しないでくれ」


ガイドはそう言いながらも優しくテントでわたしを休ませてくれた。


自分でもなぜあんなことをしたのかわからないが、そのときほど生き延びられた安堵感、生きている実感を感じたことはなかった。


やがて夜になり、


「これが最後のニワトリだ」コックはそういって、極上のうまみの溶け込んだスープカレーを作ってくれた。


明日は下山しなくてはならない。食料もなくなってきたし、帰りはジプシーたちから食料を買いながら、ゆっくり下山することになるとガイドはいい、夕食のあと、テントの中で歌をうたい、ポーターの男が、わたしに現地のジプシーがきるようなポンチョをプレゼントしてくれた。あの祝福のジェスチャーとともに。


下山のことは、正直あまり覚えていない。


頭を強く打っていたし、相変わらず高山病で頭痛があった。


草木の生える標高まで下がってくると、下界の恋しさも生まれ、急ぎ足で初日にテントをしたところまで戻った記憶がある。


わたしの旅の夢はそのように終わり、それは長年の希望の達成でもあり、それはわたしがわたしの人生を深く味わい、満足した瞬間でもあった。


偉大な白き峰々に囲まれ、見上げればどこまでも蒼い。


究極のヒマラヤンブルー。 


そしていまも、わたしのこころを通して、ヒマラヤは語りかけてくる。



”ひとは口のみで食べるにあらず”

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