笑わない巫女少女と笑わせたい鬼9
*
*
*
雪が一年中降りつもる里。
本来の大地を覆い隠す白化粧は美しく、幻想的で、初めて里を訪れた者の心を一瞬にして掴んで離さない。雪族が暮らし、雪姫が治める雪の里はそういうところだった。
これまで一度も雪景色を見たことがない撫子にとって、そこはもう未知の世界だった。笑顔こそないが、あんぐりと口を開けて唖然としてしまっている。これが感動という気持ちなのかもしれない。
そう思いながら撫子は、新しい世界に触れた。頬や手に感じる空気の冷たさも、息を吐くと白く漂う吐息も、彼女にとっては初めてのことだった。
「寒そうだが……大丈夫か?撫子」
「は、はい……。あたたかいです……でも、おも…」
今、その里に大鬼と12枚にも重なった着物に、獣の毛皮を着こまされた撫子が訪れていた。夏の祭りの際に出会った雪姫から茶会に招待されたのだ。
牛車を先に降りた大鬼は白音にどつかれる。
「大鬼様!何ぼーっとしてんですか!抱きかかえて運んであげるんですよ!!」
「……お前、最近主人に対しての敬意が雑になって来てはいまいか?まぁ、いい。撫子、来い。運んでやろうぞ」
従者に困惑しながらも大鬼は言われた通り、着物が重くて降りらない撫子(もちろん過保護の大鬼の命で着せられた)へ大きな腕を広げて見せた。
「あ……えっと……」
撫子は、牛車にしがみついて、躊躇った。
——どうして笑わないのか
大鬼に仕える白音から言われた言葉が脳裏を過ぎる。
撫子自身、笑顔についてはあまりよくわかっていない。もちろん嬉しい時に人が表情に現す感情の一部であることは知っているのだけれど。それを撫子ができていないというのが、何故やら大鬼の悩みになっているらしいと白音に聞かされてしまった。
笑顔……。笑顔?
嬉しいって一体なんなのだろうか。
「な、なで、撫子……。もしかして嫌だったか……?」
「あ……、いえ……。お願い、します」
気がつけば、目の前で子犬のようにしょぼくれてしまっている常時の鬼らしい威厳のカケラもない大鬼がいた。撫子は、我に帰ると大鬼の手を取った。
着物だけでも何十キロもある撫子を軽々と抱えた大鬼は、口元が孤を描き、先程までのしょんぼりした様子が嘘みたいに消えて、上機嫌だ。
「……大鬼様は、今、嬉しいんですか……?」
「は!?あ、ああ……。そう、だな……。その、なんだ。おぬしを運べて俺は今、嬉しいぞ」
口籠もった大鬼は、最後には撫子の目を捉えて笑ってみせる。
これが……笑顔?
「ちょ、な、なんなのだ……撫子?な、なにをする」
撫子は大鬼の上がった頬を両手で揉み解していく。困惑したのは大鬼だけではなく白音も、そばにいた女房の紫も撫子の行動にギョッと目を見開いた。
「??なん、なんなのだ??」
困惑した大鬼。頭にクエスチョンマークを沢山放出している。
「ははっ、どうした撫子。新しい遊びでも思いついたのか?」
「——いえ……なんでもありません……」
「はははっ、そうか!」
撫子にもはっきりとわかった。今、目の前で、大きく口を開いて声を上げた大鬼の、その表情こそが笑顔なんだと。まるで撫子がしでかした事を全て許してくれているみたいに、どこか仕方ないと諦めながらも、それでも大切にしてくれているような好意的な表情。
これが……笑顔。気温はこんなにも寒いのに、それがこんなにもあたたかい。
こんなのは知らない。こんなものは今まで知らなかった。誰も、教えてなんてくれなかったから。妖怪の世界と人間界との境界を正しく管理する為の巫女の自分に、どうせ去らねばならないこの身に、誰も近寄ろうとはしなかったから。
笑顔って、笑顔って。貴方のその笑顔は、なんだかとても心が落ち着くの。
笑顔について知りはじめた撫子は、大鬼に抱きかかえられたまま、雪姫に出迎えられることになった。