笑わない巫女少女と笑わせたい鬼13
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物心ついた時には、広い屋敷の最奥にある“巫女の間”に撫子は存在していた。
それから間もなくして、自分は“巫女”であり、人であり、そしていつか二つの世界の狭間にある結界を守るために儀式を行わなければいけないのだということを覚えた。
この世界には妖と人がいて。妖は人を脅かす存在だとも。人は妖に怯え、敬い、巫女を遣わす事で妖からの災難を逃れるのだと。
巫女は妖の世界と人の世界の平穏を維持する大役を担うものだと。
「巫女様、朝食の時間でございます。それからお身体を清めて……巫女様?」
「鳥が……ううん、なんでもない。わかりました」
名前はなかった。
産まれた時から巫女になる宿命だったから。
彼女のことを誰もが敬意を込めて巫女様と呼んだ。
巫女である撫子の世話をしてくれる女房も、巫女としての責務を教えてくれる陰陽師の教師もいたが、撫子は独りだった。親兄妹もなく—— 寧ろ誰もが知っているはずの血の繋がりのことなんて、庭の木々に鳥が巣を作らなければ撫子は知る由もなかっただろう。
けれど、寂しくはなかった、悲しみも苦しみも。
だって何も知らなかったから。
何も、知らなかった。
だれかと共にいる時間が、こんなにもあたたかいものなんて。
それくらい撫子の知っていた世界は小さく狭いものだった。
「—— ん……」
「撫子!?」
撫子がうっすらと目を開ければ、真紅色の髪と金色の輝きが映り込んでくる。起きたての瞳にはチカチカして眩しい。
「……お、大鬼……さま……?」
「嗚呼、嗚呼!そうだ撫子。目が覚めてよかった……本当に……」
「……大鬼様……泣いているのですか……?」
力強く抱きしめてくれる大鬼の顔をそっと覗き込んだ撫子は、頬に触れた。指が落ちてくる涙で濡れていく。それは、温かい一筋の涙だった。
人間は泣かない。それが撫子の常識。
妖が泣くなんてことも聞いたことがないけれど、目の前で涙をこぼしているのだから妖は泣くのだろう。
「どうして、泣いているのですか……?」
「お前が目を覚ましてくれて嬉しいからだ」
「どうして、抱きしめるのですか……?」
「そなたが愛おしく感じるからだ」
「……どうして、撫子と名付けてくたさったのですか……?」
撫子の髪が、優しく大鬼の手でなぞられる。耳に髪をかけられて、指先が肌をほんの少し触れて撫子を擽る。
真っ直ぐにこちらを見ながら、ふ……っと口元を緩ませて大鬼は言った。
「そなたを口無しの巫女ではなく、愛しい者だと感じたからだ。笑わせたいと、慈しみたいと……そう思ったからだ」
「だから……」と大鬼は、撫子の長い髪を指で遊びながら、続けた。
「だから、どうか撫子。いつの日にか……そなたが心の底から笑みを浮かべる日を見せてはくれまいか?」
太陽のように温かい大鬼を前にして、少しずつ、心が綻ぶ感覚があった。小さな花の蕾がゆっくりと開いていくような。
「はい。はい……大鬼様。貴方に、貴方のような心が温かくなるような笑みを……」
言っていて、ほんの少しだけ撫子の口元が綻んだ。
頬はほんのりと紅く染まり、瞳は優しく和らぐ。
「—— っ!?なで、撫子……」
「大鬼様?」
髪色と同じくらい大鬼の顔が赤くなっている。どうしたのだろうかと首を傾げた撫子の表情は、いつものように固い—— 少し柔らかい無表情に戻ってしまっていた。
「い、いや、なんでもない。こほん!ゆっくりでよいのだ。其方の生命は瞬きの如く短いとはいえ、まだ時間はある。待っているから」
再び抱き寄せられた撫子は、頬を大鬼の肩へと置く。優しい声と温かい体温で、いつの間にか心が落ち着いていく。
身体が疲れていたのか、守られている安心感に撫子の瞼が重くなり始める。何度も瞬きをして堪えようとするが、どうやら無駄な抵抗のようだ。
「……よく眠ると良い、また目覚める時まで側にいよう」
「……は……い……」
眠りの世界に落ちていく撫子は夢を見た。
それはきっと、幸せな夢。
隣には大鬼がいて、互いを愛おしげに見つめて唇は綻んでいる。
大輪の花の中、手を重ねて微笑み合い、同じ時を刻んでいた。
そう、これは幸せな夢。でも、いつかくる未来かもしれない。
朧げな夢の中、撫子はそんな事を想った。




