第六十話 主従
天文二十一年(1552)五月下旬 三河国額田郡康生町 岡崎城 石川 清兼
三浦内匠助と言ったか。治部大輔様のご近習の案内に従って着座する。松平の家臣だけでなく近隣の国人の姿が見える。吉良、水野、皆今川方の国人達だ。いつも見慣れた広間が人で溢れている。かなり手狭に感じる。
しばらくすると、今川の家臣団が広間に入ってきた。庵原安房守殿、関口刑部少輔殿等は戦を共にした仲だ。松井兵部少輔殿も三河ではお会いする機会が多い。彼等は一目見て分かるが、他の若い武将達は初めて見る者ばかりだ。治部大輔様の近習達だろう。それにしても松平の城で今川の家臣が上座に座るとは。雪斎殿ならまだしも、近習のような若人にも上に立たれるのは口惜しいな。儂はまだ己を宥めることができるが内藤弥次右衛門殿は大丈夫であろうか。血の気が早いからな。大人しくしてくれればよいが。
今しばらくすると、今川の軍師たる雪斎殿が現れた。賑やかだった広間に緊張感が漂う。儂も含めて今川の家臣以外の者達が頭を下げる。頭を上げると、雪斎殿の後ろに若君のお姿が見えた。松平の家臣から咽び泣く音が聞こえる。分かるぞ。儂も必死で涙を堪える。
若君が岡崎に入られたのは昨日と聞くが、我等は会うこと叶わなかった。この場が優先されたらしい。この後は数日だけ岡崎に滞在される予定だとお聞きしている。
……しかし大きくなられた。それに凛々しい後ろ姿だ。
"治部大輔様のおなーーりー"
治部大輔様の近習が大きな声を上げると、今川の家臣団が一斉に頭を下げた。儂達も続いて頭を下げた。さて、音に聞く治部大輔……。どのような男だろうか。
天文二十一年(1552)五月下旬 三河国額田郡康生町 岡崎城 今川 氏真
朝比奈弥次郎の大きな声が聞こえた後、広間に入って腰を掛ける。
「若殿に置かれましては、対尾張の要たる岡崎の地に足をお運び賜り、臣下並びに国人一同、祝着至極に存じまする!」
「「祝着至極に存じまする!」」
頭を下げたまま兵部少輔が声を上げると、今川の家臣達が唱和して続いた。松平の家臣や国人達がまごつきながら後に続く。伏せながら戸惑っているのが分かる。
さて……と。雪斎にも頼まれたからな。いつも以上に堂々としておらねばならん。腹に力を入れて声を出す。
「苦しゅう無い。皆表を上げよ」
低く、威厳を込めて伝えると、皆がゆっくりと頭を上げた。ドラマではない。封建社会の真っ只中に自分はいるのだと改めて思い知らされる。
流し目で雪斎を見ると、雪斎が恭しく応じた。今川の大軍師たる雪斎が深々と頭を下げる事で、この場の重みが増す。
「治部大輔様にはこれより、この場の皆々にお言葉を賜った後、松平始め、国人の皆に対して個別に親しくお話頂きたく思いまする」
雪斎の仕切りで場が進む。雪斎から話を振られると、皆の視線が集まってきた。
「うむ。先ずは此処に集いし皆の忠義に礼を言う。これからも今川のため、日の本のために励精に努めて欲しい。今、この世は乱れている。それは日の本然り、この三河の国も然りである。俺が思うに、この乱れを正すには旧来の秩序に頼っていては叶わない。武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、七つの徳を実現する。これ則ち天下布武である」
俺が話終えると、静寂が訪れた。雪斎からは威厳を持って俺から訓示をしてくれれば良いと聞いていた。俺の言葉で構わないとも。あまり変な事言えないからな。結局先人に習って見たのだが……。何か反応してくれよ。
「若殿のご決意に唯々感銘を受けるばかりにごさりまする。天下布武のための尖兵として、更なる忠義に励みまする!」
顔があった庵原安房守の目をまじまじと見ると、腹の底から出したような大きな声で安房が応じた。
"某も励みまする"
"拙者も"
安房の決意を口火に他の者が続く。
今川の家臣達が次々に忠誠を誓うと、場の空気にのまれたのか国人達が今川への忠誠を誓い始めた。寝返りが頻繁にされる時代だ。これだけで信用は出来ないが、この一体感の中で忠誠を誓った事は一つの枷にはなるだろう。
国人達に続いて松平の者達が不承不承に従うのが感じ取れた。場の空気を読んで仕方なしに言っている感じだ。相変わらず彼等は松平への忠誠が高いようだ。前世ではこの忠誠心を持った家臣を称える声もあったな。松平が独立大名であれば心強い家臣団と言えるだろう。だが今川の手下である今、主家の嫡男に頭を下げるのを渋る家臣等、竹千代には迷惑だろうな。
醒めた気持ちで竹千代の顔を見ると、竹千代が少し怯えたような顔を見せた後、申し訳無さそうに頭を下げた。
天文二十一年(1552)五月下旬 三河国額田郡康生町 岡崎城 鳥居 忠吉
阿部大蔵殿の案内で竹千代さまが歩まれている。大きゅうなられた。足取りも身体付きもしっかりとされている。人質暮らしとはいえ、食はしっかりと与えられているようだ。
「さっ、こちらにごさりまする」
人目を憚るようにして、とある町家の蔵に辿り着いた。竹千代さまが訝しんでおられる。
「爺、人払いまでしてどうした」
竹千代様が儂に問い掛ける。
「中をご覧下され」
厳重に掛けられた鍵を開けて竹千代さまを招く。儂と大蔵殿に岡崎在住の松平重臣達が続く。
「……これは」
竹千代さまが驚かれている。無理もない。
「刀、槍、弓に鎧まで有るではないか。それに何対も……。これは永楽銭か?如何様にしてこれらを……」
「我等松平家臣一同、竹千代さまがお立ちになる日を待っており申しまする。竹千代さまがお立ちになる時に武具も兵糧も無いのでは行けませぬ。見ての通りご安心下され。この忠吉がしかと充実させて見せまする」
「松平の者達は食うに困る者も多いと聞くが」
「なぁに米に困れば粟を食えばいいのです。稗もありまする。それに松平一党に米を食う余裕があると分かれば、今川は年貢を更に増やしましょう。密かに備蓄して、表の生活を切り詰めればこのように揃えること叶いまする。竹千代さまがいつか岡崎に戻られる時を思えばこそ、我等何も辛い事はありませぬ」
儂の言葉に他の皆が頷く。尤も、今川の取り立ての後に残った年貢で武具をここまで揃えるためには、時には稗や粟を食う程生活を切り詰めねばならぬのは誠だ。皆が苦しい生活を送りながら力合わせて揃えた代物だ。
「……皆の、其の方等の忠義、この竹千代終生忘れぬ」
竹千代さまが武具を見渡し、銭を掴みながら涙を流している。やはり我等は良い主君に恵まれた。
「竹千代さまがお立ちになる日を何年でも待ちまする!」
大蔵殿が声を上げた。左様。竹千代さまが当主としてこの岡崎城に戻られる時まで幾らでも待とうぞ。
「大蔵、私が立つと言うのは私が松平の当主として今川に弓引く時を申しておるのか」
「そこまでは申しておりませぬ。竹千代さまが松平の当主として、松平のために立つ時と思うておりまする」
大蔵殿の言葉に、竹千代さまが微かに笑みを浮かべてお応えになる。
「難しい事を申してくれるな。其の方の言葉を愚直に捉えると、今川に弓引く事になる」
竹千代さまが言わんとしている事は分かる。今や今川は松平を同盟者とは思っていない。間違い無く家臣と思っている筈だ。
「そのようになったとしても、我等は最後までお供致しまするぞ」
「左様。対等な同盟で始まった筈が、このところの今川のやり様は目に余るものがありまする」
「「そうじゃ」」
大蔵殿の決意に他の者が続く。竹千代さまが困ったようなお顔を浮かべている。
「今川は参議様も名君であれば、治部大輔様も聡明であられる。其の方達も見たであろう?治部大輔様は今川譜代を早くも束ねられている。雪斎様も治部大輔様を見て今川は明るいと仰せになる。私が敵う筈もあるまい。これが今川と松平の差よ」
「何を仰せになられまするか!我等は竹千代様が治部大輔様に劣るとは露程も思っておりませぬ。我等の臥薪嘗胆の努力に涙して下さる竹千代様こそ、民の痛みもお分かりになる名君にござりまする」
「「左様!」」
「「そうじゃ」」
「……皆の気持ち、有り難く思う。この竹千代、其の方等の努力を無駄にはせぬ」
竹千代さまが儂達の顔を順にご覧なった。その頬に流れる涙を見て改めて良い主君に恵まれたと思うた。
天文二十一年(1552)六月上旬 駿河国安倍郡府中 望月 まつ
反物をご覧になりながら、御裏方様とお嶺さまがやり取りをされている。さすがは府中で今一番の人気と呼ばれる天文屋だ。品揃えが半端でない。天文屋は治部大輔様の発案で設立された呉服屋だ。荒鷲も何人か人を出している。質が良く、伝統的な模様から歌舞いた模様まで様々な品を取り揃えている。それに"現金掛け値無し"と言う売り方が話題を呼んでいる。
治部大輔様のご指示で、掛け値取引が主流だった呉服取引において、極一部な大口取引を除いて銭によるその場の取引が行われている。貸し倒れを気にしなくて済む分、天文屋の品は安くて質が良いと評判だ。
頭領からお聞きした話では、天文屋ができたはじめは御用商人の友野次郎兵衛尉殿が苦いお顔をされたらしい。だがすぐにこの売り方の人気に目を付けられ、今では次郎兵衛尉殿が上方の支店で現金掛け値無しの売り方をして大儲けしているとか。友野次郎兵衛尉殿が若殿に売り方を真似る許可を求めに行った際、若殿は"法さえ犯していなければ、俺は売り方にまで口を出すつもりは無い。好きにせよ"と仰せになったらしい。天文屋は府中、富士、今橋に店舗を置いていて、上方は友野次郎兵衛尉殿と上手く棲み分けされているようだ。最も、最近は納屋や天王寺屋もこの売り方に着目しているらしい。
「姉上様、こちらの紋様は何と言うのでしょうか」
「それは花菱と言います。赤の色が艶やかに刺されて上方でも人気です」
「花菱……。以前にもお聞きしたような……」
お嶺さまの目線が私に向いてくる。以前にもお聞きしているという意味で頷いて応えると、お嶺さまが残念そうに応じられた。
「まつはよく覚えていたわね」
お嶺さまが不思議そうに私をご覧になる。
「切れ端を頂戴して、このように纏めて覚える様にしております」
私が手提げから覚えのために纏めている和本を取り出すと、お嶺さまが目を輝かせながら眺めていらっしゃる。
「これは良いわね。時々私にも貸してくれると嬉しいわ」
「勿論でございます」
甲斐に嫁がれた後にお嶺さまを支える事になる私には、荒鷲から惜しみ無い支援がされている。切れ端とて手に入れるには銭が掛かる。その切れ端を貼る和本も中々に高価だ。こうした物も手に入れる事ができるのは荒鷲から少なくない銭を受け取っているからだ。
「御裏方様、姫君様、失礼致しまする。御用命のお品が出来上がりました。ご覧下さいませ」
私が作った覚えの本を御裏方様とお嶺さまがご覧になっていると、天文屋の店主がやってきた。上方の訛りがある。店主の塩浜屋恒右衛門殿は洛中で塩の販売をしていたが、戦乱で店が焼けたため草ヶ谷蔵人様に仕えていたところ、この新たな店の店主に抜擢されたらしい。
「綺麗な箱ですね。硯箱でしょうか?」
御裏方様のお付きをされている由比静様がお尋ねになる。静様は大変お優しくて私にも色々と面倒を掛けて下さる御仁だ。荒鷲からもう一人お嶺さまの付き人をすることになったさちにもお優しい。
「義理の母となる三條の方への品なの。お姉さまの助言を参考に、三條家の家紋である唐花を描いてもらったの」
お嶺さまが確認されている硯箱の中央には、唐花が丁度良い大きさで描かれ、漆の色と相まって上品な設えを醸し出している。
「喜んで頂けると思いますよ」
御裏方様が優しいお顔を浮かべてお嶺さまをご覧になる。御裏方様はまだ随分とお若い筈だが、こういうところは大人びて見える。
「……折角お姉さまとも親しくなれたのに寂しくなりますわ」
ふと、お嶺さまが呟いた。場を読んで店主が静かに下がっていく。私が声を掛ける訳にもと戸惑っていると、御裏方様がお嶺さまの手をお取りになった。
「私も寂しゅう思います。文をお書きしますから、お嶺さまも書いて下さいませ。それにきっとまたお会いできる日が来ます」
御裏方様の言葉にお嶺さまが頷いている。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。もうすぐ溢れそうだ。いけない。私も目が潤んできた……。




