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00-131 セスジネズミ【処刑】

過去編(その82)です。

 アイが同じ言動を繰り返し始めた時は戸惑ったが、二度三度と定型文を聞くうちに、どこまで続くのか見届けてみたくなった。

 しかし長めの停電の後で復旧したアイは今度こそ、滞りなくセスジネズミを処刑台まで導いた。セスジネズミのささやかな願望も、どうやらここまでのようだ。


「セスジネズミは前に進んでください。できますか? アイがお手伝い…」


「できる」


 セスジネズミは半歩踏み出して止まった。処刑用の吊り紐が近づく。


「セスジネズミは顔を前に突き出してください。できますか? アイが…」


 競うようにセスジネズミは指示より早く行動に出る。せめぎ合ったところで敗北は確実なのに。


 アイが無音で吊り紐の高さを調整した。硬い輪が真正面を向くセスジネズミに迫り、通過し、そして視界から消える。セスジネズミは瞼を閉じた。


 ああ。


 それだけだった。

 思い出したい顔も、悔やまれる行いも、やり直したい出来事も、大体全部反芻し尽くしていた。決めた覚悟も逃げ出したくなった衝動も、こうも何度も繰り返されては全てが間延びする。今度こそ死ぬのか、と怯える度にはぐらかされ続けてきたセスジネズミの決心は、鈍って濁って霧散した。今となってはやるのかやらないのかはっきりしてくれ、という苛立ちと、やっとやるのか、という開放感さえ覚えている。


「セスジネズミ?」


 まだ何か言うらしい。それともまた繰り返しか? 息を吐いて瞼を開けた時、目の前には見ず知らずの女が光っていた。セスジネズミは呆気に取られて瞬きする。

 女は悲しげにも嬉しそうにも見える微笑みで首を傾げ、その手をセスジネズミの頬に添わせた。誰だろう? 考えられるとすれば、


「………アイ?」


「大丈夫ですよ」


 何が?


「また会えます」


 誰に? と尋ねかけたが、女の顔を見ているうちに何かが妙に腑に落ちて、


「うん」


 セスジネズミは理由もなく頷いていた。


 女が覆いかぶさってくる。抱きしめているつもりなのだろう、本物の抱擁とはかなり違うけれども。慰めのつもりなのか、後頭部まで撫でているようだ。必死な物まねがなんだか無性におかしくて、セスジネズミは目を閉じた。不思議な心地良さに自身の置かれている状況さえ忘れかけた時、足元が抜けて全体重が喉にかかった。


 セスジネズミのつま先がばたつく。床を探して必死に足掻く。手指は自身の首元で慌てふためき、吊り紐に爪をかけて剥がし取ろうと自身の皮膚を掻きむしる。しかしそこにセスジネズミの意思はない。身体が反射で動いている。セスジネズミ自身に痛みはない。感じない。わからない、何も。そういう身体だから。ハタネズミの薬が入っているから。足掻く自分の身体をどこか遠くから眺めているような錯覚。同時に何とかして逃れねば、という無駄な願望。無感覚の身体の中でセスジネズミには感じることができない生存本能だけが、必死に活路を探し続ける。


 こぼれ落ちそうなほどに剥き出る眼球と舌根、その縁から滲み弾けるのは涙と唾液、鼻汁もかなり。暴れ狂うセスジネズミの身体をそれでも、女の形をした空気の塊は包み込む。アイだな、きっと。セスジネズミは思った。思っただけだ、考えることまでは届かない。


 痙攣し始めたつま先から色のついた体液が滴り始めた。セスジネズミは何も感じない。感じない。聞こえない。見えない、何も。


 吊り紐がそれまでとは違う振れ幅で震える。左右の黒目が各々で別方向を向き、完全に白目を剥きかけた時、セスジネズミの足裏が何かに乗り上げた。


「せージッ!!!」


 セスジネズミの身体が持ち上がる。鬼の形相をしたハツカネズミが、肢体に仲間のネズミたちをくっつけて、鬼のような腕力で踏み台の下から這い登ってくる。セスジネズミの足を掴んで必死に持ち上げようとするのはヤマネ。しかしアイも黙ってはいない。周囲の空気をかき集め質量を増し、押さえつけんとする。ハツカネズミたちもろともセスジネズミの首に重みをかけて窒息または骨折を画策している。セスジネズミは動かない。ヤマネがヤチネズミがカヤネズミが呼びかけるも返事をしない。アイの圧力が増していく。次の標的は同じく死刑囚のカヤネズミだ。ヤマネやヤチネズミとは明らかに違う圧縮空気がカヤネズミを包む、潰す、酸素を奪う。


「カヤさん!?」


「カヤ!!」


 返事などできるはずがない。血走った目と真っ赤な歯茎がカヤネズミの苦痛を物語る。ハツカネズミも押されている。セスジネズミは動かない。カヤネズミもやがて…、


「アイぃッ!!!!」


 ハツカネズミの怒号が轟いた。それが彼の何を刺激したのかは誰にもわからない。だがそれが彼を突き動かしたのは事実だったろう。


 ハツカネズミに肩車されていた子どもが突如動き出した。ヤチネズミはその動きを目で捉えただけだ。ヤマネは辛うじて片手を伸ばしたが、子どもはその手をすり抜けヤマネを踏みつけセスジネズミの身体をよじ登っていく。


「おいお前!」


 ヤチネズミは叫ぶ。危ないやめろと止めようとするが、名前がわからないから呼びようがない。子どもが自分を離れていった感覚もわからないハツカネズミは「何? どうしたのヤチ!?」と頭上の騒動を不安がる。


「餓鬼が! あいつ勝手にセージを…」


「え? なに? わかんない!!」


「たまにはわかれ!! とにかくあのがきが…!」


「カヤさん! 息してカヤさん!」


「カヤがどうしたの? セージは?」


「どっちもやばいッ!!」


 ヤチネズミが死刑囚たちの状況を一言で伝えた。ハツカネズミは目を見開く。アイに打ち勝たんと地鳴りのような声を発しながら、穴から処刑台に這い上がろうと全身の筋肉をさらに盛り上げた。アイも引かない。周囲の空気が渦を巻いて集約される。処刑室の内壁が音を立てて凹む。拮抗する両者の間でヤチネズミたちは呻き声を上げる。ハツカネズミの力をもってしてもアイを打ち破ることは出来ないのか。ハツカネズミの食いしばり過ぎた前歯が根本から折れて飛んだ。


 だがハツカネズミの悪あがきは確実にアイを追い込んでいた。男たちの怒号と雄叫びへの対応に、アイの処理機能はかなりの容量を使わざるを得なかった。男たちの脇を伝って動く小さな影を、脅威と見なしつつも対処不要とした。対処しきれなかった。


 泣き叫ぶヤマネの横と上で息も絶え絶えのカヤネズミとセスジネズミを支える吊り紐に、子どもがついにたどり着く。また足癖悪く誰かを蹴るのか? とヤチネズミが見上げた時には、子どもは自らもぶら下がる吊り紐に向かって大きく口を開いていた。現場を目にしたヤチネズミは絶句する。ハツカネズミに伝える間もなく、子どもはその丈夫な白い歯で吊り紐を噛み切った。


「ど…ッ!!」


「…ばっ!!」


「え、なにッ!!!」


 一直線に吊られていたセスジネズミの身体が傾き宙に浮く。引きずられるようにヤマネも傾く。ヤチネズミはヤマネの上着を握りしめるが、握っただけで意味はない。仰け反るように折り重なる三つの身体にカヤネズミの体重も追加されて処刑台の抜けた床に向かって倒れていくのを、ようやく目で見て事態に気付いたハツカネズミが掴んだ。ハツカネズミは自身が引きずられるより早く、仲間たちを力任せに投げ上げる。処刑台の抜けた床穴から打ち上げられた死刑囚とその一団は、床に打ち付けられるなり四方にばらけた。のたうち回るのはヤマネとヤチネズミ、息を吹き返し、咽てえづいて汚らしく唾液を光らせたのはカヤネズミ、それらを追うように這い上がってきたハツカネズミは真っ先にセスジネズミに駆け寄った。


「セージ!!」


 カヤネズミも顔を上げ、口元を拭いながら歩み寄る。


「セージ! セージ!!」


「せー…」


「どけ」


 這いつくばったヤマネを押し退けて、ヤチネズミが自身の負傷も痛みも忘れて駆けつけた。吊り紐が巻かれたままの首筋に指を当て、後輩の口元に耳を寄せる。近づいてきたヤマネが驚いて退くほど勢いよく起き上がると、その勢いのままセスジネズミの胸に両手を置いて全身運動で叩き始めた。

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