00-126 オオアシオガリネズミ【恩返し】
過去編(その77)です。
「『足手まとい』だって」
カワネズミが地面に向かって呟いた。
「今のお前の怪我なら仕方ないだろ」
ドブネズミは声をかけてやるが、
「『今』のことだけを言ってたわけじゃないと思います」
ワタセジネズミも項垂れて言う。
「ハツさんて俺らのことあんな風に思ってたんだ」
カワネズミがさらに言って苦笑した。
「当然って言えば当然っすよね。俺ら掃除なんてまともにやったことないしいっつもハツさんの成果のおこぼれもらってただけなんだし」
完全に拗ねている。違うか、とドブネズミは思う。自分も含めて皆、自覚はあったのだ。ただこれまでハツカネズミが面と向かって何も言わなかっただけで、その優しさに甘えていただけで、本当は誰もが知っていた。ハツカネズミにとって部隊員は足枷でしかない。だが以前のハツカネズミはあんな風に誰かを傷つける言い方はしなかった。わかっていても、暗黙の了解で何もかも見て見ぬ振りをする器量があった。変わってしまった原因は、やはり自分が入れたムクゲネズミの薬のせいかとドブネズミは後ろめたさを覚える。
「……オオアシ?」
ワタセジネズミが辛うじて自由の利く眼球を動かした。その視線の先をドブネズミも見遣る。置いてけぼりを食らわされて落ち込む仲間たちの中で、オオアシトガリネズミだけは顔を上げ、塔の外壁の中に腕を突っ込んでいた。カヤネズミの補助もないのにたった二本の腕だけで作業を続けている。
「やめとけオオアシ、ハツさんに『もういい』って言われたろ」
ドブネズミは上官としてでなく、古い馴染みの年長者としてオオアシトガリネズミに作業は不必要だと教えてやる。
「セージもアカネズミさんもカヤさんたちが何とかしてくれる。俺たちはこれ以上、足引っ張らないようにどこかに隠れて…」
「ブッさんたちは先に行ってくれていいっすよお? 俺はまだやることあるんで」
振り返りもせずにオオアシトガリネズミが口答えした。こいつは昔からこういうところがある、ドブネズミは眉間と顎に皺を刻む。
「よくないから言ってるんだ。いいから早く手を止めろ。今すぐ移動する」
今度は上官として、少し厳し目に諭すが、
「移動っつったってまともに動けるのはブッさんだけじゃないっすか〜。カワさんはぎり歩けるみたいっすけどワタセは電池切れっしょお? タネジジさんたちも運ばなきゃだしどうせ一度には行けないんだから、俺はいいですって言ってんすよお」
「電池切れって言うなよ」
アイの部品扱いされたワタセジネズミが不服を訴えるが、正論を並べるオオアシトガリネズミは余裕の表情で片頬を持ち上げた。
「ワタセはここって時に狙ったみたいにへばるよな〜」
「ぁあ!?」
「ワタセ」
カワネズミが後輩をなだめ、ワタセジネズミは押し黙る。しかし憤慨に燃える視線はオオアシトガリネズミの背中に注がれたままだ。
「お前も感じ悪いぞ、オオアシ」
カワネズミが同室の後輩のために、先輩ぶってオオアシトガリネズミを注意したが、
「カワさんってハツさんの前ではぜったいそういう顔、見せませんよねぇ〜」
オオアシトガリネズミがさらに言ってへらへらと笑った。今度はカワネズミが舌打ちして詰め寄る。
「やめろ」
ドブネズミはカワネズミの胸前に手をかざす。カワネズミがもの凄く何か言いたげに見上げてきたが目配せで下がらせて、いまだに手を止めないオオアシトガリネズミの背中を見つめた。
「お前の言う通りだ。俺だけじゃ一度に全員は運べない。ありがたくお前は後回しにさせてもらう」
「了解しましたぁ〜」
相変わらず振り向きもしない不謹慎な明朗さの背中に目を細めて、ドブネズミは眠りこけるタネジネズミとジネズミを抱え上げた。
ワタセジネズミには申し訳無いが、カワネズミが引きずる方向で行かせてもらう。砂の上だし多少の傷はワタセジネズミならば問題ないだろう。頭部と頚椎だけは気をつけるようにカワネズミに言い含めて歩きだそうとした時、
「おじさんどこいくの? ちけんもどるの? キュウジュウキュウは?」
背中の子どもが再び喋り始めた。少し黙ってろと言いつけたのにあれから何分もった? これはアイでないと世話できないなと、ドブネズミは苛立ちを鼻息で押し留めながら、
「戻らない。あっちの無愛想は別の『おにいさん』たちがむかえにいった。そして俺もおじさんじゃないと何回も言ってるだ…」
「おにいちゃんはいかないの?」
ようやく呼び方を覚えたかと振り向くと、子どもが話しかけていたのはオオアシトガリネズミだった。オオアシは『おにいちゃん』なのか……。
「お兄ちゃんはやることがあるからまだ行けないんだよ〜」
オオアシトガリネズミは相変わらずへらへらしながら子どもに返事をする。
「お前が勝手に来ないだけだろが」
カワネズミが憎々しげに言う。
「なんでいかないの?」
子どもが無邪気に尋ねる。
埒が明かないとドブネズミは咳払いし、「行くぞ」とカワネズミに指示を出したが、
「お兄ちゃんはねぇ〜、ご恩を返さなきゃいけないんだよぉ」
オオアシトガリネズミが子どもに理由を話し始めた。ドブネズミの背中に背中合わせで括り付けられたまま、子どもは遠ざかっていくオオアシトガリネズミを見つめて話しかける。
「『ごおん』ってなあにぃ?」
子ども相手に難しい言葉で喋るなよ、と内心悪態をつきながら、ドブネズミたちはオオアシトガリネズミから離れていく。
「助けてもらった感謝の気持ち、かなあ?」
オオアシトガリネズミの説明に子どもはきょとんとする。理解出来ていないと気づいたのだろう、オオアシトガリネズミは子どもに背を向けたまま、さらに噛み砕いた説明を始めた。
「お兄ちゃんねぇ、一回死んじゃったんだあー。でも助けてもらって今まだ生きてるんだよねぇ〜。その助けてくれたおじさんから今度は『助けて』って泣かれちゃったんだよぉ」
カワネズミが立ち止まった。ワタセジネズミが目だけでオオアシトガリネズミを見遣る。
「借りたもんは返せって、基本中の基本だからねぇ」
「時と場合によるだろ」
ドブネズミも立ち止まり、背中越しに反論した。
「今はカヤさんたちの足を引っ張らないように出しゃばらないことが最優先だ」
「だったらブッさんは一生、カヤさんの後ろで控えてないとっすねぇ〜」
オオアシトガリネズミの嘲笑に、ついにドブネズミは振り返った。
「時と場合によるだろ!」
「その『時』はいつか来るんすかぁ?」
カワネズミが振り返る。
「どんな『場合』になったら動くんすかねぇ?」
そこまで言うとオオアシトガリネズミは初めて手を止め、ドブネズミたちに顔を向けた。
「俺は今がその『時』で『場合』だと思います」
それだけ言うとまた、いつもの顔に戻ってへらりと笑い、「俺にとってはってだけっすけどねぇ〜」と背を向けた。
「かえしたいの?」
子どもが背中でじたばたと手足を動かす。オオアシトガリネズミに向き合いたいのかもしれない。
「したいことすればいいんだよ〜」
オオアシトガリネズミが答える。
「ならおれ、おかあさんにあいたい!」
子どもがひときわ大きく言った。
「おとうさんとおかあさんにあいたいからあっていいの?」
「いいんじゃないのお?」
「でもアイがだめっていうよ?」
「アイはいろいろ制限するからねぇ」
オオアシトガリネズミはしみじみと呟く。
「おれね、おにいちゃんになったの。『おとおと』か『いもおと』がきたの。そしたらアイがね、『ねずみ』になりますっていったの」
「お前、ネズミなの!?」
カワネズミが仰天して子どもに尋ねる。
「うんでもね、そのあとアイがちけんしますっていったの」
「ネズミなのに?」
とワタセジネズミ。
弾かれた類だろう、とドブネズミは気付いた。子ネズミの中にはある日突然、アイに連れて行かれる者もある。そいつの行く先が治験室だったことをドブネズミが知ったのはつい先刻のことなのだが。
傍らでカワネズミも神妙な顔になる。こいつも気付いたらしい。ワタセジネズミだけが事情を察せずに子どもに尋ね続けている。
「すっごく下のかいにいったときも、ちけんのへやでも、おれいつおかあさんたちにあえるの? ってずっとアイにきいてたけどアイはあえませんっていったよ。でもおれあいたいからあいにいっていい?」
「俺に言われてもねえ……」
オオアシトガリネズミはすでに上の空だ。話を振ったのはお前だろ? 最後まで付き合ってやれよとドブネズミは鼻筋に皺を刻むが、ドブネズミにも子どもの話はよくわからないから、それ以上何かを突っ込んで聞いてやることも出来ない。ただこの明朗で活発な子どもが、その明るすぎる性格故に、塔の中を盥回しにされてきただろうことだけは確かだった。当の子ども自身がその不幸を自覚出来ていないことだけが救いかもしれない。
「でもさあ、」
ドブネズミが首をひねって子どもの横顔を見つめていると、子どもの話に飽きたと思われていたオオアシトガリネズミが再び語り始めた。
「本当にやりたいことならやればいいんじゃないのかなあ〜、……と、お兄ちゃんは思うよお?」
「でもアイが…」
「誰かに駄目って言われて諦める程度やら大してやりたくないことなんだねぇ」
ドブネズミは唇を固く結ぶ。
「そんなことない! めちゃくちゃやりたいことだよ! おれおかあさんにあいたい! だっこしてほしい! おとおとかいもおととおとうさんの…」
「だったら諦めんなよ」
オオアシトガリネズミが突然低い声を発したから、子どもだけでなくカワネズミやワタセジネズミまでびくりとして静まった。
「と、お兄ちゃんは思うけどねえ〜?」
いつもの口調に戻ることで子どもを突き放し、オオアシトガリネズミは質問攻めを強制終了させる。ドブネズミの背中では出会って以来、子どもが初めて静かに涙ぐむ。
「……お前のやりたいことって?」
ドブネズミは子どもに代わって質問した。カワネズミとワタセジネズミは自分を見上げてきたが、尋ねられたオオアシトガリネズミだけは相変わらず背を向けたままで、
「特にないっすねぇ〜」
いつものようにへらへらとはぐらかしてきた。
こういう奴なのだ、昔から。ドブネズミは三度、鼻筋に皺を刻むと、今度こそこのふてぶてしくて舐めた態度の嫌な奴を置いていこうと踵を返した。
「あ、でもぉ、」
返したのに! その途端にこうしてまた後ろ髪を引きやがる!
「まだ死にたくはないっすねぇ〜」
またそれか。
「行くぞ、カワ」
「あとぉ、」
「カワ!」
「は、はい」
「まだ死んでほしくもないっすね」