00-125 ハツカネズミ【無駄】
過去編(その76)です。
「何? ヤチ…」
掴まれた腕を振り払おうとしたハツカネズミに、
「あれ……」
ヤチネズミが闇の中の地平線に目を凝らして言った。カヤネズミも立ち上がり、二、三歩進んで目を見張っている。ハツカネズミも黒い稜線を見つめるが、迫りくる集団がどこの誰かはわからない。しかし見慣れたその影は間違いなくネズミの編隊だ。
「ど、どどどどこの部隊っすか!?」
「知らねえって! 俺に聞くなよ!」
「なんだってこんな時に!」
「アイの招集?」
カヤネズミの声に全員が振り返り、ヤチネズミが目を見開いた。
「ブッチーが生産隊をこてんぱんにしたんだ。アカだって『呼び出し食らった』って言ってたし…」
「ブッチーのせいにするなよ! もとはと言えばお前が後先考えないでバカこいたせいだろが!」
「カヤさん、今はそんなことより…」
「オオアシ」
ハツカネズミはオオアシトガリネズミに呼びかけた。わたわたと騒ぐ年上たちの中でも、オオアシトガリネズミは真剣な眼差しで手を動かしながら、
「あと三分ください」
額の汗もそのままに早口で答えた。しかし、
「いやいい、そのまましといて」
ハツカネズミの依頼にオオアシトガリネズミが怪訝そうに振り返る。
「いやでも…」
「アカは!?」
ヤチネズミがオオアシトガリネズミを遮って、ハツカネズミの上着の裾にしがみついた。
「アイに起きてもらわないとアカのちりょ…」
「処刑室ってどこかわかる?」
ハツカネズミはヤチネズミを無視し、再びオオアシトガリネズミに呼びかけた。びくりとして咄嗟には答えられなかったオオアシトガリネズミに代わって、カヤネズミが答える。
「このまま壁伝いに行って線路にぶち当たったらそれ超えたところに壁がある。その壁の向こうが車庫群だ」
「向かって左手の十一番目から七番目の扉は廃棄物の搬出口だったはずです」とドブネズミ。
「どれかが残飯、どれかが不燃物、どれかが排泄物で最後のどれかが埋葬待ちの遺体安置所。処刑室はそこに直結してる」
「安置所から遡っていくってことすか?」
カワネズミの質問に、ドブネズミが頷く。
「わかった」
説明を暗記するようにして聞いていたハツカネズミが顔を上げた。
「ハツ…?」
「ひとっ走り行ってくる。ヤマネとセージ連れてくるからみんなは隠れて待ってて」
「ブッチーに任せとけって」
すかさずカヤネズミが声を張る。
「ブッチーは道も間違えないし無謀なバカもしない。アイは俺とオオアシが何とかするからお前は動くなって…」
「この時間が無駄なんだよ」
カヤネズミが押し黙る。掃除前のハツカネズミを思い出して息を呑む。
「カヤの作戦はまどろっこしいしブッチーは疲れ切ってる。カワとワタセは足手まといだし三分なんて待てない」
カヤネズミは視線を逸らし、見抜かれたドブネズミも俯く。カワネズミとワタセジネズミに至っては肩を竦めてオオアシトガリネズミは手を止めている。
「目的はセージだろ。アカは絶対死なないから多少ほっといても大丈夫だよ」
「大丈夫って……」
不安がったヤチネズミをぎょろりと見下ろして、
「大丈夫だよ」
脅しじみた言い方にヤチネズミも口を噤む。
「要はアイにも生産隊にも見つからないでセージを奪還すればいいだけの話じゃん。だったら大所帯より俺だけの方が動きやすい」
酷い暴言だ。屈辱的でもある。全員邪魔だと言い放ったようなものだ。だがハツカネズミの高慢さを咎められる者はいない。ほとんど全ての地下掃除をハツカネズミに頼り切っていた部隊だ、突きつけられた言葉は真に事実で重く肩にのしかかる。唯一、率先して掃除に加わろうとしたヤチネズミを除いて。
「俺も行く」
ヤチネズミが片足で立ち上がった。
「ヤチも待っててよ……」
喧嘩腰の覚悟の視線にハツカネズミは唇を閉じた。
「俺も行く」
カヤネズミも歩み寄ってきた。
「方向音痴と運動音痴には道案内が必要だろ?」
むっとして眉をひそめたハツカネズミに背を向けて、カヤネズミはドブネズミを見つめた。ドブネズミは今度こそ何も言わず、下顎に力を入れて頷いた。
「カヤは残れよ。子ネズミたちだけじゃ心配じゃん」
ヤチネズミが真面目に提案したが、
「お前らだけの方が心許ないって」
言うと先陣切って駆け出した。
ヤチネズミが片足だけで後を追おうとする。なんでそこで格好つけるんだよ、とハツカネズミはため息をつき、同室の同輩の無駄な努力を絶ち切り強制的に背中に負ぶう。何かを言いかけたヤチネズミの顔も見ないで、
「時間無いって言ってんじゃん」
ハツカネズミは短く言った。怒られたとでも思ったのか、ヤチネズミは唇を閉じると斜めに俯く。泣きはしないよね? とハツカネズミがちらりと背後を覗った時、
「さっきのは言い過ぎじゃね?」
ヤチネズミがぼそりと呟いたから、ハツカネズミは完全に振り返った。
「『さっき』って?」
「『足手まとい』はないだろ」
カワネズミたちへの牽制を批判したいらしい。
「カワもワタセも泣きそうな顔してたぞ」
「そんなこと言ったって、」
事実だし。
「お前がムクゲからあいつらを守ってきたことは認めるよ。でもだからってカワたちにあんな言い方することないだろ」
こんな時に説教って、とハツカネズミはうんざりする。でもここでまともに言い合いなどすれば、ヤチネズミがまた泣き出すことは目に見えている。ハツカネズミは背後に気付かれないように小さく息を吐くと肩を竦めて見せた。それから上目遣いで、
「ごめん、ヤチ」
言ってくしゃりと笑顔を向ける。怒った時のヤチネズミにはこれでいい。下手に出れば顎を上げ、「仕方ねぇな」と上から目線になって満足するのだ。しかしなぜかこの時ばかりはいつもの流れにならなかった。ヤチネズミは口では小言を言っていたが顔は怒っていた訳でもなく、どんよりと沈んだ視線を向けていた。むしろ泣きだしそうにも見えたその顔が不意に下を向き、ハツカネズミは、あれ? と首を傾げる。
「その件に関しては俺もバカに賛成だ」
横を走るカヤネズミが割り込んできた。『ばか』が多すぎて誰を指しているのか分かりづらい。ハツカネズミは呆れ顔を向ける。
「時間が無いってのも全員が動く必要ないってのも正論だけどな、正論を正論のまま言われたらみんな泣くって」
カヤネズミは子ネズミを叱りつけるような口調で咎めてくる。
「そこをうまーく、やさしーく、さり気な〜く気付かせてやるのが年の功ってやつじゃね?」
背中のヤチネズミもうんうんと同意する。ハツカネズミは「だって」と言いかけてから口を閉じた。
「『だって』何だよ」とカヤネズミ。
せっかくこの話題は切り上げようと思ったのに、とハツカネズミは眉根を寄せる。しかしそこまで言わせたいなら言わないでおこうとする自分の思いもまた無駄だとハツカネズミは判断し、
「気遣いに割く時間が無駄じゃん」
カヤネズミが目を見張って口を閉じた。