00-122 ドブネズミ【責任】
過去編(その73)です。
靴裏で砂の感触を味わった時、思わずドブネズミは安堵の息を漏らした。かなり長い下降だった。落ち着きのない子どもと静かだが聞きわけのない子どもを背中に縛り付けて、塔の外壁を伝って下りてきたが、途中何度もコジネズミに蹴られた脇腹と腕が悲鳴を上げた。おそらく自分だけでなく、ワタセジネズミたちもかなりの重労働だっただろう。カワネズミ、ジネズミ、ワタセジネズミにヤマネ。ヤマネは嘔吐しそうなほどに呼吸が乱れているが、それでも誰が欠けることも無く安全地帯に至れた幸運に感謝する。カヤネズミが身を呈して逃がしてくれたお陰だ、カヤネズミが……。
―まだ死なないって―
耳打ちされた言葉を思い出して鼻の奥が熱を帯びた。まだっていつまでですか、と漏らしかけた質問に唇を噛みしめる。誰もいないのだ、自分以外には。ヒミズも逝ってしまった。あいつの分もカヤネズミの期待に応えなくてはと息を吐く。
「まだ終わってないぞ、立て」
後輩たちを鼓舞して自分も立ち上がる。ヤマネが何か言いたげな視線をよこしてきたが、背中の子どもたちを顎で指してから睨みつけると、首を竦めてそっぽを向いた。
「カワさん、ジさん」
走れない先輩を再び抱えようとしたワタセジネズミが体勢を崩す。「あれ?」と言いながら砂に手をつき身を起こすが、肘から崩れて倒れ込む。
「ワタセ…?」
「ブッさん、すんません」
ワタセジネズミが困った顔を上げた。
「力尽きたかもです」
ワタセジネズミには複数の薬が入っている。ハタネズミの薬のおかげで感覚は鈍化し、トガリネズミの薬のおかげで怪我の治癒も並外れて早い。コジネズミの薬があるからこそ、カワネズミとジネズミを負ぶって塔を降りてくるなどという芸当もできた。しかしハタネズミの薬のせいで疲労に気付けず、トガリネズミの薬による再生とコジネズミの筋力増強には体力を消耗する。ゆえに突然、運動不能に陥る。
「今ぁ?」
カワネズミが後輩の体たらくに声を上げ、ワタセジネズミがさらに項垂れた。
「ワタセのせいじゃない」
「そうっすけど……」
ドブネズミに注意されたカワネズミは顔を背けて貧乏ゆすりする。そして、
「ジッちゃん?」
隣のジネズミを揺すった。ドブネズミは目を疑う。
「ジッちゃんが寝ました!」
カワネズミが青い顔で報告してきた。
「今か!?」
カワネズミを注意した直後に自分も同様な発言をしてしまい、慌てて口を噤んだ。
ジネズミとタネジネズミは睡眠時間が極端に少ない。おそらくクマネズミの薬かその派生だろう。完全な不眠だったクマネズミやカヤネズミとは違い、ジネズミたちは不完全な不眠だ。普段は寝ない。ドブネズミが寝る時も起きた時もいつも起きている。不眠不休で動き続けるのが常だからつい忘れがちになってしまうが、時々こうして事切れたように突然眠る。そしてしばらくは何をしても目覚めない。
「仕方ないっすよね。ジッちゃんのせいじゃないっすもんね」
カワネズミが自分に言い聞かせるように言った。
ドブネズミは後輩たちを見回す。ワタセジネズミは動けない、ジネズミは起きない、カワネズミはまだ重症で立っているのは自分だけだ。
「すんません」
ワタセジネズミが悔しそうに言う。
「ジさんが寝てても俺が動ければ何の問題も無いのに」
「お前のせいじゃない。ワタセはよくやった」
ドブネズミは慰めの言葉をかけるが、現実はその通りだった。
どうする? ドブネズミは顎を引く。カヤネズミならばこの場合どう動く? 状況を打破するきっかけを、瞼を閉じて必死に探す。カヤネズミならばどうするか、ヒミズならば何と言うか。
―頼りにしてるよぉ? ブッさ~ん―
面倒臭くなると他の奴を持ち上げて、責任を押し付ける調子のいい奴だった。
―大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ。困った時は笑っとけ!―
クマネズミの遺してくれた言葉は、印象には残っているが実用性を欠いている。その言葉を実践し続けているカヤネズミに対して、可笑しいことがないと笑うことが出来ないドブネズミは項垂れた。
「ブッさん……」
ワタセジネズミとカワネズミとジネズミを抱えて行けるか? 無理がある。ドブネズミ自身も両手が既に痺れてきている。
「ブッさん、」
背中の子どもを捨てて行くか? 背中が空けばもしかしたら。そこまで考えて頭を振る。騒がしい子どもには既に懐かれ始めていた。髪の毛を引っ張って頭を叩くその手を払って捨てて行くなど、ドブネズミには出来ない。
「ブッさん!!」
考え事の真っ最中の視界のど真ん中に突然ヤマネが現れた。見ると腕まで掴まれている。
「ブッさんは……、たちは、こ…こで、待っててくっさい。おれ、行ってきます」
「ヤマネ……」
「お、おるぁまだ、……動けますよ?」
息を切らせてふらふらの奴が、
「無理だろ」
ドブネズミはヤマネの提案を却下した。どう考えても無理がある。期待出来る要素がない、不安しかない。
「なんでっすか!」
「場所わかるか? 体力もつか? 生産隊に捕まらない自信は? アイから逃げる算段は? お前がセージを助けられるっていう根拠は! ないだろ、全部」
ヤマネは唇を噛んで項垂れる。
「出来ないことを出しゃばるな。今、考えてるから少し待ってくれ…」
「できる、…じゃなくて、」
俯いたと思っていたヤマネが顔を上げた。
「出来る出来ないじゃなくて、やるかやらないかだって…!」
一度咳込んでから、
「……ヒミちんが、言ってばした」
落ち込んでいたのではなく、意思を固めていたのかもしれない。珍しく鼻息荒く本気で真面目な顔のヤマネにドブネズミは言葉を失う。
「俺、あいつに会わなきゃ、言わなきゃなんない……で。黙って…、いかせら、れないんだすぅ!」
言うとヤマネは飛び出した。
「ヤマネ!?」
カワネズミの呼びかけにも答えずに一目散に駆けて行く。
「あのバカッ」
セージの居場所も知らない癖に! ドブネズミは急いで胸元の負ぶい紐をほどいて子どもたちを地面に下ろした。
「カワたちはこいつら見てろ。俺はヤマネを…」
「ブッさん!」
指示の最中にワタセジネズミが彼方を指差し悲鳴を上げた。最後まで聞け! とドブネズミは怒鳴りかけたが、子どもの声が遠ざかっていくことに遅ればせながら気付いて振り返る。
「な……」
無口で無愛想な子どもはヤマネの後を追って、常に何かを喋っている多動気味の子どもは全く別の方角に向かって、各々好き勝手に走り去っていく。
「ぅおおおい!!」
ドブネズミの雄叫びは空しく、夜の中に吸い込まれた。どうする? どうする? 考えるまでもなく、
「待ってろあいつら捕まえてくる!」
それだけ言い置いて、ドブネズミは嬉しそうに笑い声を響かせながら駆けて行く落ち着きのない方の子どもをまず追いかけた。
* * * *
「待ってろって……」
取り残されたカワネズミはおろおろと周囲を見回す。万が一に備えて、と何かを探すが何も無い。ろくに動けない身体と全く動けない後輩と、居眠り中のジネズミを抱えてどうしろというのか。
「ぶ、ブッさぁ~ん……」
弱々しく頼みの綱の名を呼ぶが、既に子どもの声さえ聞こえない。何も聞こえないということは生産隊もいないということだからむしろ安全と言えば安全なのかもしれないと自分を鼓舞しかけたが、
「……なに?」
ワタセジネズミの間抜けな顔にびくりと肩を揺すった。ワタセジネズミは黙って黒目を右に寄せる。ワタセジネズミの目配せの言うとおり、何かが近づいて来る気配に、カワネズミはさらに肩を竦めて、
「ジッちゃぁん……」
起きないと知りながらジネズミを揺すった。
なんだ? 誰だ? 今度はどこから……。
音と気配は上方からだった。カワネズミとタネジネズミが同時に空を仰ぐと、見慣れた騒がしい塊が、塔の壁面沿いに地面に向かって落ちてきた。