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00-48 トガリネズミ【薬】

ネズミ視点の過去編です。


「ヤチ! 漏らしてるよ、そいつ」


「え? あッ!」


 見ると今まさにおむつを替えたばかりの子どもが、秒で次の産着を汚していた。


「うわあ……」


 しかも大の方だ。臭いと自分の手にもついていた不快感と後始末の面倒にうんざりする。


「アイ、ちゃんと教えてよ」


 ヤチネズミはアイに八つ当たりしたが、


「排便量は摂取量以下、色、形状ともに正常、健康です」


「そういうこと聞いてるんじゃなくて…」


「早く替えてやれよ。かわいそうじゃん」


 シチロウネズミが笑いながら窘めてきた。片手には哺乳瓶、小刻みに振って中身を冷ましている。無関係だと思って……。ヤチネズミは隣のにやけ顔を一瞥した。


「ヤッちゃんはほんっと手際悪いよね」


 アカネズミが苦笑しつつ近づいてきた。「替えとくよ。着替えてきなって」


 言われてみると手だけでなく自分の衣服も汚されていた。


「でもアカだってまだ」


 アカネズミの担当の子どもたちをヤチネズミは見遣る。


「じゃあそいつらは俺が見とく」


 そう言ったハツカネズミは負ぶった子どもを全身で揺らし、さらに腕にも子どもを抱えていた。ハツカネズミにあやされるとどの子もすぐに機嫌が直る。


「そっちも服、汚してるって」


 アカネズミに指摘されたハツカネズミは「ええ?」と間抜けな声を発しながら首を回し、背中の子どものよだれの量に「ぅわあ!」と驚いてたたらを踏み、体勢を崩しかけて踊っている。


「うるさいよ、ハツ」


 シチロウがげらげら笑い、


「ハツはほんっとに賑やかだなあ」


 アカネズミも失笑し、


七一(ナナジュウイチ)が目を回しています。ハツカネズミは落ち着きましょう」


 アイが注意して、


「ごめん」


 体勢を戻したハツカネズミが小さくなって頭を掻いた。


「じゃあ俺が見とくわ」


 まだ笑いつづけているシチロウネズミがしゃしゃり出てきて、漏らした子どもの前に立つ。


「いいって! 自分でやるって言ってんだろ」


 ヤチネズミはむきになって自分の受け持ちを取りあげたが、ヤチネズミに抱きあげられた途端に子どもはつんざくような声で泣きだした。顔を顰めるシチロウネズミ、言わんこっちゃないとでも言いたげなアカネズミ、困り果てたヤチネズミに、


二一〇(ニヒャクジュウ)が泣いています」


 とわかりきった警告を繰り返すアイ。


「貸してよ」


 負ぶっていた子どもを寝床に下ろしてハツカネズミが駆けつけた。ヤチネズミから二一〇を取りあげる。途端に泣き声は音量を下げ、やがて笑顔まで見せ始めた。


「ヤチがそんな顔してたら世話されるこいつらもかわいそうじゃん」


 ハツカネズミが二一〇をあやして言った。


 三者三様に自分を気遣っている。申し訳なさと卑屈さがない交ぜのヤチネズミは、礼も言わずに顔を背けて新生児室を後にした。


「どうした?」


 通路ですれ違ったトガリネズミに呼びとめられた。同室の年長者はつかまり立ちを始めた子どもが倒れないように腰を屈めたままヤチネズミを見上げていた。


「これ…」


「きったねえ!」


 悪気のない些細な反応にさえヤチネズミは俯く。自分の粗相ではないのに訳も無く恥ずかしくなる。ぐちゃぐちゃな気持ちと顔を見られたくなくて早歩きでその場を離れようとしたが、


「なに、また泣いてんの?」


「泣いてねえし」


 トガリネズミはヤチネズミの否定を聞かずに歩きかけた子どもを抱き上げると、ヤチネズミのそばまでやってきてその頭を覗きこんできた。


「今度はなした? 俺が聞いてやるよ」


「別になんもしてねえし」


「だったらそんな顔しなくね?」


 口ごもって俯く。


「なした?」


「……みんなと同じことしてるだけなのに、」


 ヤチネズミは床の一点を睨みつけながら、自分でも聞き取り難い声で説明する。


「なんで俺ばっかりいっつもうまくいかないんだろって」


 トガリネズミに抱き抱えられた子どもの声にかき消されていたと思う。


「なんで俺ばっかり」


 泣かれる、吐かれる、懐かれない。おまけにこうして汚される。おむつの当て方を間違っているのかと何度も確認するが、他の皆との違いは見つからない。それなのに何故かヤチネズミのところに来ると子どもたちはこぞって漏らして吐いて泣く。挙げ句の果てに抱っこもおんぶも拒否される。自分の何が子どもたちをそこまで不快にさせているのか不可解で仕方ない。だが何を変えても何一つ改善しない。


「俺、いらなくね? みんなの足引っぱるだけだし」


 トガリネズミは子どもが伸ばす手を器用に避けたり、その体を自分の肩より上に持ち上げたりしている。話せと言ったのはトガリネズミなのに聞いているのかいないのか。高所で振り回されている子どもも楽しげだ。「おにーたん、おにーたん」と笑っている。それに比べて自分は。


「ヤチが思うならそうなんじゃね?」


 トガリネズミは子どもの方を見たままそう言った。ヤチネズミは何も言い返せずに同室の年上を上目で見上げる。


「でもおれはヤチも必要だと思うけどね」


 『おれ』の部分を巻き舌で発音する独特の話し方でトガリネズミは付け加えた。打ちのめされたところでそんなことを言われたから、やはりヤチネズミは何も言えない。目を泳がせて最後はやはり顔を背ける。


「みんなと同じことが出来ないなら別のことやってみたら? 案外ヤチにしか出来ないこととかあるかもしれないじゃん」


「ないよ、そんなの」


 不貞腐れたまま答えると、


「まだなんも見てないじゃん。狭い部屋でわかった気になってるくそがきが偉そうに何言ってんだよ」


 抱き上げた子どもに同意を求めてトガリネズミは笑った。ヤチネズミは笑えない。


「だったらトガちゃんは広い外でも見たことあるのかよ」


 ヤチネズミが嫌味を込めて吐き捨てるとトガリネズミはにやりと笑って子どもを下ろし、腕まくりをして見せた。ありふれた注射痕にヤチネズミは眉根を寄せる。


「……なに?」


 トガリネズミは得意気だ。


「なに!」


「上に呼ばれた」


「え?」


 ようやくトガリネズミの言わんとすることを理解したヤチネズミに、年上の同室は満面の笑みを向けた。


「やっとおれにも来たんだよ! 待ちわびたわ。(おせ)ぇんじゃね? 間違ってんじゃね? って何回アイに言ったことか」


「トガちゃん、おめでとう。すごいじゃん」


 ネズミは長じると上に行く。全ての同輩に先を越されて長年育児担当をしてきた地階の最年長者は喜びを爆発させた。


 トガリネズミは「だろ! すごいだろ! な? わかったらお前、おれを敬え」などと調子に乗っている。


「トガちゃんのそういうところは引くけどね」


 ヤチネズミが白い目を向けるとトガリネズミは笑って、


「まあさ、お前らが使えるようになったからってのもあんじゃね? おれがいなくても上手く回ってるし」


「それはアカがいるからだって。正直、俺とシチロウはなんにもできてない」


「ハツは?」


 まくりあげた袖をそのままにトガリネズミが苦笑した。そして、


「でもアカが出来るならヤチとシチロウだって出来るだろ」


「ハツは?」


 慰め以外の何物でもない無責任な推測に、今度はヤチネズミが尋ねた。トガリネズミは唸りながら天井を見上げて、


「あいつ、子ども受けだけはいいよね?」


「他は全部だめだけどね」


 一緒になって同室を馬鹿にして、同時に失笑した。


「まあさ、みんなおれが面倒見てやってたってところは一緒じゃん」


「それだけじゃん」


「わかってねえな、お前。おれが同室どうしつっつうだけで既にお前ら勝ち組じゃね?」


「親が迎えに来ました。ヒノキを返送してください」


 トガリネズミが唾を飛ばした時、アイの声が響いた。「はいはい」と答えたトガリネズミに「『おや』って何?」とヤチネズミは尋ねる。


「あの子、まだあんなちっちゃいのにもう名前もらってんだよ。上階(うえ)に『おや』がある子はそうなんだって」


「で、『おや』って何?」


「知らない。でもあの子は毎日、上階に行くんだよね」


 曖昧な説明をしつつ子どもを目で追っていたトガリネズミが、アイの警告より先に走り出した。空気が密度を増す。間に合わない。ヤチネズミは「あ」と口を開けたきりだ。ヒノキと呼ばれた子どもが後ろに転倒し、その後頭部が床に接するまさに寸前でトガリネズミが滑り込んだ。


「トガちゃん!!」


 ヤチネズミは駆け寄る。泣き叫ぶ子どもを抱えて歯を食いしばるトガリネズミ。床との摩擦で生じた腕の傷からは血が滲んでいる。


「アイ!」


 ヤチネズミは大声で叫んだ。しかし、


「心拍上昇、興奮状態です。ヒノキの動揺を鎮めてください」


 アイはネズミを後回しにする。


「トガちゃん診ろよ! どう考えてもトガちゃんの方が…」


「だーいじょうぶ、だいじょぶ!」


 大丈夫ですよ~、とトガリネズミも自分そっちのけで腹の上の子どもをあやした。それから「アイ、この子は何ともない?」と、やはり子どもの心配をする。子どもはまだ盛大な声で泣き続けている。


「ヒノキが泣いています。ヒノキの動揺を…」


「うるさいっつってんだろ!」


 アイを黙らせてヤチネズミはトガリネズミを手伝おうと手を伸ばした。だが自分が臭いままだったと気付いて差し出した手の平を見下ろし、結局そのまま引っこめる。


「泣かない、泣かない。ったく困ったなこンのくそがきは!」


 笑いながら子どもを両手で持ち上げ、腹筋で上半身を起こしたトガリネズミをヤチネズミは心配そうに見下ろす。


「トガちゃん大丈夫?」


 子ども向けの笑顔のままヤチネズミを見上げたトガリネズミは、ふっと鼻で笑って見せて立ち上がった。


「おれくらいになればこんなん屁でもねえよ」


「めちゃくちゃ血ぃ出てたじゃん」


「出てた?」


 言ってトガリネズミが捻って見せた腕は、何も無かったようにきれいな肌をしていた。


「あれ? 今……」


 トガリネズミが調子に乗った顔で目を細める。


「すげえだろ、おれ(・・)()薬」


「トガちゃん()薬?」


 得意気に頷くとトガリネズミは自慢の腕をくるくると捻って見せた。


「おれが第一号だって。検査の段階で確定するのって珍しいらしい、生産体ってやつな。なあ、すごくね? おれ、やばくね?」


「『せいさん…』?」


「親が待機しています。トガリネズミは早急にヒノキを返送してください」


 首を傾げたヤチネズミの質問を遮ってアイが口を挟む。苛ついたヤチネズミは、返事をしようとしたトガリネズミを遮ってさらに質問を重ねた。


「どんな効能?」


「傷とかすぅぐ治るの、あっという間。っていうか怪我する前よりもむしろよく治る」


「どういう意味?」


「だからあ、」


「親が待機しています。ヒノキを返送してください。トガリネズミ、ヤチネズミ、立ち話は休憩時間、または業務終了後にしましょう」


 トガリネズミは子どもを抱きかかえると、「アイに怒られちゃったからまたな」と言って話の途中だったのに踵を返した。しかし、


「ついでに顔も洗ってこいよ。そのまま戻ったら泣いたってばれるぞ」


 いつの間にか泣きやんでいた腕の中の子どもと同じ笑顔を向けて通路の角を曲がって行った。


「アイ」


「はい。何でしょうか? ヤチネズミ」


「反応遅くね? さっき間に合ってなかったじゃん」


「申し訳ありません。ヒノキの動きが想定外でした」


「想定しとけよ。っていうか再起動しとけよ、遅すぎるって」


「ヤチネズミの提案は正論です。アイは動作不良改善のため今から九時間三八分後の午後二時より再起動を実施します。それに伴い塔内の一部区間において計画停電を余儀なくされるため、ネズミの皆さんはその間における当該区間への立ち入りを避け…」


「泣いてねえし」


 アイの独り言を最後まで聞かずに、トガリネズミが去って行った方に向けてヤチネズミは鼻水を啜りあげる。


―まだ何も見てないじゃん―


「まだ……」


 何となくその言葉が引っ掛かった。

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