00-119 カヤネズミ【上階】
過去編(その70)です。
タネジネズミに案内された覗き穴は、随分と乱暴にこじ開けられた、小さな扉の鍵穴だった。カヤネズミは促されるままに膝をつき、扉に両手を置いて覗きこむ。薄闇ばかり見ていた網膜が眩い視界に慣れるのにさほど時間はかからなかったが、タネジネズミが受けたのと同じ衝撃から立ち直るまでにはしばらくの時間を要した。
風呂の洗い場……ではなさそうだ。なぜならカヤネズミが見る限り、誰もが皆、服を着ている。しかし目の前の開けた空間の中央には、かなり大きめの浴槽らしきものがある。その浴槽らしきものは四方八方から湯か水を噴射し、飛沫は音楽でも奏でるみたいに楽しげに宙を舞っては弧を描いたり、柱になってみたり波を作ったりしている。海を模した装飾品かもしれない、とカヤネズミは思った。塔を出ることが無い上階の奴らにとってみれば、海など映像でしか得られない情報だ。こうして模倣した物体で疑似体験するのも悪くないかもしれない。装飾品ごときにあれほど大量の水と電気を使う理由は不明だし、海はあんな動きをしないけれども。
あちらこちらに極彩色の大音量で放映されつづけている動画や虚像も気になる。誰か見ているか? 何のための何なんだ、あれは。見ていない画面は消すように、使わない電気は消すようにと節電を徹底的に教え込まれてきたカヤネズミは、電気の無駄遣いに辟易する。
海の疑似装飾を囲うのはいくつかの長椅子、床には土や芝生まで敷き詰められている。しかし野菜や果物の類は一切耕作されていない。あるのは花や実の無い樹木ばかりだ。それらをアイの一部分たちがせっせと世話をしている。土の無駄使いだとカヤネズミは思う。そんなに土があるなら芋くらい育てろよ、と苛々する。
そして樹木のさらに外側には、いくつもの背の高い物体が林立していた。無数の硝子が嵌めこまれている。開いている硝子もある。目を凝らして硝子の中の様子を観察するには、おそらく生活空間だ。自分たちが育った部屋に似ているが、ネズミの部屋の何倍も清潔感が漂っている。漂い過ぎてむしろ息苦しいのではと思われるほど潔癖に見えて吐き気がする。
見たことも無いその物体を何と呼べばいいのか、しかし似たものは何度も目にした気がするな、とカヤネズミは考えてそして、
「廃屋……」
と呟いた。憮然として俯きがちに佇んでいたタネジネズミがちらりと顔を上げる。
廃屋だ、カヤネズミは気付いた。空間後方を埋め尽くすように設えてある生活空間の塊は、地上で野営する時に世話になる廃屋の新しい版だ。廃れる前の廃屋は砂に埋もれることも傾くことも無く、信じがたいほど快適そうだった。もしかしたら地上の廃屋の無数の穴にも、かつてはあんな風に硝子が嵌めこまれていたのかもしれない。そして老朽化が進んで使い物にならなくなった後、地上に捨てられたのだろう……ん?
カヤネズミは何かが引っかかった。知識を総動員して常識の綻びと照らし合わせてみる。
地上に打ち捨てられた廃屋や瓦礫の類は塔や地下の廃棄物だ。だが地下の連中の技術はたかが知れているし、塔内にある物体と同一か限りなく似ている点を鑑みれば、地上の廃屋は塔が捨てたものと考えて間違いない。塔内で使わなくなったごみを、地上に運んで廃棄したのだろう、と思っていたのだが。
よくよく考えてみればそんな手間のかかる無駄をアイがするだろうか。運搬に要する労力よりも、塔内で再利用するか焼却処分した方が消費熱量もまだ少ないだろう。であれば地上のあれらは元からそこにあって、そのまま放棄されたと考える方が辻褄も合う。辻褄が合い過ぎて動悸がしてくる。腹立たしくて頭痛さえ伴う。額に手を置き頭痛と吐き気を押しとどめながら、カヤネズミは仮説を組み立てる。ということはつまり、この目の前に広がる空間は……、
「腹立って来ません?」
タネジネズミが呟いた。
「なんであいつら、……あんなに贅沢してるんすか」
タネジネズミの憤りにオオアシトガリネズミが振り返った。
そうなのだ、カヤネズミは頷いた。扉の向こう側は夢の世界しかり、夢にさえ思い浮かべられないほど理想的な居住空間を現物化していた。多大な電力を消費しながら。
清潔な生活空間、快適以外の何物でもなさそうな開けた広間、それらを囲む樹木も花々も彩りは見事で、天井は地下十数階分はあろうかと思われる高さの解放感だ。その天井からは昼間を模した明るさが降り注いでいる。
地上で昼間に日陰を出るなど自殺行為だが、ここではそれが可能なのだ。太陽は暑いし眩しいけれども、美しいことに違いは無い。もし仮にあれほど熱くも痛くもなければ、一度昼間の地上の砂の上で寝転がってみたいとさえヤマネは言っていたし、カヤネズミも面白そうだと笑ったものだ。それに似たことをここの連中は叶えている、何の労力も払わずに。
彼らはネズミではない。薬合わせも検査もきっと受けていない。それなのに限りなく地上に似せた空間を堪能している。
ネズミは薬を増やすことが義務だ。多くの子ネズミたちの命を犠牲にして、たまたま生き永らえた自分たちだけが地上に出る権利を与えられる。
治験体は薬を作ることが義務だ。薬を作り、その安全性を確立させることが。それ以外に出来ることが無い彼らは全介助を受け、命をかけて生きる権利を与えられる。
夜汽車だって必死に生きている。自らの命を地下に捧げることを余儀なくされた子どもたちは、地下の連中に飲み物にされるその日までの時間を与えられている。
だがこいつらは?
こいつらは何を犠牲にしている?
どんな義務をこなしている?
長椅子で居眠りをするあの男の仕事は何だ。あの性別不明の派手な奴が引き連れているのは確か『獣』。昔、動画で見たことがある、残存生物の一種のはずだ。あれ一体を育てるために夜汽車一両分の熱量を消費するとアイは言っていなかったか? あの中年太りが従えている女は何だ。あれほどまでに危機感もなく、肌を晒して色気を振りまく女をカヤネズミは見たことが無い。清潔な空間の中で清潔感を保っているはずなのに、地下の女よりも汚らしく思えてならないのは何故だろうか。下卑た笑いをやめろ、もっと肌を隠せ。初めて欲情ではなく怒りで女を組み敷きたいと思った。
あの男も、その男も、あっちの女もこっちの男も男と女と男たちも、お前ら何、当たり前みたいな顔してこんなに電気を無駄使いしてるんだよ。お前らは何をしているんだよ!
……それなりに何かはしているのかもしれない、アイは不平等を許さないから。誰にも何かしらの義務を与える、その点においてはカヤネズミも信用している。
しかし仮にこの塔の上階に住む者たちが何らかの義務をこなしていたとしても、何らかの犠牲を払っていたとしても、これほどまでに電気を独占していい理由になるだろうか。あれほど無意味な土を遊ばせておく必要があるだろうか。あの海の模造品を維持するのに使う水の量は? 電力は? 大して誰も見ていないのにそこに置いておく価値は。
「上階って全部あんな感じなんですか?」
どうだろうか、それはカヤネズミにもわからない。地階にはネズミと子どもたちしかいなかったし、時々見かける研究員たちは上階から降りてきていたはずだが、彼らはそれなりに仕事をしていたとも思う。
「俺、ぶっちゃけ地下の奴らが怖いです。単体なら逃げるくせにこっちがはぐれてたら集団で囲んでくるし」
誰も表立って言わないが、恐らくネズミならば全員が共有している思いだろう。タネジネズミだけが臆病なわけではない。
「でも『塔のため』って言われて、やらなきゃって言われて、やらなきゃって思って。怖かったけど、……がんばってきたつもりです、それなりに」
タネジネズミの独白の横で、オオアシトガリネズミが鍵穴を覗いている。
「『塔のため』って、俺らが面倒みた子どもたちのためって意味だって思ってました」
地階にいるのはネズミと乳幼児ばかりだから。
「けど、……子どもどこにいるんすか? あの治験体? あいつらのあれが俺たちの仕事の成果なんすか? そこにいるのじじいとじじいみたいな女ばっかじゃないすか。何してるかわかんない、年食って飯食って寝っ転がってるだけの奴とか」
長椅子に横たわる男を指しているのだろう。白髪さえも数えるほどしかなくなってしまった男は、長椅子の上で寝そべりながらカヤネズミたちが見たことも無い物を汚らしくこぼしなたら口を動かしていた。ぼたぼたと食い散らかされた破片は、アイが掃除機で片付けて行く。
「女の捕獲って、あんな奴らに供給するために必要なんすか」
オオアシトガリネズミも目を見開いて覗き穴に張り付いている。
「俺らって、ネズミって、あんな奴らを守るために地下の連中と戦ってたんですか!」
「考え過ぎですよぉ、タネジさん」
覗き穴から顔を上げたオオアシトガリネズミが、へっと鼻で息を吐いた。タネジネズミがぎょろりとオオアシトガリネズミを睨みつける。
「誰かの幸せそうなとこと自分の苦しい時を比べたって、相手が勝つに決まってるじゃないっすかあ」
正論だ、カヤネズミも同意する。相変わらず冷静な奴だな、と感心しながら。
「そういうこと言ってんじゃねえんだよッ!」
すかさず言い返したタネジネズミの大声をカヤネズミは慌てて咎める。タネジネズミも首を竦めて見せたが相変わらずオオアシトガリネズミを睨みつけて、
「そういうことじゃなくて。そうじゃなくて俺らが命駆けてたものが何なのかっていう…」
「三食寝床つきに不満っすかあ?」
「別に不満とかじゃ…」
「なら問題無いじゃないっすかあ~!」
オオアシトガリネズミがにっこりと歯を見せた。カヤネズミはその笑顔をじっと見つめる。
「他の奴らが何してようがタネジさんには関係ないでしょう? タネジさんが今、食うもん食って寝る場所あって満足して生きてるんならばんばんでしょう」
言ってからオオアシトガリネズミは笑顔を解き、「俺はもう食えないしタネジさんはあんまり寝ませんけどねえ」と言ってまた鼻で笑った。
カヤネズミは何も言えない。同室を失い過ぎたオオアシトガリネズミが、どれだけ生に固執しているか知っているから。最後の後輩の訃報を受けた時のオオアシトガリネズミを見ていたから。
だがタネジネズミの疑問と怒りも同じくらい理解できる。
「だからそうじゃなくて…!!」
カヤネズミは子ネズミたちの間に割り込む。
「あ~、まあ、あれだ。うん。タネジの気持ちもわかる。俺もめちゃくちゃ腹立った。バカの話、聞いてる時と同じくらいな。でも今はそんなことよりもせー…」
「ヤチさん?」
「そうそう、あのバカがいるとなんでか話が進まなくっていらいらすんだよ…」
「ハツさん!」
カヤネズミとタネジネズミは振り返る。オオアシトガリネズミが覗き穴から顔を上げ何かを言おうとした時、扉の向こうから女の金切り声が響いてきてカヤネズミたちはびくりとした。続いて男や別の女の声。アイの警報音も聞こえる。その中から耳に飛び込んできたのは『ネズミ』という単語だ。
カヤネズミはタネジネズミを脇に置いてオオアシトガリネズミに駆け寄った。オオアシトガリネズミは両手をついて横にずれる。身体を押しこむように場所を譲り受けたカヤネズミが見たのは、
「はああ!?」
上階の奴らを蹴散らして駆けまわるハツカネズミと、その背中にぶらさがるヤチネズミだった。