00-116 アカネズミ【本音?】
過去編(その67)です。
「一分三十秒が経過しました。ヤチネズミは速やかに地下五階へ向かってください」
言うとアイはヤチネズミの右脚を包み込む。嫌な予感は当然のように的中し、ヤチネズミは右足首を持ち上げられて床に顎を打ちつけ、うつ伏せのまま反対向きに通路を引き摺られ始めた。
慌てたハツカネズミはヤチネズミの左手首を掴む。足と手と、双方から反対方向に引かれるヤチネズミの身体の負担は半端ない。
「痛い! 痛いってハツ!」
「だって!」
「足はやめろ、アイ!!」
よりにもよって最も負傷が集中している部位を。アイはわかってやっている、とヤチネズミは思う。一番痛いところを突くのが相手を黙らせることに一番効果的だということを。
「アカ!!」
全身と、特に右足の痛みに目が回りつつもヤチネズミはアカネズミを見遣った。すでにアカネズミは通路のど真ん中で応急処置が始められている。ほっとして力を抜いた途端、さらに体が後退して、ヤチネズミは慌ててハツカネズミの手を掴んだ。だが掴んでも痛いものは痛い。
「アイ、ヤチを離して!」
両足で踏ん張りながらハツカネズミが叫ぶ。
「ヤチネズミは地下五階に行きます」
ヤチネズミの足を引く力を強めてアイは答える。
「あなたも地下五二階に戻りましょう、ハツカネズミ」
「やだよあんなとこ! っていうかセージ! セージの死刑っておかしいじゃん、取り消してよ!」
ハツカネズミも負けじとヤチネズミの手首を引っ張る。そうだ、セージだ。そのために出てきたのに、とヤチネズミも当初の目的を思い出すが、懸念される後輩の生死よりも現在進行形の自分の痛みの方が頭の容量を埋め尽くしていく。そして目の前のもう一つの懸念材料。
「アイ、アカは? アカは大丈夫なのか!?」
口を開くと舌を噛みそうな状況下で、ヤチネズミは死に物狂いでアイに尋ねた。
「アカネズミは集中治療室に向かいます。アカネズミは死んではいけません」
「おい文章おかしいぞ! アカはどうなった? 大丈夫なんだよな??」
「アカネズミは生きなければいけません」
それは死にそうということか?? ちょっと待て嘘だ! そんなまさかアカが!?
ハツカネズミが壁を拳で叩き始めた。基盤を探して停電を起こそうなどという緻密な計算はしていない。ただ闇雲に当たりを夢見て下手な鉄砲を撃ちまくっている。だが仮に運よくここで停電など起こせば……。
「駄目だハツ!!」
「なんで? だってアイを…」
「今アイが止ばったらアカが!!」
ハツカネズミもこれは察したらしい。ぐっと顔を引き、アカネズミを振り返る。
ヤチネズミも顔を上げる。痛みと罪悪感と恐怖と申し訳なさでぐちゃぐちゃの頭が勝手に涙腺を緩めて視界が不明瞭だ。何度も瞬きをしてアカネズミを探す、確認する。頼むアカ。ごめんアカ、死なないで。何でもするから頼むからアカ、アカ、
そのアカネズミと目が合った。虚ろな重症患者は先と同じように片手を上げて、
ヤチネズミは目を見張った。
ハツカネズミが両足で床を蹴った。ヤチネズミの身体はアイの意のままアカネズミから引き離されていく。
「ハツ!?」
自分の手を掴んで離さず砂上をそり滑りでもするような格好で付いて来るハツカネズミの顔を、ヤチネズミは見上げた。
「一旦離れよう。アカから離れたところでアイには寝てもらう」
ハツカネズミにはハツカネズミなりに考えがあるらしい。しかし、
「アイは眠りません」
完全に復旧したアイは小声の会話も聞き逃さない。
「俺も寝ないよ」
ハツカネズミは軽口を叩く。それからヤチネズミに顔を向け、
「大丈夫だよ、ヤチ」
満面の笑みを向けてきた。
何だ? お前。この状況でなんで笑える? ヤチネズミは鼻水を啜りあげる。これも演技なのだろうか。きっとそうなのだろう。自分を慰めるためにこいつはいつもこうして作りものの顔を自分に向け続けてきたのだろう。ヤチネズミは俯き、涙を落としきってから鼻水まみれの顔を上げた。
「いや駄目だる、アガのどご戻ろう」
「今は無理だよ。アイが絶好調過ぎる」
ハツカネズミは驚いて否定したがヤチネズミはさらに首を横に振る。
「だぇだ、ハツ。アカを連れでがないと。だってあいつ……」
思えばアカネズミは何度も言っていた。それはそうだ。自分だったら同じように感じただろうし同じように願う。
―いかないで―
あの手は拒絶ではなかった。アカネズミはあの時おそらく自分の腕を掴もうとして…、
―お前が正しいと思い始めた瞬間にお前は間違い始めてるってことを肝に銘じろ―
また自分勝手な思い込みだっただろうか。
「大丈夫だよ、ヤチ」
ハツカネズミが繰り返した。
「だいどうぶって、だ…ぃが……」
まるで言葉になっていない。その無様な姿にハツカネズミは遠慮なく噴き出し、爆笑した。
なんで笑える? アカが、同室が死ぬかもしれないという時に。ヤチネズミはハツカネズミがわからなくなる。しかし、
「アカは死なないよ、絶対」
ハツカネズミは満面の笑みを向けてきた。子ども受けの良い、誰にでも安心感を与えるその笑顔でさえも、今のヤチネズミの涙は止められない。
「だんででっだい?」
ヤチネズミはしゃくりあげながら尋ねる。その自信もアカネズミの行く末も、わからない事だらけで泣けてくる。
ハツカネズミが下を向いた。伏し目がちの額からは何を考えているのか汲み取れなくて、ヤチネズミがもう一度尋ねようと思った時、
「アカが死ぬわけないじゃん。俺よりも薬いっぱい入ってるんだよ? それに生産体ってすぐにアイの治療受けるし」
そうは言っても、
「もし駄目なら即死だったはずだよ。だから大丈夫なんだって」
言われてみればそうかもしれないが、
「絶対大丈夫。トガちゃんが守ってくれてるんだし」
ヤチネズミはハツカネズミの顔を正面から見上げた。
「ハツ、ぁがを……」
言いかけてやめる。
「アカを何?」
とハツカネズミ。
ヤチネズミは依然引かれ続ける自分の足をちらりと見てから、
「アイが寝だら話す」
言ってハツカネズミに目配せした。
「アイは眠りません」
すかさずアイが反応する。ハツカネズミがまた破顔して、
「俺も寝ないよ」
軽口で返した。「カヤはもっと寝ない」
カヤネズミたちも心配だ。ヤチネズミはまた思い出す。あいつらは無事に生産隊から逃げ果せただろうか。セスジネズミの処刑に間に合っているだろうか。アズミトガリネズミは失明してないだろうか。コジネズミはどうなっただろうか。少しくらいのびていてくれると嬉しいのだがその前に。
「ハツ…」
「ごめんヤチ」
これからの計画を聞く前に反対に呼ばれた。ハツカネズミははるか前方、ヤチネズミの足のその先を見つめている。
「少し痛いかもだけどがんばって。それと酸素はいっぱい吸っておいてね」
仲間の前に自分の身の危険をヤチネズミは悪寒と共に感じ取った。
* * * *
「おい止まれ!」
生産隊の怒声が追いかけてくる。その台詞を聞いて止まる奴が未だかつてこの世にいたのだろうか。大概言った奴が諦めて取り逃がすものだろう。それなのにどんだけついて来るんだよ、しつこ過ぎだって。あいつ絶対嫌われてんな。×××と××××も××してそうだし。カヤネズミは最悪の状況の中から笑える部分を切り取っては頭の中で笑ってみる。物事を俯瞰で捉えられるように冷静さを取り戻すための、カヤネズミなりの方法だった。だが事態は冷静さを以てしても笑えない域に達している。
予想はしていたが治験室はかなりの上階だった。アイの妨害を免れるには非常階段を使わせるしか道はなかったが、それが失敗だったか。子ネズミたちが明らかに疲弊してきている。ヤマネが遅いのは置いておくとして、タネジネズミは見るからに失速している。長身のオオアシトガリネズミをおぶっているせいだ。しかしオオアシトガリネズミは両大腿骨が折れている。おぶる以外に方法がない。
ワタセジネズミはまだいけそうだが両手にジネズミとカワネズミを抱えている。オオアシトガリネズミをさらに担ぐのは無理だろう。それは自分とドブネズミも同じだ。ドブネズミはヤマネが連れてきた子どもたちを両脇に抱え、カヤネズミはと言えばオオアシトガリネズミが抱えてきたがらくたを運ぶのに手一杯だった。
オオアシトガリネズミは『武器になりそうなもの』と言っていたが、何をどう考えればこれらを武器として使えるのか、カヤネズミには到底理解が及ばない。だが丸腰でやり合うのは得策ではないし、この先、武器を手に入れられるかどうかもわからないとあれば手放すわけにもいかない。使い途がなさそうでも「ないよりはまし」という小心者の悪い癖がカヤネズミにそれらを運ばせた。
唯一身軽なヤマネに何かやってほしいが、後方で安定の鈍足だ。やはりタネジネズミを何とかしてやらねばいけない。そしてセスジネズミ。
「ジッちゃん、どのくらい腹減ってる?」
不意に尋ねられたジネズミは「え?」と一瞬眉根を寄せたが、気付かされた空腹に目を見開いた。
「空っぽです!」
ということは飯時から三時間は経っているだろう、カヤネズミは計算する。そして「まずいな」と思わず本音をこぼした。
「カヤさん?」
傍らを走るドブネズミに覗き込まれる。カヤネズミはドブネズミを見返して、前を走るワタセジネズミたちを見遣って、それから後ろのタネジネズミにおぶわれているオオアシトガリネズミに振り返った。