00-115 ヤチネズミ【境界型】
過去編(その66)です。
強いて言えば振動、または微かな衝撃。何かが身体にぶつかったことは確かだが、アカネズミには初めそれが何なのかわからなかった。
アカネズミはハツカネズミと組みあったまま背後を振り返る。背中に密着するのはヤチネズミ。そしてそのまま首を回して下を見る。胸元が真っ赤に染まっていた。そして対峙するハツカネズミも。
痛みはない、というかわからない。痛みとは違う気がするけど……。
アカネズミは両膝を床についた。胸に開いた穴を押さえると身体が反応して口からも血が噴き出た。
* * * *
アカネズミの背中に銃口を押しつけて、ヤチネズミは拳銃の引き金を引いた。銃弾は期待通りにアカネズミを貫いてハツカネズミの胸にも達した。ハタネズミの薬を持つ連中だ、痛みはないだろう。トガリネズミの薬の効能はすぐに傷口を塞ぐだろう。だが心臓が止まれば身体は動かない。再生までのほんのわずかな時間だが、ハツカネズミはあの時確かに動きを止めていた。セスジネズミの英断をヤチネズミは思い出す。セスジネズミはその後、ハツカネズミの四肢の動きも封じようと肩口と股関節も撃っていたはずだ。ヤチネズミは動きを止めた同室たちの間に割り込み、ハツカネズミの両腿に先ず銃弾を撃ち込んだ。ハツカネズミが尻もちをつく。ついでに肩も、と思ったところで銃弾は尽きた。
「くそっ!」
憤り拳銃を床に投げつけ、すでに立ち上がろうとしていたハツカネズミの頬を思いっきり殴りつけた。痛い! 頬骨ってこんなに固いのか!? 殴られた衝撃で首を振りつつも全く表情を変えないハツカネズミに対して、ヤチネズミは右手の基節骨を左手の平で撫でまくる。撃たれても打たれてもまだ闘争心を消さないハツカネズミが顔を上げたところで、
「馬鹿野郎ッ!!」
思いっきり唾を飛ばして今度はその頭頂部を平手で叩いた。
「お前、何やってんだよ! 相手が違うだろ。アカだぞアカ! 同室! アカネズミ!!」
ヤチネズミの唾の臭さが目に沁みたのか、ハツカネズミは手の平で顔を拭った。引き気味で見上げてきた顔は少し困ったような、何もわかっていないような、演技なのか素なのかもうどっちだかわからないがとにかくいつものハツカネズミだった。
「ヤチ……?」
「なんつう顔して何してんだよバカ! 怒るにも程があんだろ」
「だってヤチが…」
「俺が何だよ!」
「ヤチ……、…しんじゃう……」
ハツカネズミの鼻声にヤチネズミは息を呑む。アズミトガリネズミにも劣らない図体のヤマネよりも弱々しい涙目に、カヤネズミの言葉を思い出し、そして確信した。
ハツカネズミは感情が壊れている。
おそらくムクゲネズミの薬のせいではない。記憶の方はどうなっているのか詳細は不明だが感情は多分、シチロウネズミが死んだ時に一度完全に崩壊したのだろう。あの時のハツカネズミは周りが見えていなかった。子ネズミたちさえも手にかけそうになっていた。あの時と同じだ。あの時も今と同様、体躯という名の凶器を振り回しながら、顔面は子どものように泣いていた。
その破壊衝動を誘引するのは誰かの死だ。ハツカネズミが守ろうとした者の死に直面した時、またはその危険に直面した時、ハツカネズミはその事実を受け入れられなくなるのかもしれない。受け入れたくなくて許せない現実からの逃避手段として、仲間の死の原因と思われるものを排除しようとするのだ。あたかも見ていたくない物を視界の外に押し出すように、ごみを履いて捨てるように。ハツカネズミにとって破壊衝動は掃除に他ならない。彼にとって仲間以外は不要物なのだ。つまり、
ハツカネズミが本当に守りたかったのは夜汽車でもなく部隊でもなく、一番身近な存在だけだったのだろう。
「……大丈夫だから。ほら」
ヤチネズミは頭からつま先まで、血まみれでぼこぼこの死にそうな身体を見せつける。
「な? 大丈夫だろ? 俺は大丈夫だから。死んでないからしち…」
シチロウネズミの名を出しかけて、ヤチネズミは口を噤んだ。子どものように見上げてくる目を見つめて、
「……俺は死なないから。ハツも落ち着け」
「でも俺が守ら…」
「わかったか!!」
さらに唾を飛ばして黙らせた。ハツカネズミは肩を竦めて後頭部を掻き、
「ごめん、ヤチ」
と小さくなった。
ヤチネズミは息を吐く。とりあえずハツカネズミは落ち着いた。あとはアカネズミを、
「……アカ?」
振り返って目を疑う。
「アカ……?」
アカネズミは背中の中央を血で染め上げて蹲っていた。
「アカ? アカッ!!」
ヤチネズミはその肩にとびついたが、アカネズミに片手で振り払われた気がして思わず退く。自分を拒絶したと思われるその手は弱々しく、露わになった顔は吐血まみれで、胸に開いた穴からはだくだくと出血が続いていた。
「あ…か、なんで? ……再生! 再生しろよ! 再生しろってッ!!」
ヤチネズミは混乱する。慌てて自分が開けた穴を押さえて止血しようと足掻く。
「なに? どうしたの?」
無傷のハツカネズミが覗きこんできた。ほんの数十秒前まで殺し合いじみた喧嘩をしていた相手の真っ青な顔の前に立ち尽くす。
ヤチネズミの混乱は加速する。何故アカネズミはこれほどまでに苦しんでいる? トガちゃんの薬が入ってるんじゃなかったのかよ! ちゃんと再生しろよ!! そんなシチロウみたいな…
「限界?」
ハツカネズミの呟きにヤチネズミはびくりと肩を揺すった。
そうだ、再生能力は回数に限りがあるのだ、ヤチネズミは思い出す。気力で恣意的に再生を行っていたシチロウネズミは、次の再生を行うまでに時間が必要だった。ワタセジネズミに至っては致命傷以外は自然治癒力に任せている。痛覚はじめほとんどの感覚が麻痺しているハツカネズミやアカネズミでさえ、体力も無限ではない。ただ何も感じられないから、身体が意思を待たずに再生するだけだ。
そしてアカネズミは実戦経験を持たない。検査への従事時間は誰よりも長かったかもしれないが、地上に出ていくつもの掃除をこなしてきたハツカネズミの身体ほどには薬の効能が研ぎ澄まされていなかったのだろう。
ヤチネズミは怯えた顔のまま振り返る。途端に肩を引かれて後ろ向きに倒された。入れ替わるようにしてハツカネズミはアカネズミのそばに行き、その身体を見下ろしながら「何したの、ヤチ」と背中越しに質問した。
「何って……」
言いかけてヤチネズミは足元に目を向ける。
「撃ったんだよ、お前らの心臓。両方黙らせるには一発で決めないとって思ってアカの背中からハツの心臓狙っ…」
「心臓?」
ハツカネズミが恐ろしいほどの真顔で迫ってきてヤチネズミは全身を強ばらせた。
「心臓を撃ったの!?」
「だってお前らを止めるには心臓か!」
一時的動きを止めるには心臓を、完全に息の根を止めるには頭を壊すしかないのだと思っていたのだが。
「だ、だってハツとアカにはトガちゃんとハタさんの薬が入ってるんだからすぐ治るし痛くないと思って…」
ヤチネズミは首を横に振る。
「まさか……、まさかちょうど回数の、再生のげ、んかい、になるなんて思わなくて……」
本当にそうだろうか。
ヤチネズミはアカネズミの頬の傷を見ていたはずだ。ハツカネズミとの殴り合いに力負けして、殴られたまま再生が間に合っていなかった頬の傷痕を。
その傷痕を見て、ヤチネズミはハツカネズミの勝利を予感したのではなかったか。ハツカネズミの勝利とはつまり、相手を再生不能に陥らせること。我を忘れたハツカネズミならば同室の同輩でさえも死に追いやってしまうと恐怖したからこそ、ヤチネズミはハツカネズミたちの喧嘩を止めようと飛び出したはずだ。
危険と可能性を重々承知して起こした行動であればこれほど取り乱すことはない。危険を過小評価して希望ばかりを夢見ていた訳でもない。ではなぜヤチネズミは混乱するのか。
繋がらなかったのだ、記憶の中の情報が。導き出せないのだ、自分の言動がどのような結果をもたらすか。
過去の体験から得られた知識はあるのに、目の前の状況に対処しようと試みた瞬間、それらは突然ヤチネズミの記憶の海の中に溺れてしまう。その場その瞬間の感情で行動を起こすのは、目の前の事象しか考えられないほど思考と視野が狭いためだ。
かといって学習能力が無いわけではない。説明を受ければ理解することは可能だし、現にヤチネズミの医療に関する知識や技術はネズミたちの中でも上位に位置する。統計学に基づいた体系化された学術だからだ。規則性を見いだせる事柄はヤチネズミの得意とするところだからだ。しかし統計学はあくまで大多数の平均値であり、例外は必ずある。そしてその例外を目の当たりにした途端に、ヤチネズミは混乱する。しかし現実は平均値などほとんど存在せず、多くの例外たちの集まりに過ぎない。
言われてようやく思い出す。言われないと全くもって気づけない。誰かに言われたこと、されたことは忘れないのに自分の仕出かした罪には目を瞑る。それでいて覚えているのは自分に関することばかりだ。これらを意図的に行っているのであればかなり性悪な知能犯だが、無邪気でやるのだから始末に負えない。
このどうしようもない記憶力の悪さと過剰な自意識、そして気分次第ですぐ行動に移してしまう考えのなさこそが、彼を『境界型』と言わしめる原因だった。
「アカ、と、とにかく再生してくれ。出来るだろ?」
ヤチネズミはアカネズミ自身の素質に頼る。縋りつく。
「今すぐは無理だってば!!」
演技ではなく本気の怒りと焦りを顕わにしてハツカネズミは頭を掻き毟る。
出来そこないと演技派を見つめていた閉じかけた目が、俄かに力強く見開いた。ヤチネズミがその理由を知ろうと顔を突き出した時、
「ぃだ!」
全身に重たい空気の塊が圧し掛かってきた。
「一分三十秒が経過しました。ヤチネズミは速やかに地下五階へ向かってください」