00-114 ハツカネズミとアカネズミ【喧嘩】
過去編(その65)です。
ヤチネズミの姿を見つけたアカネズミが目を見開く。それを見たハツカネズミが振り返る。
「ヤチ!?」
驚くハツカネズミにアカネズミの苦渋に満ちた顔。引き金にかけられた指が筋張る。ヤチネズミはハツカネズミの腰目がけて飛びついた。足をもつれさせて天井を仰ぐハツカネズミ。その脇を走る銃弾。さらにもう一発。床に跳弾して鉄の塊はヤチネズミの右脹脛をかすった。初めての被弾は想像以上の激痛だった。ヤチネズミはハツカネズミから腕をほどくと足を抱え込んで濁音まみれの絶叫をあげる。
「ヤチなんで? ちょ、あ、アカ!!」
ハツカネズミが通常通りに取り乱した。演技か素か、ヤチネズミは薄目を開けて見極めようとしたが、
「うん、そっか。ちょうどいい」
アカネズミが歩み寄って来た。まだ混乱しているハツカネズミの袖を引いてヤチネズミは上半身を持ち上げる。
「ハツを探しに来たんだろうね」
「なんで?」
「ハツの迷子は毎度のことだからだよ」
アカネズミに説明されてもハツカネズミはまだ状況を把握していない。
「いつから隠れてたのかなあ。全然気づかなかった」
「アカ、だから何…」
アカネズミが拳銃を床に放った。同室の行動をまじまじと見つめる二つの顔は同じ色を浮かべる。
「撃つわけないだろ? ちょっと脅かそうと思っただけだって」
いや、すでに撃ってるし! 俺今めちゃくちゃ痛いんだけど? ヤチネズミの食いしばった歯が開きかけた時、
「だってこんなのハツには全然効かないじゃん」
どうやらハツカネズミに向かって話していたらしい。自分のことなど眼中にもないと言いたいのかもしれない、ヤチネズミは顎を引く。そして、
「アカ、聞いてくれ」
「頼むから俺の話に乗ってよ、ハツ」
「え? え?」
「アカ、聞けって…」
「ハツなら何とか出来るから」
「アカ!」
「え? え、待って何?」
「今ならまだ間に合うから。大丈夫、俺が何とかするから、」
「アカ!!」
「頼むからこっち来て」
言ってアカネズミは壁に手を突いた。べこんと音を立ててその手は鉄板を突き破る。指先に連動して蠢く腕の腱。感電する身体は明らかに振動している。しかし飛び散る火花にもアカネズミは顔色一つ変えない。ヤチネズミは息を呑む。カヤネズミやオオアシトガリネズミとは根本的に方法が違う。導線を繋ぎ合せるとか断ち切るとかでなく、自身を回路として寸断されていた電気の流れを作り出し、
「お呼びですか? アカネズミ」
非常灯しかなかった通路にまばゆい明かりを取り戻して、アイを目覚めさせた。
「アイ、ハツとヤッちゃんを見つけたってアズミさんに知らせて」
「アカ待ってくれ…!」
「アズミトガリネズミをお呼びしますか?」
「いやいい。こっちは俺が片付ける」
「アカ!」
「俺はハツを説得するから。アイはヤッちゃんをお願い」
「はい、アイはヤチネズミを確保します」
「ヤチ!!」
ハツカネズミの声で天井を見上げた時には遅かった。ヤチネズミの全身を圧縮空気が押さえつける。いつも以上の出力。息をすることさえままならない。
「ヤチネズミを確保しました。ヤチネズミは速やかに地下五階に向かってください」
慌てるハツカネズミは圧縮空気を払おうとするが空気は素手で掴めない。かえってアイに纏わりつかれて動作が遅くなっているのに、感覚が麻痺しているハツカネズミはアイの妨害にさえ気付けない。
「アイやめて! ヤチを放して!」
「続けて、アイ」
「アイはアカネズミに従います」
「アイッ!!」
天井に向かって憤慨したハツカネズミはアカネズミに向き直る。
「アカやめて! アイを止めて」
「もうやめよう、ハツ。お守りはアイに任せてハツはこっち来て」
「アカ!」
「ハツ、もういいんだって」
ハツカネズミの纏う空気が変わっていくのをヤチネズミは肌で感じた。奥歯を鳴らすほど食いしばり、鼻筋に皺を刻んで同室の同輩を睨みつけている。まるで掃除前のハツカネズミだ。地下の連中と対峙した時の闘争心だ。駄目だハツ。アカだ、やめろって。ヤチネズミは手を伸ばす。ハツカネズミを止めようとする。だが身体は自分の意思を反映しない。
「ハツ?」
アカネズミも同輩の異変に気づいたらしい。それまでの憐れみを込めた視線が困惑を濃くして、覗き込むようにハツカネズミを見つめる。
逃げろアカ、ヤチネズミは必死に危険を知らせる。しかし動いたのはわずかに指先と瞼だけだ。喉が閉まる。目が霞む。声が、息が、だめだハツ……。
「やめてって言ってるじゃん」
ハツカネズミがゆらりと立ち上がった。
「ハツカネズミを止めます」
アイが電力を集め始める。しかし、
「やめてアイ。ハツは俺に任せて」
アカネズミが命じてアイが応じた。次の瞬間、ハツカネズミがアカネズミ目がけて踏みだした。床が窪む。ハツカネズミの怒号が走る。驚いた顔を見せたアカネズミの頬にハツカネズミの拳がめりこんだ。首を支点にしてアカネズミの頭が後方に弾かれる。頭の重みに引きづられるようにしてアカネズミの身体は傾き、背中で床を滑った。同時に再び停電。ヤチネズミを抑えつけていたアイの重力も霧散する。圧縮空気に抗っていたヤチネズミは息を吸い込み起き上がり、同室の同輩たちを見上げた。
「やめてって言ったじゃん! ヤチが泣いちゃうじゃん!」
「ハツ……?」
アカネズミが困惑している。一度も塔を出ることなく、地下掃除に従事したことのない生産体は、地上で揉まれて実戦を積み過ぎて、変わってしまった同室の同輩を理解しきれずにいる。
「止めてって言ったじゃん! 俺、何回も言ったじゃん!」
「ハツどうしたの? は…」
「なんで止めてくれないんだよ!」
「落ち着いてハツ。俺の話を聞いて」
「ハツ……、も、いいから…」
「聞いてハツ、みんなが助かる方法なんだ」
「ちゃんと答えろよおッ!!」
「ハツ…」
「そっちこそ俺の話、聞けよ」
アカネズミが立ち上がった。何かが吹っ切れたのかそれとも諦めたのか、完全に目が据わっている。
と思った瞬間にはハツカネズミの眼前にいた。ヤチネズミは目を瞬かせる。何だ? 今の動き。アカ? は……、
ハツカネズミがこちらに転がってきた。ヤチネズミは膝と肘で近寄ろうとする。しかし気持ちばかりが急いて身体は鈍重だ。あちこち痛い。脚が、足首が、肩が、耳が。
「ハツ…」
「聞いてって言ってるよね? なんで聞いてくれないの? ハツも治験体になっちゃったの?」
「アカ、やめ…!」
制止しようと振り返ったヤチネズミは、アカネズミの一撃で壁に激突した。何した? 今、何された? 全身の痛みの中でヤチネズミは腹を抑えて蹲る。
「ヤチ!」
ハツカネズミの声が聞こえた。顔をあげるとその先に、並ぶようにしてハツカネズミの顔のすぐ真横にアカネズミがいた。こっちじゃない、すぐ横! ヤチネズミはハツカネズミに知らせようとするが声が出ない。
アカネズミが半身を捻った。ハツカネズミが振り向きかけた刹那、アカネズミは胸まで引き上げた右足で、勢いづけてハツカネズミを後方に蹴り込む。ハツカネズミは丸められた上着のような格好のまま飛ばされて壁をへこませる。硬質なものを落下させた時のような鈍い音。後頭部を打ったか。壁にもたれたままハツカネズミが項垂れて動きを止めた。
その間にもアカネズミはヤチネズミに歩み寄る。目の前に迫り来た男をヤチネズミは見上げる。足元には何も見えていないかのような顔でアカネズミは立ち止まると、右手で自分の左腕を掴み、まるで果実でもむしりとるようにその腕を根元から千切り取った。ねじ切れて繊維と肉が絡み付いた骨の断面をヤチネズミは凝視する。アカネズミは千切った左腕の手首を掴むと、それを断面から垂直に壁の中に突き刺した。ばちん、と目が覚める音。アカネズミの頭髪が逆立つ。そんなことは微塵も気にせずアカネズミはぐりぐりと接続を確かめる。ぼたぼたと血肉と破片が降り落ちる。ヤチネズミが硬直するその頭上でアカネズミは作業を終えたのだろうか。ふう、と息を吐くとその目がぎょろりとこちらを見た。ヤチネズミは固まる。しかし、
「動いちゃ駄目だよ」
……え?
「アカぁッ!!」
ヤチネズミとアカネズミは同時に振り向く。怒り狂ったハツカネズミが立ち上がり、雄叫びをあげて突進してきた。アカネズミは自分の腕だった物をさらに捻り、漏れた電流に火花を散らせた。間もなくして再び空間は明かりに包まれ、アイが戻る。
「アイ、ちゃんと起きてて」
「はい。アイは自分の身を守ります」
短い会話の間にもアカネズミは自らの左肩を横に持ち上げた。アカネズミの意図を具現化して左腕は再生する。ハツカネズミが殴りかかってきた時には完全な二本の腕で応戦していた。ヤチネズミは動けない。壁に突き刺されたぐちゃぐちゃの肉片と、アカネズミの背中を見比べる。
「なんで撃つんだよ! ヤチはトガちゃんの薬が入ってないんだよ!?」
「ハツ聞いて。もう一回検査に参加してくれるだけでいいんだ」
「アイを止めてって言ったじゃん!! やめてって俺、何回も言ったじゃん!!」
「独房になんて行かせない。ちゃんと出させてもらう、約束する。だから俺の言うこと聞いて。これ以上アイと上官に逆らっちゃ駄目だ」
「死んじゃうんだよ? ヤチはすぐに死んじゃうんだよ? ヒミズもセンカクもシチロウもトガちゃんもみんな、みんな簡単に死んじゃう! みんな死んじゃうから、」
「誰も死なせない! ヤッちゃんも死なせないからハツも塔に残って…」
「俺が守らないとッ!!!」
壁板が飛ぶ。天井が落ちる。照明が点滅し火花が弾けて漏れた電流がうねる、暴れる。
ヤチネズミは飛んでくる破片から両手で頭を守りつつ懸命に目を開け、腕の隙間から同室たちの喧嘩を止める機会を必死に探した。
ハツカネズミは興奮状態だ。全くアカネズミの言葉もアイの制止も聞こえていない。自分勝手に己の主張をまくしたてては手当たり次第に触れた物を破壊し、むしり取り、投げつけては飛びついてアカネズミを殴打する。アカネズミの反撃を受けても一切気にせず攻撃の手を止めない。気付いていないのだ。気付けないのだ、ハタネズミの薬が入っているから。地下掃除で実戦を重ね過ぎて、薬の効能が強くなり過ぎているから。加えてトガリネズミの薬の効能もある。出血した傷口はものの数秒で血を止め薄皮を張り、みるみるうちに産毛さえ伴った皮膚が現れやがて何事も無かったかのようにそこに鎮座する。折れた骨はその瞬間こそ形を変えるが、折れたままでも動きを止めず、いつの間にか元いた位置にはまっている。痛みが無いから気付けない。気付かないから意識もしない。だからハツカネズミは攻撃を止めない。自分の身体がどうなっているかなどハツカネズミにはどうでもよくて、使えれば使い、動くなら動かす。その最中に身体の方が勝手に再生を繰り返す。
まるで周りが見えていない。我を忘れるとはこのことだ。地下掃除の時ともムクゲネズミを睨みつけていた時とも違う尋常ではない同室の様子を、ヤチネズミは以前にも見たことがあった。いつだ? ヤチネズミは考えを巡らす。俺はいつ、ハツの錯乱状態を見た? どう止めた? いつどこで、どうやって……
ハツカネズミが投げつけた鉄材をアカネズミが弾いた。鉄材は一直線にこちらに向かってくる。ヤチネズミは一瞬目を見開き、逃げられないことを悟ると瞼を閉じ、頭を抱えてせめて打撃を最小限に食い止めようと身を固めた。肩口に衝撃!
……というほとでもない感覚。見ると鉄材は自分の皮膚から拳一個分ほどの距離で静止していた。やがて事切れたように落下。床に転がる。
「アイ……?」
ヤチネズミは顔を上げた。頭上には壁に突き刺さったままのアカネズミの左腕。
「何かありましたか? ヤチネズミ」
若干割れた音声が答える。
「なんで?」
「それは何についての質問でしょうか」
「なんで俺を守った?」
「皆さんは大切です」
ヤチネズミは唇を閉じた。
ひと際大きな音にはっとして振り返る。ハツカネズミがアカネズミを殴りつけたところだった。頬をくぼませ首から上を半回転させたアカネズミは両足で踏み止まる。すかさずハツカネズミの攻撃。殴りかかったハツカネズミの拳をアカネズミは今度は手の平で受け止めた。と、すぐさまハツカネズミが反対の拳を繰り出す。アカネズミも反対の手の平でそれ止める。轟くような低い声で唸るハツカネズミと、両足を前後に開いて同量の力で押し返すアカネズミ。
「ハツ、聞けって」
同じ言葉を再三繰り返すアカネズミをじりじりと押し込むハツカネズミは何も聞いていない。既に何について口論していたのか、自分が何について憤っていたのかさえ定かではない。
「どうしちゃったんだよ、変だよハツ。ハツ!」
アカネズミも困惑している。殴打の痕が残る頬を歪める。痕……。
アカが圧されている? ヤチネズミはハツカネズミを見る。相変わらず叫んでいて相手の顔色など眼中にない。
「駄目だハツ!」
ヤチネズミは身を乗り出した。床についた手が何かを弾く。アカネズミが捨てた拳銃。
「……アイ」
「はい、何ですか? ヤチネズミ」
「お前は俺たちが大切なんだよな?」
「はい。皆さんは大切です」
「だったら五分だけ時間くれ。あいつらを止める」
「具体的にヤチネズミはアイに何を…」
「五分でいいから口出すな。手も出すな。その後は…」
「申し訳ありませんが了承しかねます。ヤチネズミはしばしアイを欺くきらいがあります。そのためアイは、ヤチネズミの提案に従うことをき…」
「検査室でもどこでも行くから!!」
ヤチネズミは中空を見つめる。アイは数秒間沈黙した後、
「一分三十秒です」
「短くね!?」
「一分三十秒です」
「せめて二分くらい…」
「一分三十秒後にヤチネズミには地下五階に向かっていただきます」
「……わかったよ」
ヤチネズミも観念した。そして、
「いいか、絶対手ぇ出すなよ」
再度アイに念を押す。アイの沈黙を確認して拳銃を片手にし、ほとんど機能しない片足を引きずって同室たちに向かって駆け出した。