00-112 アカネズミ【本音】
過去編(その63)です。
ヤチネズミは動揺していた。口元を手の平で必死に覆い、声を、息さえ漏らさないようにじっとする。
ハツカネズミを見つけた。案の定、地階にいた。そして案の定、塔の中心の方に向かって歩いていた。地上に出ろと言っているのに中へ中へと入り込んでいるとは。呆れつつも自分の読みが当たったことに胸を撫で下ろし、駆け寄ろうとしたが挫いた足では片足で飛ぶように進むことしか出来ず、声をかけようとしたら誰かと話していると気付いて慌てて隠れた。しかし覗き見てみたら話している相手はアカネズミだった。随分顔立ちが変わった気がする。顔つきというか雰囲気というか。大分会っていなかったのだから当然と言えば当然なのだが。しかもなぜか上半身は裸だ。
アカはこの状況を知っているのか? でもアカなら協力してくれるかも……。いや、でも慎重に、とカヤネズミの指示に従って動く前に考えを巡らせていた時、
「シチロウ、死んじゃった」
ハツカネズミの言葉が耳に飛び込んできた。
『しちろうしんじゃった』??
え?
え、何?
シチロウネズミが死んだことをハツカネズミは知っている? ハツカネズミはシチロウネズミを覚えている?? ヤチネズミは混乱する。瞬きを繰り返し、慌てて手の平で口元を覆った。でもハツはムクゲの薬で記憶と感情が壊れたってカヤが……。
「うん、聞いたよ」
アカネズミが答えた。ヤチネズミの動揺をよそに同室の同輩たちは会話を進める。
「さっきヤッちゃんから聞いた」
「ヤチに会ったの!?」
驚いて声を上げたハツカネズミにアカネズミは静かに頷く。
「相変わらずだった。部隊でもあんな感じ?」
「………うん」
ハツカネズミは俯く。
「治験体見て動揺してた。めちゃくちゃ怒ってそれで…」
「そりゃそうだよ、自分事だもん」
アカネズミも同意した。
自分事ってどういうこと? お前ら一体何を喋ってんだよ。ヤチネズミは今にも飛び出して行って疑問をぶつけてしまいたい衝動に駆られる。だがカヤネズミの戒めが胸に響く。ヤチネズミはとりあえず三十まで数えてみることにした。しかし、
「育て方によっては伸びることもあるってアイも言ってたのにね」
「伸びたはずだよ! トガちゃんがんばってたしシチロウだって…」
「俺は無理だったわ。トガちゃんみたいに心広くないしシチロウみたいに優しくない」
諦めたようなアカネズミの苦笑。何言ってんだよ、アカは誰より優しいじゃん、とヤチネズミは無理矢理閉じた口の中でひとりごちる。
「俺だってシチロウみたいには出来ないよ」
ハツカネズミも言う。
「俺らがヤッちゃんから逃げてる時もシチロウはずっとお守りしてくれてたよね」
「シチロウのお陰だよ、全部。シチロウがいたから子ネズミたちとも何とかやってこれたのに……」
尻すぼみに呟いてハツカネズミは沈黙した。
ちょっと待て、何の話だ? ヤチネズミの困惑はさらに膨らむ。俺から『逃げる』? 俺、そんなに嫌われてたのか…?
「ハツもがんばってたよ。ほとんどシチロウ任せにしてた俺からしたらハツの演技は板についてた。本当だよ?」
「演技って、」
鼻から短く息を吐いたハツカネズミは、
「ただ笑って誤魔化してただけじゃん」
と、冷めた口調で呟いた。
どうやらハツカネズミは自分の前では常に演技をしていたらしい。そしてそれは自分を思ってのことらしい。ヤチネズミは瞬きを繰り返す。荒い呼吸を手の平で懸命に隠す。突然突きつけられた信じられない事実に頭がついていかない。信じ難くて、信じたくなくて、でもその理由が知りたくて、容積の小さな頭の中でぐるぐると同じ内容をこねくり回す。とっくに三十秒など過ぎていることにも気づかずに、同室たちが何のために何を思って自分に秘密を作っていたのか、ただそれだけを考える。もっと大切なことの真っ最中だったはずなのに。
「半分になっちゃったね」
ハツカネズミがぽつりと言った。
「トガちゃんもシチロウもいなくなっちゃった」
「トガちゃんは心残りだったろうな。検査も長いこと拒否ってたし」
アカネズミも目を伏せて言う。
「そりゃね」
ハツカネズミが頷く。
「『お前らだけに任せて行くのは忍びない』って俺、謝られたよ」
「ハツも? 俺にも言ってった」
ちょっと待て。トガリネズミは生産体だったから長いこと検査に呼ばれなかっただけじゃないのか? ヤチネズミは頭が痛くなってくる。だって生産体は受容体よりも後に検査に呼ばれるもので、トガリネズミだってそうだって言って……。
「でもシチロウがいたからトガちゃんも踏ん切りついたんだよ。シチロウが最後までヤチのお守りしてくれたから」
『やちのおもり』??
―俺がヤチのお守りしてんだよ? 知らないの?―
あれは冗談じゃなかったのか。
なんとなく、ぼんやりとだが、話の外郭が見えてきた。
どうやら同室の連中は、自分を『お守り』し続けてきたらしい。自分をあやすために常に笑顔を絶やさず、時に道化を演じ、それを自分に気付かせないようにしていたようだ。それこそがあいつらの『秘密』らしい。
だが何のために? なんで俺は『お守り』され続けなきゃいけないんだ? 何歳だと思っている、同い年なのに『お守り』って……。
事実にたどり着いてもなお、ヤチネズミの疑問は解消されない。むしろ余計にわからなくなってくる。そして腹が立ってくる。あれほどカヤネズミに念を押されたのに手の平は完全に口元から離れ、身体の側面で握り拳がわなわなと震える。疑問が憤りになって破裂寸前だ。なんなんだよ、お前ら。なにわけわかんねえことくっちゃべってんだよ。俺の『お守り』ってなんだよ、ばかにすんなよ、ふざけんなよ、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!
「でも、」
ハツカネズミが唇を開いた。ヤチネズミは踏み出した足を止める。
「シチロウも死んじゃった。残ってるのは俺らだけ」
ヤチネズミを『お守り』する面子が、あとはハツカネズミとアカネズミだけ。
「無理じゃん」
アカネズミが天井を仰いだ。諦めきった朗らかなため息。
「要になってがんばってくれてたトガちゃんとシチロウがいないんだよ? あとは任せっきりにして逃げてた俺とハツだけ。俺らだけでこれからもヤッちゃんを見ていけると思う? 無理だよ、出来ないって」
「アカ……」
「ねえハツ、もうやめよう? ヤッちゃんがネズミになるなんて無理だったんだよ」
「アカ?」
「もうアイに任せちゃおうよ。それが一番だって。そのほうがヤッちゃんにとってもいいはずだって」
「本気で言ってる?」
「だってヤッちゃんは治験体じゃん」
アカネズミの声が通路に響き渡った。残響が何度も何度も同じ単語を繰り返し、ヤチネズミの耳の中に吸い込まれていく。
「治験体じゃないよ。『境界型』だってアイが…」
「確定診断させなかっただけじゃん。でももう線、超えてるだろ?」
言いかけたハツカネズミを遮ってアカネズミは続ける。
「アイだって言ってたじゃん。『ヤチネズミに器質的異常は見受けられませんが性格の偏りが強すぎるため集団生活には適しません』って。『性格異常です』って」
―新生児期の検査において何らかの疾患が確認された者、および幼少期の日常生活の中で何らかの異常が発露した者は、ネズミとして地上活動に当たることは不可と判断され、治験体としてこちらで従事していただきます―
「子ネズミの頃からわかってたことじゃん。ヤッちゃんの度が過ぎるわがままとか興奮したら何するかわかんないところとか都合が悪くなったらしらばっくれるところとかが普通と違うって。アイじゃなくてもみんな気付いてたよ。『こいつおかしい。普通じゃない』って」
『こいつおかしいふつうじゃない』。
「こっちが怒ればめちゃくちゃ泣くし、だからって甘やかせば調子に乗るし。俺、何回叩かれたと思ってんの? 泣かせても笑わせても叩かれるんなら距離置くしか他に方法ないじゃん!」
覚えていない、ヤチネズミは首を横に振る。俺はアカを叩いたのか? しかも何回も。いつ? なんで? おそらくとても幼い頃の話だろう。だが子どもってそういうものじゃないのか? ヤチネズミは頷くように顎を引く。子どもの遊びだろう? 叩くだろう、馬鹿にするだろう、優位に立ちたがるものだろう、普通だろう?
「いつの話だよ。子ネズミの頃のことじゃん」
ほら、ハツだってそう言ってくれてる…
「子どもだって異常は異常だよ。俺はハツやシチロウに叩かれたことなんてない」
アカネズミの憤慨にヤチネズミは反論の手段を失う。
「でもアカ、思い出してよ。アイの説明聞いた時、俺らみんなで止めたじゃん。『それはヤチの個性だ』って、『ヤチはなんとかやれてる、連れてかないで』って」
ヤチネズミは顔を上げる。ハツカネズミの出した助け船に気持ちが乗りかけたが、
「言ったのトガちゃんとシチロウだよ。俺はなんにも言ってない」
乗り込む前に船は岸壁から外される。
「ハツも苦労してきたんじゃないの? 同じ部隊でヒミズたちもいて、子ネズミたちに打ち明けるわけにいかないからって必死で隠してたんじゃないの?」
初めてムクゲネズミ隊に入った日、再会の時のことをヤチネズミは思い出す。再会を喜ぶ自分に対して複雑な表情で固まっていたハツカネズミとシチロウネズミ。
「トガちゃんもいないところでよくがんばったね。どうやってきたのか知らないけど物凄く疲れたんじゃないの? ひたすら笑ってさ、ずっとまた演技してたんだろ」
―大丈夫だよ! ヤチ―
―ごめん、ヤチ―
「さっきシチロウががんばってくれたって言ってたじゃん? シチロウがいたから子ネズミたちとも何とかやってこれたって。ヒミズなんてヤッちゃんのこと毛嫌いしてたしその下の奴らでさえ馬鹿にしてたのに、その中で上手くやってこれたって何をどうしてきたの? 俺には全然想像できない。よっぽどムクゲさんの面倒見が良かったのかな。それとも地上だから? 地上ってそんなに何でも出来るところなの? いいね、ハツ達は地上に出られて!」
「アカ……」
ヤチネズミは項垂れる。アカネズミの激昂に縮こまる。ずっと信じてきた同室の素顔がそれまで見てきたものとあまりにかけ離れ過ぎていて、自分に向けられる嫌悪と憎悪がとてつもなく強過ぎて、怒りよりも恐怖が、恐怖よりも悲しさが目頭に集中する。
「……ごめんハツ。でも俺、もう無理だ。アイに預けようよ。俺たちよく頑張ったって。もう十分だって。そうだろ?」
ヤチネズミは細心の注意を払いながら鼻水を啜りあげた。音が漏れていたかもしれない。だがハツカネズミたちがそれに気付くことはおそらくない。アカネズミの息使いの方が響きわたっていたから。
「俺、」
アカネズミが息を吐きながら言う。
「ヤッちゃんのこと怒鳴っちゃった」
ハツカネズミが顔を上げる。
「シチロウが死んだって聞いて、頭に血ぃ上っちゃって。っていうのは全部言い訳だけど」
「大丈夫だった?」
尋ねたハツカネズミに、
「わかんない。扉越しだったし顔見てない」
アカネズミは首を横に振る。
「でもあの時俺さ、言わないでね、ハツ。あの時俺、なんでシチロウが死ななきゃいけなかったんだよって思って。悔しいとか悲しいよりも腹立っちゃって。そして、」
ヤッちゃんが死ねばよかったのにって思っちゃったんだよね。