00-109 カヤネズミ【酒不足】
過去編(その60)です。
走る。走る。ドブネズミは小脇に落ち着きなく大声で笑い転げる子どもを抱え、背中にヤチネズミを宙吊りに背負ってどずどずと通路を走る。
ヤマネも走る。先とは打って変わって、一定の音程に保った声を発し続ける子どもに脇腹を蹴られ突かれ叩かれながら、「痛いって。だめ。叩かない」と首を反らせて注意しつつ、カヤネズミの背中に続く。
ヤチネズミは歯を食いしばる。「ブッチー、痛いって……」と聞き入れてもらえない文句を繰り返しながら、逆さの視界で後方からの追跡者がまだ来ないことを確認する。
「おいカヤ!」
ヤチネズミは大声で最前を走る同輩に呼びかけた。
「お前らどうやってっつうかいつからあそこにいたんだよ」
言ってから首を少し持ち上げ、
「うるさいぞ、そいつ! 少し黙らせろ!!」
ヤマネに向かって怒鳴った。
「無茶言わないでよお!」
ヤマネが泣き言を叫ぶ。
「ヤチさんたちが騒がしく上がって来る前からです」
自分を吊り下げる背中がぶっきらぼうに答えた。
「なんだって?」
子どもたちの叫び声にかき消されないように聞き返すヤチネズミに、
「何でもいいだろ。言ったってお前の脳味噌じゃ処理しきれないんだし」
カヤネズミが鼻筋に皺を刻んで何事かを呟く。
「なんだって?」
子どもたちの笑い声と低い声に耳を塞ぎたいのを耐えながら、ヤチネズミはなおも尋ねたが、
「黙ってろって言ってんだよ、うすのろちび! お前が口出すと大体いつも計画がずれるんだって!」
カヤネズミに怒鳴り返された。
「……お前、なんでそんなに怒ってんだよ…」
気圧されつつ聞き返したヤチネズミだが、はっとして腹で上体を持ち上げ、ドブネズミの肩に手をかけた。身体を折り畳んだまま負ぶわれる形になってから前方に顔を突き出し、
「お前ら刑は!? 独房にいるってアイが……、ってなんであんなとこからいきなり…」
「お前、口臭ぇんだよッ!!」
カヤネズミが突如振り返り、大声を張り上げた。ヤチネズミは面食らい、子どもたちも一瞬静まる。
「く………」
臭いの? 俺。
「お前が出しゃばるとろくなことが起きないんだよってそんなこといい加減気付けよ疫病神! わかったらその臭い息止めて黙って萎れてろ粗大ごみ!」
臭いと言われて思わず口元を手で覆ったヤチネズミに、カヤネズミはさらに駄目押しする。
「いいか、粗大なバカ。俺はセージを助ける。他の子ネズミたちも助ける。ヤマネはバカだけどそれなりに手助けはする」
「それなりって……」ヤマネが弱々しく呟く。
「でもお前は対象外だ。煮られて焼かれて干されてろ。クソちびの干物なんて誰も食わねえけどな」
「そこまで言わなくても……」とヤマネがヤチネズミに同情する。
「俺の邪魔したいなら好きにしろ。その代わり俺も本気で潰すからな、覚悟しろよ」
すっかり小さくなって本当に口と鼻を手で押さえて息を潜めている同室の先輩を、ヤマネはかける言葉もなく憐れんだ。
「ヤチさん、」
ドブネズミに呼ばれて、口元を覆ったままヤチネズミは目だけでその横顔を見る。
「カヤさんの言うとおりです。ヤチさんは少し黙ってて下さい」
隣室の後輩の言葉にヤチネズミはさらに小さくなる。
「あと、」
ドブネズミは憮然と前を向いたまま、
「俺の手が辛いです。掴まるか背負われるかはっきりしてください」
言われてすごすごとその肩に掴まり、ドブネズミに片手で負ぶわれる格好になる。
「それと、」
まだあるのか、ヤチネズミはドブネズミの声にびくつく。
「カヤさんに謝ってください」
「え……」
思わず声を発してしまってから慌てて口を隠したが、
「謝ってください」
ドブネズミはさらに繰り返した。
「……なんで?」
何についてだ? ヤチネズミは口を手の平で覆ったままおずおずと首を伸ばすと、
「謝れって言ってんでしょうがあッ!!」
「ごめんなさい!」
「そう!!」
負ぶい主は先輩に負けず劣らずの鬼の形相で怒鳴った後、また憮然として前を向いた。ヤマネは無言で不憫な先輩を憐れむ。
子どもたちの笑い声と太い声の合唱の中、しばらく沈黙のまま走った。ヤマネの遠慮がちな子どもたちへの注意以外は、ドブネズミの鼻息くらいしか聞こえてこない。カヤネズミはちらりと背後を振り返り、面倒臭そうに顔を顰めて舌打ちした。前方を向くとぼやくように息を吐く。
「……まあ、」
ドブネズミが顔を向ける。
「あの状況で治験体に手を出さなかったことだけは褒めてやるよ」
「………そうすね」
カヤネズミの意見には十割追随するのがドブネズミだ。しかしヤチネズミは、隣室の同輩と後輩が自分の判断に賛同してくれたことに少しだけ顔を上げた。
「俺も」
ヤマネもちらりとこちらに目を遣り、
「コジネズミさんに襲い掛かった時はびびったけど、少しだけ、ほんのちょっとだけ見直した」
言ってそっぽを向いた。
口元を覆った手の平の中で頷いたヤチネズミは、言われてはっとしてまた顔を上げる。
「コージさん! どこ行ったんだ? あれ、あの輸送機! あれどこに繋がってるんだよってコージさん大丈夫なのか? っていうかカヤはなんでアズミさんのこと知ってる…」
「そおーやってすぐに調子こく!!」
途端にカヤネズミが鬼の形相で唾を飛ばす。
「怒られてんのお前は!! 怒ってんのこっちは!! わかる!? わかんねえかあ、その頭じゃ。今にも空に昇って行きそうな軽さだもんなあ? 風船頭ぁ!!」
悪口のちゃんぽんだ。再会以来、全く名前を呼ばれていない。
「大体なんでお前があいつの心配してんだよ! お前、殺そうとしてたじゃん! あ、忘れた? 忘れたか。そうか、そうか、その頭じゃ五分前のことも覚えてられないかぁ!」
カヤネズミのあまりの見幕にヤチネズミは口元を手で覆うことも忘れて、
「カヤ酔ってる? どした? ほんとに…」
「はああ!? 酔ってねえよ? 酔う訳ないだろ考えりゃわかるだろって少しは考えろよ脳足りてねえな疫病神のクソネズミ! 全くもって一滴も飲めてませんけど? 独房で? 死刑囚があ? な~んで酒なんて飲ませてもらえるのかなあー??」
誰だ、お前。ヤチネズミは酒不足で目を血ばらせているというカヤネズミを見つめて唖然とする。酒が切れたら性格が変わるのか? 普通は逆じゃね? 普段が常に酩酊状態だったということか??
ぐすっと鼻水をすする音が聞こえた。見るとドブネズミが泣いている。「うわあ……」とヤチネズミは負ぶわれる背中から上体を反らした。元々大した顔でもないんだからせめてもう少しきれいに泣けよ、と心の中で呟く。助けに来てくれた恩を完全に忘れて、失礼以外の何物でもない仇で返す。そもそも今の会話の中に泣くところあったか?? と自問してヤチネズミは答えに思い至った。
カヤネズミに向けられるドブネズミの尊敬の念は度を超えている。ある種の情に達している。酒びたりの自堕落な生活を送っていたのはカヤネズミ自身の責任だし、禁酒させられて苛ついているのも自業自得だが、それに苦しむカヤネズミを見ているのはドブネズミにとっても苦痛なのだろう、多分。
そしてヤチネズミは気付く。なぜカヤネズミの薬を入れられることでドブネズミの強さが増大されたのか。なぜカヤネズミの薬がドブネズミにだけそのような作用をもたらしたのか。
なんの事はない。痛みにも鈍感になるほど単に興奮していただけだろう。
「おわるんだよ! ちけん。ちけん! ちけんおわるといくの!」
ドブネズミが抱える、落ち着きのない方の子どもが何事かを言い始めた。ヤチネズミたちは走りながら子どもを見遣る。
「な、なに? 何の話?」
ヤマネが尋ねると子どもは、「あのね、あのね! アイがね!」と嬉しそうに早口で話し始めた。
「ねちゃってね、おきてこないでしょ? おきてこなかったら『ちけん』のおわり。おきたらまた『ちけん』なの。だからね、ねちゃったらアイがおやすみって言ってつれてっちゃうでしょ。どこ行くのっておれ、きいたことあるよ。そしたらね、ずっとしずかにおやすみしてられるところですよっていってた。ね? いってたよね? キュウジュウキュウ? ね? ね?」
嬉しそうに無口な子どもに同意を求める騒がしい子どもを、ヤチネズミたちは黙って見下ろした。輸送機の先は遺体安置所か埋葬場か。安置していても面会者など期待できないだろう事を加味すれば、そのまま砂の中に埋められていると考えられる。