00-106 旧ムクゲネズミ隊【反撃】
過去編(その57)です。
オオアシトガリネズミの叫び声にヤチネズミは動きを止めた。
その刹那をコジネズミは見逃さなかった。
コジネズミはヤチネズミに跨られたま、抑えつけられた喉元がさらに絞まるのを覚悟の上で迫りくるヤチネズミの肘に向かって頭突きした。息を止めていた鼻の奥で、変に空気が破裂する。吐き気に似た口中のえぐみを飲み下して勢いのままに飛び起きる。鋭い痛み。耳輪を切ったか。確かあの切っ先にはヤチネズミの血液が付着していた。コジネズミはすかさず右耳を擦る。指先に血液。舌打ちの後、迷わず耳介を引き千切った。
「ってえ……」
言いながら左手で右耳があった場所を擦る。右手の中には自分の右耳だった物。時間にして一秒は無かっただろうし薬は入ってきてないだろう。と願う。
「はい」
言ってコジネズミは右手の中の物を放った。仰向けになって歯を食いしばっているヤチネズミの腹の上にそれは着地する。
「あげるそれ。戦利品」
何の話かわからなくてヤチネズミは瞼を持ち上げた。直後に腹に激痛。今度はヤチネズミが見開かれた上下の瞼から飛び出さんばかりに目玉を剥き出す。コジネズミはヤチネズミの腹にめり込ませた踵を引き上げると、再び同じ場所に踵を落とした。
「『殺せる』って誰のこと?」
右の側頭部辺りから夥しい血液を滴らせてコジネズミは言う。言いながら踵を落とす。
「お前が? 誰を? 殺せるって?」
小首を傾げながら無表情に、一定の間隔で踵落としを続けるコジネズミ。何度目かの踵が浮いた瞬間にヤチネズミは身を捩り、腹を抱えて蹲った。しかし今度は横腹に激痛。
「コージ!」
アズミトガリネズミがコジネズミの肩を掴んだ。トクノシマトゲネズミも反対の肘を掴む。コジネズミは軽やかにそれらを振り払うと、まるで上官たちに目もくれずに蹲る元部隊員を蹴り続ける。
「生産体に傷つけていいと思ってんの?」
「やめろ、コージ!」
「『出来そこない』のお前が、生産体の俺を、」
「それ以上は駄目だ、ヤチが…!」
「コージ!」
「殺れるわけないだろおッ!!」
「ですよねえ~」
ヤチネズミはその声に目を見張った。それに気づいたコジネズミは瞬時に動きを止める。コジネズミを制止することに必死だった生産隊の面々はその声を聞き逃した者さえいた。
即座に反応したのはタネジネズミだ。低い体勢のまま素早く移動し、床に転がっていた、折れ曲がった天板を持ち上げる。
ヤマネは顔を上げた。自分が引き摺り下ろされた場所、天井の穴、ヤチネズミが叩き落とした通気口の中から、
「ぶッ!!」
ドブネズミが飛び下りてきた。背中に負ぶわれているのはカヤネズミ。生産隊が突然の侵入者に振り返るより早く、巨体とその操縦者がコジネズミの上に着地する。
四つん這いのヤチネズミは、自分の目の前すれすれにあるドブネズミの膝頭をなぞるように視線を上げた。
「何だお前ら…」
怒鳴りかけたアズミトガリネズミはカヤネズミの顔を見て眉根を顰めた。カヤネズミも向き直り、「あ!」と声を上げる。
「その節は」
ドブネズミの背中から降りてきたカヤネズミは、アズミトガリネズミの前に出ると、うやうやしく頭を下げた。たじろぎながらも流されて、アズミトガリネズミも会釈する。知り合い? 腹を押さえながら起き上がったヤチネズミは痛みの中で首を傾げた。
我に返ったアズミトガリネズミがはっとして首を横に振り、威厳を取ってつけてカヤネズミに迫る。
「お前らムクゲんとこの連中だな? こんなことして…」
アズミトガリネズミが首を弾かれたようにのけ反って倒れた。黙らせたのはコジネズミの頭突きだ。ドブネズミが退かされていた。「あ、すんません」と悪びれもせずに部隊長に形だけの謝罪を口にして、コジネズミは同様に倒れさせたドブネズミを踏みつけた。
「受容体風情が何してくれてんの?」
再び怒涛の蹴り。
「随分な挨拶だったよ、ドブネズミ。俺の薬で強くなったつもりだった? 受容体が生産体に勝てるわけないだろ」
ヤチネズミは隣室の後輩に手を伸ばす。止めさせようと止められない元上官のずぼんの裾を掴みかけた時、カヤネズミが動いた。大股でコジネズミに近づきその肩を握ると、力任せに小柄な身体を後ろに引く。当然カヤネズミ程度の腕力ではコジネズミが倒されることもなく、コジネズミはひらりその手をかわす。だがドブネズミから引き離すことには成功した。
「何だよ、お前」
子ネズミたちだけでなく、治験体さえも震えあがらせたコジネズミの静かな憤りはしかし、この男には通用しなかった。
「どうもー、廃品回収で〜す。ちっさい粗大ごみの処分にあがりましたあ~」
あまりの爽やかさに、流石のコジネズミも怪訝そうな顔で固まった。誰だ、お前。ヤチネズミも口をあんぐりとさせて呆れ果てる。あの仮面の下はどんな顔なのか。
その仮面がぐるりとこちらを向いた。ヤチネズミはぎくりとしたが時すでに遅く、乱暴に上着の襟を引かれる。振り回されるように立ち上がらされる中で右足の痛みを思い出したが、伝えようと思った時にはみぞおちの方が痛かった。蹴り込まれたヤチネズミは床を滑る。ぶつけた背中の後ろで医療器具が自分の代わりに壊れた。
「か……?」
「とりあえず殴らせろ」
憤怒の素顔を露わにしたカヤネズミが睨み下ろしていた。
「殴ってないじゃん! 蹴りじゃんそれ!」
堪らず言い返したヤチネズミに、
「爪がまだ痛いんだよ!!」
自分の行いが正当だと言わんばかりに怒鳴り返すカヤネズミ。
「おいお前…」
コジネズミがカヤネズミの方に足を踏み出した時、
「セージだ!!」
カヤネズミが子ネズミたちに向かって怒鳴った。ヤマネが彼方に振り返り、カワネズミがびくりとする。
「行かせるな!」
仰向けになったまま首だけ起こしたアズミトガリネズミが叫ぶ。生産隊の面々が旧ムクゲネズミ隊の子ネズミたちを捉えようと駆けだす。コジネズミの舌打ち。立ち上がるアズミトガリネズミ。誰かの手が首謀者たるカヤネズミの肩を掴んだ時、その手の主をドブネズミが踏み込んで殴りつけた。
「俺のカヤさんに手を出すなあ!!」
カヤネズミを守るように仁王立ちしたドブネズミの背中に、
「落ち着けブッチー。誰もお前のものじゃない」
腕組みをしたカヤネズミが訂正する。
タネジネズミが全身で叫びながら天板を投げつけた。折良く振り返ったコウベモグラが顔面で受け止め、投げつけた当のタネジネズミが驚いている。
「コウベ!」
動揺する生産隊を尻目に、失神していたと思われていたワタセジネズミが飛び起きる。カワネズミとジネズミを両手に抱えて走り出した。
「ワタセッ!?」
「ジさん、変なところ触らないで」
カワネズミの呼びかけにも答えずにジネズミに注文を出すワタセジネズミ。呆気にとられたまま抱えられたジネズミは「その呼び方、やめろよ……」と辛うじて絞りだした。
「オオアシッ!!」
「え……」
困惑して腰を下ろしたままのオオアシトガリネズミをタネジネズミが掻っ攫うように掬い上げて駆け出す。
「もたもたすんな! 行くぞ!!」
「でも、や……」
後ろを気にするオオアシトガリネズミを抱えながら、
「どうしよ、当たっちゃった……」
と青い顔が呟いた。
「何これ、何? カヤさんは?」
ワタセジネズミに抱えられて運ばれるジネズミが、横を走るタネジネズミに尋ねる。
「いるじゃん、あそこ!」
顎で後方をしゃくってタネジネズミは答える。
「いるけど!」とジネズミはまだ納得しない様子だ。
「どっから出たの?」
「見てなかった? 天井裏にいたんだよ」
「天井裏ぁ?」
カワネズミも背後を二度見する。
その横で「あのぉ……」というオオアシトガリネズミの声は無視される。
「俺もびっくりしました」
走りながらワタセジネズミも言う。
「コジネズミさんに投げ飛ばされたらカヤさんがいるんですもん。でも『しー!』ってされたら黙るしかないじゃないすか。けど何もないのに黙ってるのも変だと思ったんで死んだふりしてました」
「死んだふりだったの? あれ」
ワタセジネズミの告白にタネジネズミがぎょっとした。
「息止めてました」
ワタセジネズミは胸を張って答える。
「タネジはいつから気付いてたの」
カワネズミの疑問に、
「なんか見られてるなって思ったら目が合ったんだよ」とタネジネズミ。
「あの状況でよく生産隊にばれなかったな」
カワネズミが尤もなことを言ったその横で、オオアシトガリネズミが「あのぉ〜……」と首をすくめながら片手を上げる。
「なんだよさっきから!」
大きな図体の小さな声に苛立ちを覚え始めたタネジネズミを見上げて、オオアシトガリネズミは
「ヤマネさん……」と一言呟いた。それを聞いてようやくカワネズミも同室の不在に気が付く。
「ちょ! 止まって、止まれ! ワタセ!!」
自らの身体を抱える後輩の上着を引っぱって暴れるカワネズミに、
「変なところ掴まないで…」
身体をくねらせてワタセジネズミが嫌がった。
「何、カワ! 早く逃げないと追いつかれるって!!」
数歩前で止まったタネジネズミが怒鳴るが、
「残りは!」
カワネズミが怒鳴り返した。
「残りって?」とジネズミ。
「だからカヤさんたちと…」
「ヤッさんは任せろお前らは逃げろってカヤさんが言ってました」
答えたワタセジネズミに、
「言ってないけどな。目配せだけどな」
タネジネズミがこの期に及んで揚げ足を取る。
「じゃなくてタネジさん…」
言いかけたオオアシトガリネズミを遮って、
「ヤマネは?」
カワネズミが尋ねた。タネジネズミとジネズミが同時にはっとして振り返る。
「ヤマネ、どこ」
カワネズミが繰り返し、他の面々も忘れものに気付いた。オオアシトガリネズミだけが頬を指先で掻きながら小さく息を吐く。
「反対方向に走っていきましたよ」
「なんで言わないんだよ!」
激昂するタネジネズミに、
「さっきから言ってたじゃないすかぁ……」
オオアシトガリネズミが肩をすくめた。
「反対ってどっちだよ!」
「だからぁ、向こう側の高柵とかがあった…」
「ヤマネどこお!」
カワネズミが叫んだ。