00-105 ヤチネズミ【激昂】
過去編(その56)です。
ヤチネズミは耳を疑った。散々踏みつけられたから聞こえが悪かったし、頭もがんがんと痛かったし。コジネズミとは言え、まさかそこまでしないだろう、絶対に聞き間違いだと自分に言い聞かせて両手で上半身を起こし、顔を上げてコジネズミを見上げる。
「こいつ殺してみろよ、俺も手伝ってやるから」
「コージ、さん……?」
「ほら、立てる? 手ぇ貸すから」
「こ、コージさ…」
「コージ!」
「早くしろよ」
アズミトガリネズミの制止もまるで無視してコジネズミはヤチネズミに迫る。満面の笑みで差し伸べられた手から逃げようとヤチネズミは後ずさりしたが、コジネズミに肩口を掴まれて無理矢理立たせられた。挫いた足首が痛い。
「お前さっき俺が、『こいつらは生かしておけって言ってんだろ?』って聞いたら『違う』って言ったじゃん?」
「言ってな……」
「お前だってこんな穀潰しどもは死ぬべきだって思ってんだろ?」
ヤチネズミは首を横に振る。
「素直になれよ、遠慮すんなって。俺が手伝ってやるから」
必死に全身で対抗するが、踏ん張りの効かない右足からずるずると引き寄せられる。
「ムクゲさんは死んで当然だとかって散々言ってたけどさ、」
言った。思った。本気で確信して疑わなかったけれども、
「だったらこいつらなんてもっと当然だろ?」
思っただけだ。思っただけで、
「死ぬべきだろ」
死ぬべき? 『べき』? 死ななければいけない理由って何だ? そんな理由が該当する奴なんて……
「こいつ殺らないとあいつらが死ぬよ」
旧ムクゲネズミ隊の子ネズミたちを顎でしゃくってコジネズミが低く凄んだ。ヤチネズミは硬直した顔をコジネズミに向ける。
「さっき言っただろ? 生産体殺しは極刑だって。エチゴさん死んじゃったらあの停電起こした奴らは責任とって死んでもらうってことだよ」
ヤマネが真っ青な顔で変な声を上げる。
「ムクゲさん殺しの責任は別の受容体が取るみたいだけど、エチゴさんの件についてはこれからまた処遇が決められるじゃん? そしたらそこの子ネズミたちだって責任取らされるんだよ? 死刑と終身刑とあと何かな~?」
カワネズミと目が合う。
「だからこいつに被ってもらおうよ、あそこの子ネズミたちのつ・み!」
耳元で囁かれた。
「この治験体がネズミだったってことにして身代りになってもらうんだよ。アイには『処刑はこっちでやっときましたー』って言えばいいだけだし」
言ってコジネズミはにっこりと微笑みかけてくる。
「いい加減にしろ、コージ。そんな道理が通るわけないだろ。アイも見てる。馬鹿なこと言ってないで…」
「見てるだけじゃあないですかー!」
アズミトガリネズミの忠告を、コジネズミは遮った。一言一句、厭味ったらしく区切りながら。
アイに対して言ったのではない。腕力では自分を止めることができない上官たちの腰抜け具合を鼻で笑っている。
「見てるだけじゃないですかぁ、アイも。手も足も出せなくて口も挟めない奴のことなんて気にすることないでしょう。俺は気にしませんよお? 事後報告でいいんですって! 俺から言い聞かせますから、心配しないでくださいアズミさん! 俺が責任取りますからぁ!」
コジネズミは生産体だ。それも汎用性の高い筋力の増加。加えて彼の薬は副作用が少なく、非常に多くの受容体に入れられている。つまり重宝されている。優遇とも言う。ある程度の罪ならば咎められないことをコジネズミ自身が知っている。
それに引き換えアズミトガリネズミの薬は微妙と言わざるを得ない。少ない食事量で長く動ける低燃費という効能は、地上を調査する上では有用だ。しかし掃除にはあまり関係ない。そもそも生産体は掃除の際に前線には立たない。仮に生産体が掃除に参加したとしても、掃除をしかけるのはネズミ側であり、万全の状態の時に限られる。三日間の断食を強いられた後で地下と対峙することなどあり得ないし、他の者が飢餓状態で動けない時に担いで駅か塔に帰還するなどという、起こり得ない状況下くらいでしか、アズミトガリネズミの薬は使える機会がない。
そして弱さは強者への負い目となって、卑屈さにつながる。
よってコジネズミを強く咎めたり罰することが出来ない気弱な部隊長と、部隊長であるアズミトガリネズミ始め、他の上官の命令に全く従わない実質的な権力者たる一部隊員というねじれた関係が、現生産隊の中には存在した。
「やれよ」
コジネズミが腰帯から短刀を引き抜き、ヤチネズミの手に握らせた。
背中を押される。治験体の男と目が合う。やめて、聞こえないはずの声が聞こえた気がした。ヤチネズミは目を逸らし、コジネズミから逃げるようにアズミトガリネズミに振り返る。元上官は黙って視線を逸らした。
「元々あいつらは全員処刑が妥当なんだよ」
コジネズミに肩を組まれる。
「それをお前が助けるんだよ。無力な受容体を勇敢な生産体が救う、な?」
コジネズミを凝視する。
「ムクゲさんってめちゃくちゃ優しかったよね。俺、超かわいがられてたんだけどお前も?」
ヤチネズミは否定を試みるが、重たい首は動かない。
「お前ならわかるよな? 穀潰しの治験体と掃除に使える受容体、どっちを生かすべきか」
どちらが死ぬべきか。
「決められるだろ? だってお前も生産体じゃん」
満面の笑みでコジネズミは肩を揺すってきた。
ヤチネズミは治験体たちを見回す。アイが一部消えているせいで生命維持装置が止まり、生きているのがやっとの状態で横たわっている者もいる。
―元々勝手に死ぬじゃないすか。アイが生かしてるだけでしょ?―
―働かない奴食わせるために働く者は死んでいいって?―
死ぬべき存在。生かすべき存在。
―仕方なかったんじゃないの?―
仕方なかった。それしか選択肢が無かった。それ以外に方法が……
本当に?
本当にそれしか道はなかったのか? シチロウ。
ヤチネズミは短刀を握りしめる。コジネズミが満足そうに笑う。
右手を持ちあげ、瞼を閉じで思いっきり短刀を振り下ろした。
涙と鼻水を垂れ流した小汚い顔のヤマネは、トクノシマトゲネズミに捉えられたまま目を見開く。蝶番が壊れて外れかけた戸板のように、下顎がかたかたと揺れている。
「ヤッ……さん?」
辛うじて声を発したのはカワネズミだ。
「なんのつもり…」コジネズミが鼻筋に皺を寄せた時、
「『生産体は受容体とは異なり、その身が尽きるまで体内で薬の精製が続きます』」
ヤチネズミが語りだした。コジネズミは口を噤み目を細める。視線の先にはヤチネズミの左腕。突き立てられた短刀がめり込む患部からは潜血が滴る。
「『しかしヤチネズミの薬を受け継ぐことができる生産体は他になく、加えてほぼ全ての受容体も受け入れられず、ヤチネズミの薬を入れられた者は生産体、受容体の区別なく死亡します』」
「黙れよ」
「『アイのない薬合わせは危険で、』」
「黙れって…!」
「『特にヤチネズミの薬はッ!!』」
コジネズミに向き直り、ヤチネズミはその顔と対峙した。流石のコジネズミも思いもよらなかったヤチネズミの怒声に一瞬、怯む。ヤチネズミはそのコジネズミの目をじっと見つめて、
「『……特にヤチネズミの薬は、………“毒”です』」
散々刷り込まれた文言を言いきった。
子ネズミたちの動揺が突き刺さる。カワネズミが何か言いたげに唇を戦慄かせている、その視線だけで言わんとしていることが伝わる。
「そうだよ、俺だよ、」
ヤチネズミはカワネズミを見遣った。
「俺が、」
この『薬』が、
「俺が殺した」
シチロウネズミを、ミズラモグラを、
「全部俺だ」
「でも……」
カワネズミが首を横に振る。
「でも、薬合わせしたって効能出るのにも時間かかるじゃん。シチロウ君のあれは…」
「俺のは即効性があるから」
カワネズミが唇をきつく閉じた。
「だったら何? お前が『出来そこない』っつう話なんて聞いてないんだけど」
痺れを切らしたコジネズミが苛立たしげに割って入ってきた。
「何の時間? これ。自慢大会? お前が誰より受容体を殺してるなんてみんな知ってるって。『仲間殺しのヤチネズミ』って? いいねえ、箔が付いて」
何がおかしかったのかコジネズミはひとしきり笑ってから真顔に戻り、
「前科持ちなら次も簡単だろ? なんならその『毒』でこいつ殺れよ」
ヤチネズミの肩に手を置き、治験体を顎で指して耳をくすぐるような甘い声で囁く。
ヤチネズミも口元を歪に持ち上げて、「はい」と頷く。
「そうっすね。前科持ちの俺ならこれ以上罪重ねても、これ以上罰を重くしようがないっすもんね」
「ヤッさん……」
ヤマネがぐずぐずの顔を左右に振った。コジネズミは楽しそうに声を上げて笑う。
「そうだって! わかってんじゃん。こいつらまとめてお前の『毒』で…」
最後まで聞かずにヤチネズミは腕を払った。不意をつかれたコジネズミを勢いで押し倒し覆いかぶさるようにして跨り、短刀を握りしめたままの右腕の腹でその首を抑えこむ。無防備な咽頭への打撃に、コジネズミの目は剥き出て舌が出る。その上でヤチネズミは泣いているような狂った笑い顔で、傷口を振りかざした。
「死ぬべき奴なんて俺にはわかりませんけど? 殺せる奴ならわかります!!」
「やめろヤチ!!」
アズミトガリネズミが走り出す。トクノシマトゲネズミがヤマネを放り投げて続く。だがどちらも距離があり過ぎた。ヤチネズミは右腕で抑えこんだコジネズミの口元目がけて、血まみれの左腕を打ち降ろす。
「ヤチ!」
「ヤッさ…!」
「ヤチ先輩ッ!!」