00-102 ヤチネズミ【普通】
過去編(その53)です。
「彼らには生きる権利が与えられます」
「『いきるけんり』?」
沸騰した頭がついに音を上げた。
「……何言ってんだ、お前。バカか……」
「アイは愚かではありません。アイには皆さんが一生をかけて得られる知識以上の情報を持ち、能力も備わっているため、その単語の定義には該当しません…」
「権利がなきゃ駄目なのかよ」
ヤチネズミは既にアイの言葉を聞いていない。
「どのような事柄においてもそれに関わるには関わる側の力量が問われます。その力量を推し量って関わるに値すると判断された時にあた…」
「『権利』じゃないだろ」
「権利は重要です。権利を主張する際には権利を与えられて然るべき事実を提示する必要があり、また…」
「普通じゃね?」
「『普通』という概念ほど定義が難しく、曖昧なものはありません。『普通』とはそう思われる方の経験則から成る思い込みであり、他者とその概念を完全に共有することはほぼ皆無であるにもかかわらず、皆さんは相手もまた同様にそう考えているだろうという根拠のない推測からその概念がさも一致しているかのように錯覚します。しかしながらその錯覚を以て会話は成立し、思考が共有されることもまた事実です」
「普通だよ」
「ヤチネズミは何についてお話しされているのでしょうか。アイは理解しません。再度、別の言い方で仰ってください」
「だから普通だって言ってんだよ!」
ヤチネズミは拳を握りしめて顔を上げた。
「何が『権利』だざけんなくそが。そんなもの言い始めたらきりないだろ。全部言葉遊びの中のもんじゃん。じゃなくて、そうじゃなくて! 普通だろって言ってんだよ」
「ヤチネズミが何に関してどのような意見を仰っているのかアイは理解しません。主語を明確にしてください。論点が不明な議論は成立しません」
「生きてることだって。お前が言ったんじゃん!!」
アイが一瞬沈黙した。ヤチネズミは畳みかける。
「美味いもん食って満足して、寝て起きて『おはよう』っつって、面白いもん見て笑って、喧嘩して痛い目にあって大っ嫌いになって、でもやっぱり喋っちゃって仲直りしてそんで……」
上手く言えない。出てこない。手の平で目元を覆って歯噛みして、再びヤチネズミは顔を上げ、
「だから食って飲んで笑って泣いて怒ってへこんでそういういきて…」
そうだ。
「息吸って吐いて、見て聞いて味わって動いて感じてって、そういう、なんつうかそういうのだよ、そういうの。そういうこれ!」
自分の身体を指しながら、
「これ! 普通じゃん!! 普通なんだよそういうの、生きてるの。生きるってそれだけなんだよ『普通』に。『普通』で、だから……、『普通』なんだって!!」
権利とか義務とか、与えられるものではない。
存在している時点で既に命で、存在することを誰かに許可してもらわねばならないなどという理屈は、ヤチネズミにはわからない。命がある、存在する、生きている、それはヤチネズミにとって『普通』なのだ。なぜならばヤチネズミ自身が気がついたら存在が始まっていてその状態を『生きている』のだと教わって、その命もいつか終わると知ってここまできたから。
乳飲み子は割と簡単に死ぬし、子ネズミたちも両手に納まりきらないほど死なせたし、トガリネズミもハタネズミも死んだし、当然のように死はいつもそばにあった。それが普通で、その反対もまた普通だった。
誰でもいつか死ぬ、それは当然で避けられなくて概念をすり合わせる必要もない事実だ。ならば誰でも今は生きている、それもまたヤチネズミには当然の事実だった。
言葉足らずのヤチネズミはだからそれを『普通』と表現したのだ。
「生きてるって普通なんだよ。普通に生きてるんだよ。権利があるから生きてるわけじゃなくて権利なんてもらわなくても生きてるから生きてるのが普通なんだって…」
「権利は必要です」
アイが再び話し始める。
「権利とは事物に関わる際に関わることが是か非か可否かを結論づけた許可です。その者の力量が関わらんとしている事物に見合わなければ、双方またはその周囲の関係者および無関係な者たちに多大なる損害を与える恐れがあります。予測される被害を避ける備えをすること、最小限に抑える努力は全ての者への配慮であり、求められて然るべき観念です。故に権利を主張する際には権利を与えられて然るべき事実を提示する必要があり、同時に義務を滞りなく遂行していることが求められます」
「わかった! わかったってなんとなく」
ヤチネズミは嘘を挟みつつ、
「でもやり過ぎだって言ってんだよ。求めるなら求めるで求められても応えられる奴に求めろよ。応えられない奴に強要するなよ」
「能力差によって義務を求められる者と免除される者が現れるのは不平等です」
「不平等なんだよ! んなもん求めて手に入ると思ってる方が狂ってるだろ。もし平等ならハタさんはまだ生きてるしもし公平ならトガちゃんだって死ぬ前に地上に出てた。夜汽車に載せられる奴らなんていらないし、生産体と受容体の区別だってないはずじゃん!」
「生産体と受容体の区別はあります。素質を活かすことは重要です」
「お前さっきと言ってること矛盾してるって気付かないの?」
「アイは矛盾しません。アイは皆さんに平等で公平です」
「誰がその平等を望んでんだよ。お前の平等と公平で誰が得する? 誰が喜ぶ? 俺らのためって言うんだったら区別じゃなくて差別をなくせよ。平等がそんなに大事ならこいつらもみんな同じように大事にしろよ、塔の子どもだろ?」
「皆さんは大切です。アイは皆さんの健やかな生活をお手伝いします」
「だーかーら…ッ!!」
「もういい、アイ」
野太い声が背後から聞こえた。
「しばらく黙ってろ」
「はい。アイは一旦、退きます」
ヤチネズミは振り返る。見上げた先の懐かしい顔に思わず笑みがこぼれた。
「アズミさん……」
久しぶりの再会が心強くて安心した。
もう大丈夫だと思った。
アズミトガリネズミから進言してもらえばセスジネズミの刑の執行もきっと待ってもらえる。カヤネズミだって事情を説明すれば死刑も撤回されるだろうし、ハツカネズミだってドブネズミだってここの奴らだってネズミとして扱ってもらえる。大丈夫だ、きっと。だってアズミトガリネズミが来てくれたのだから。
「アズミさん助けて…、手を貸してください! セージがカヤと死刑なんておかしいのにやめろって言ってるのにアイがこいつらを…」
「馬鹿野郎!!」
片足でひょこひょこと歩み寄りかけたヤチネズミはぴたりと止まる。
「どんだけ死なせれば気が済むんだ、お前は!!」
何がなんだか理解が及ばず、呆気にとられて立ち尽くした。