00-101 ヤチネズミ【権利】
過去編(その52)です。
ヤチネズミが通気口の天板に向かって拳を振り下ろした。しかしヤチネズミの腕力では天板は割れない。割れはしないが曲がる。衝撃音が響きわたる。眼下の子どもたちが一瞬泣き声を顰め、アイも感知する。ヤチネズミは尚も拳を振り下ろす。両手の指を絡めて全身を使って怒りを破壊に変換する。警報音、泣き声、ヤマネの悲鳴、アイの制止。へちゃげた天板はついに四隅の踏ん張りを失い落下した。圧縮空気が子どもたちへの直撃を食い止め、それを利用してヤチネズミも床に降り立つ。
全身に圧し掛かるアイの制止の中、天井の高さにもかかわらずほふく前進のままヤチネズミは子どもたちを目指す。歯を食いしばって手を伸ばす。途端に床を掴まされる。首筋を浮き立たせ、気力で体力を絞りだそうと試みて野太い声ばかりを吐きだしながら、重たい身体を意地だけで保持する。
―もうやめて、アイ…―
言ってもやめてくれないなら、
―仕方ないって言ってんじゃん―
黙って従うことがすべきことだというなら、
―それが塔が求めることだったんです―
そんなもの全部捨ててやる!!
駄目なものは駄目だ、だが嫌なものは嫌なのだ。求められようが義務だろうが、腹の底からわき上がる拒絶感には抗えない。そこに理由も根拠もないし説明もできない。
―ヤッちゃんさあ、前から思ってたけど本ッ当にわがままだよね―
そうだよ、餓鬼だよ、悪いかよ。
―仕方なかったんじゃないの?―
でもそんな言葉で諦められないんだって!
「ヤチネズミは地下五階に向かってください」
圧縮空気に押し潰される。アイが警報音を響かせる。ヤチネズミは床に半面を押しつけられながら這い進む。
「ヤチネズミは地下五階に向かってください。出来ますか? アイがお手伝いしましょうか」
病床にたどり着く。片足で踏ん張り、両腕の腹でいつもの倍は重たい身体を持ち上げ、虚ろな男を覗き込む。
「聞いていますか? ヤチネズミ」
男は既に息絶えていた。あの瞬きが最期の活動だったのかもしれない。警報音の後ろで心肺停止を告げる電子音が陰鬱に鳴り続け、男の目尻には一筋の涙の跡が走っていた。
「ヤチネズミ、」
「おい! 起きろお前!!」
「五二から離れてください」
「死ぬなよ、おい!」
こんなところで。
「だめだってまだ!」
なんにも見ていないのに。
「おい!!」
「五二は死亡が確認されました。蘇生する可能性はほぼありません」
「死ぬなよッ!!」
「五二は死亡しています」
「黙れぽんこつ!!」
圧縮空気をなぎ払うようにしてヤチネズミは天井に向かって怒鳴った。
「なに諦めてんだよ、勝手に決めつけんな!!」
「忍耐強さと引き際の悪さは異なります」
「切り替えが早過ぎるのは冷血なだけだろ!!」
「アイは血が通いません」
「例えだよ!! わかれよ言葉の裏ぁッ!!」
「ここは言語議論の場ではありません。ヤチネズミは速やかに五二を解放し、地下五階に向かってください」
「だったらここにいる連中全員連れてけよ、五階に! こいつらだって検査受けてんじゃん、ならネズミじゃん。ネズミなら地上に行く機会も平等に与えて…」
「彼らはネズミではありません」
「ネズミじゃないなら何なんだよ!! 夜汽車か? 夜汽車も夜汽車で検査受けてんのか!?」
「夜汽車内で検査は実施されません」
「だったらなんでこいつらは…」
「彼らは治験体です。治験体は薬の精製および安全性を量る義務が科せられます」
「『ちけんたいぃ』!?」
聞き覚えのない単語だった。
「何だよそれ」
「新生児期の検査において何らかの疾患が確認された者、及び幼少期の日常生活の中で何らかの異常が発露した者は、ネズミとして地上活動に当たることは不可と判断され、治験体としてこちらで従事していただきます」
自力で立ち上がれない者がネズミになることは難しい。
「それが理由か? それがこいつらが検査ばっかり受けなきゃいけない理由なのかよ!」
「皆さんには個々の特性があります。あなたが出来るからと言って彼らも同じようにそれをこなせるとは限りませんよ、ヤチネズミ。個々の持つ特性に合わせた職務に就くことはその方の幸福度において非常に重要であり、塔にも多くの利益をもたらします」
「特性に合ってないじゃん! こいつらばんばん死んでんじゃん!」
「検査における不幸な事故は珍しくありません」
「『事故』じゃねぇだろ!? こんな虚弱体質の奴らに薬合わせなんてしたら死ぬ確率の方が高いなんてお前ならわかるだろ? わかってやってんのは事故じゃねえよ! 故意に! 殺意で! お前がやってんのは犯罪だっつってんだよわかれよバカ!」
「故意はありません。確率の計算は可能ですが全てはあくまで可能性であり、実際の結果と大きく乖離することも少なくありません」
「きーきーかーんーり!! 逃げ道ごちゃごちゃ語ってんじゃねぇよ。危ないって少しでも思うなら避けるか止めるかするもんじゃねって言ってんだよ!」
ヤチネズミは足を踏み鳴らした。熱を帯び過ぎた頭を冷まそうと手の平で視界を遮る。努めて冷静に話そうとするが頭蓋の中の沸騰はその程度では収まらない。
「そもそもの前提からしておかしいじゃん。俺らは検査受けたよ、受けるよ、ネズミだからなあ? でその代わりに俺らは地上に出られたんだろ? 仕事と報酬もらってんだろ? ならこいつらは? こいつらも検査受けてんだ、それも無理矢理! それに対する報酬は? 命がけの仕事に対してこいつらは何をもらってるって言うんだよ!!」
「生産性です」
ヤチネズミは固まった。呆気にとられて下顎は脱力して、いつの間にか圧縮空気が霧散していることも気づかない。
「……何だって?」
「治験体の皆さんには生産性が与えられます」
「んだそれ…」
「自己の能力と時間を捧げることによって創り出す付加価値と、その効率の度合いです。彼らは彼ら自身の能力だけでは生産性が決して高いとは言えないため、外部からの助力を必要とします」
ヤチネズミは瞬きをする。
「治験体としての義務を全うし、生産性を得ることで、彼らは権利を与えられます」
「『権利』?」
汗を撒き散らしながらヤチネズミは息絶えた男に振り返る。哀れな子どもたちを見回す。
「この状況の……、こいつらの! こいつらに何の権利が与えられてるって言うんだよ!!」
床に貼り付けられて、誰の目にも手にも触れられずに、義務だけを負わされて死んでいく彼らには、
「彼らには生きる権利が与えられます」