00-99 ヤチネズミ【病児】
過去編(その50)です。
「病児だ」
ヤチネズミは呟いた。言われてヤマネも目を凝らす。それから「ああ」と小刻みに頷いた。
塔の子どもたちは新生児期に受ける検査によって分類され、その後どこに配属されるかが決まる。生産体、受容体を持つ者はネズミとして地階で育てられ、それ以外の多くの陰性の子は夜汽車に乗せられ、『おや』のある子は上階から降りてこなくなり、何らかの異常が発見された子は省かれる。
ヤチネズミとヤマネが見下ろしている子どもたちは皆、乳児と呼ぶには大きな身体に対して、幼児にしては四肢が細すぎた。動きも乏しく、喃語未満の発音しか聞こえない。そしてそのうちの半数は栄養不足を補うためだろうか、鼻から管が覗いていた。酸素吸入をしている子もいる。
比較的肉付きの良い子が大声で泣いていた。というよりもむしろ、泣き声をあげているのはその子だけだった。絞り出す小さな吐息に辛うじて音がついたような声しか出せない子どもたちの中で、その子どもだけは気が触れたように発声し続けている。いつ息継ぎをしているのかも定かではない。もし仮にヤチネズミがあやそうと抱き上げていたとしても、恐らくはその泣き声に尋常ではない何かを感じ取っただろう。そしてその泣き方こそが、その子が健常児とは違うことを証明していただろう。
「多動かな」
ヤマネが同じ子どもを見下ろして呟いた。
「だな」
ヤチネズミも頷く。
そう言えば、とヤチネズミはヤマネの横顔を見つめた。お前らの代にはカワネズミとセスジネズミ以外にもいたよな、と。何という名前だっただろうか、シチロウネズミがあだ名をつけていた気がするが思い出せない。児童期には省かれていたはずだ。だが遊んでやった覚えはある。何と言っただろうか。顔さえ出てこない。アイに多動症と判断されて連れていかれた、その事実だけをぼんやりと思い出す。
「どこ行くんだろうな、あいつら」
どこに行ったんだろうな、あいつは。
ヤチネズミはぽつりとこぼす。そして自分の声を聞いてから、今まで考えたこともなかった事柄に対して初めて疑問を持った。
「上でしょ」
当たり前だとでも言うようにヤマネが答えて暗闇を見上げた。昇降機は全く止まる気配もない。
「上階に行って何になるんだ?」
ヤチネズミもつられて見上げる。
「ネズミと夜汽車以外の何かだよ」
面倒臭そうにヤマネは言う。
「何かって何だよ」
適当な答えしか寄こさない後輩に苛立ちをぶつけたが、
「知らないよ。知識なら生産隊出身のそっちの方が持ってるだろ?」
ぶつけた苛立ちは倍になって返された。もちろんヤチネズミが黙っていられるはずがない。
「またお前らはそうやって何でも『生産体、生産体』って差別しやがって…」
「どっちにしろさ」
ヤマネは先輩の言葉を最後まで聞かずに子どもたちに視線を戻し、
「昇降機が止まらない限り俺らも降りれないんだし、このまま行けばヤッさんの疑問の答えも出んじゃね?」
「何階まで昇るかわかんないのにこのまま乗っていくつもりか?」
ヤマネの呑気な姿にヤチネズミは身を乗り出す。
「下手したらセージの処刑に間に合わねえんだぞ?」
「だって降りれないじゃん」
大袈裟に口角を動かして、厭味ったらしくヤマネが返した。
「それとも何? この速度からどっかに飛び移る? っつうか飛び移る場所ある? 現実見ろよおっさん」
「見てねえのはそっちだろくそ餓鬼! そんな呑気に胡坐かいてる暇なんてないって…!」
頭頂部への落下物が興奮しかけたヤチネズミの口を止めた。ヤチネズミは頭に手を遣り頭上を見遣る。しかし闇しか見えない。何が落ちてきたのかと足元を見回すが、こちらも同じく薄暗くて落下物の正体はわからぬままだ。
「なにしてんの?」
ヤマネに訝られ、「いや」と首を捻る。ヤチネズミ自身、何があったのかよくわかっていない。
「とにかく!」
気を取り直して小声に戻り、
「セージの処刑を止めることが最優先だ。それだけは忘れんなよ」
「ったりまえだろ、何言ってんだよ」
吐き捨てるように言ってヤマネはそっぽを向いた。自分が鼓舞する必要もなかったかとヤチネズミが思った時、当たり前になっていた足元の上昇が止まり、一瞬の浮遊感の後で昇降機が平行移動を始めた。体制を崩したヤマネが倒れてきてヤチネズミは片手で押さえる。
「何階?」とヤマネ。
「一階ではなさげだな」
体感だが明らかにもっと昇った。
「どっかで下に降りないと」
「どっかってどこでだよ…」
どん、と響いた。振動だった。今度こそ気のせいではない。横揺れにも似た衝撃が臀部にまだ残っている。
ヤチネズミとヤマネは揃って目を見張り、音のした昇降機の後方壁面の方を凝視した。姿は見えない。だが確かに追跡者がそこにいる。
「……お前、そば粉以外に何持ってる?」
ヤチネズミはヤマネに耳打ちする。
「なんもないよ。説教部屋で反省中だったのにあるわけないよ」
「そば打ってたんだろ? こん棒的ななんかないのかよ」
「休憩中に暇潰しで打ってただけだし、出来あがったのは子ネズミたちに食わしてやってってアイに渡しちゃったし。ヤッさんこそなんかないの?」
「俺の休憩時間は睡眠だけで終わったよ」
「まじで? アイさんヤッさんには厳しかったんだね」
互いに丸腰なのを確認し合い、ヤチネズミは鼻で笑ってヤマネは息を吐いた。
「先手必勝の逆だ」
ヤマネが言う。
「逆って?」
とヤチネズミ。当てはまる言葉が思いつかないが。
「『逃亡必至』」
ヤマネは闇を見据えて答えた。
「何だよそれ」
「俺の造語」
「意味は?」
「『逃げて逃げて逃げまくれ』」
「逃げてるだけじゃ勝ち目ないだろ」
ヤチネズミは苦笑しながら膝に手をつき腰を上げた。
「『逃して逃して逃げまくれ』だ」
「どっちにしろ逃げんじゃん」
ヤマネが白けた目を寄越して来た時、今度は足下が方向転換した。ヤチネズミはふらついて尻もちをつき、咄嗟にヤマネの袖に縋り付く。
「んだよおっさん、気持ち悪いな」
腕を払おうとするヤマネにヤチネズミは尚も縋り付く。そして、
「……足、」
「あし?」
「挫いたっぽい。さっき」
気不味そうに打ち明けた。
「えぇえっ!? 何やってんのこんな時に本気で使えない…!」
「ば! 声抑えろって」
「いいよもう! 俺だけでやってやるよ。お荷物は座ってろばかぁ!」
アイや子どもたちに存在を隠すことを諦めたのだろう。ヤマネはヤチネズミを振り払うとがんがんと音を立てて昇降機の天板上を移動し、件の音のした壁面を覗き込んだ。
「ばか! そんなおおっぴらに…」
「いない」
「ぁあ?」
「いないよ、誰も」
昇降機の天板の縁に立ってヤマネが言った。右足を引きずりながらその横にやってきたヤチネズミも、ヤマネの肩に勝手に手を置き足下を見下ろす。
「いたよね? なんかいたよね?? 『ごん!』って聞こえたし気配だっつ…」
昇降機が停止してヤマネは舌を噛み、ヤチネズミは再び尻もちをつく。
「ねえ、何で誰もいないの? ねえ、ヤッさんてば」
そこまで言ってヤマネは口を噤む。臀部をさすっていたヤチネズミの頭の上で、
「出たんだ……」
真っ青な顔が譫言のように呟いた。
「お、おばけ! おばけだよ! 幽霊が出たんだ…」
「なわけあるか」
呆れて息を吐きながらヤチネズミは言う。
「だっていたのにいないし!」
「隠れてんだろ」
半べそのうるさい後輩の手を借りてヤチネズミは立ち上がる。確かにヤマネの言うとおり、追跡者の姿は見えない。どこに潜んだのか、不意を突くつもりだろうか。しかしそれよりも、
「離せよ!」
あれほど離れろと言ってたくせにヤマネはヤチネズミの手を握って離さない。
「握っててよ」
「くっつくなって!」
「だってぇ……」
使えないのはどっちだよ! ヤチネズミは姿の見えない追跡者と使えない足かせに、顔を背けて舌打ちした。さらに握りしめられた右手に苛立ちが頂点に達する。
「ヤマネ…!」
「ヤッさん、」
自分の手を握りしめる手とは反対の腕を僅かに持ち上げ、ヤマネが下方を指差した。
「ヤッさんの疑問の答え」
指された先にヤチネズミも目を凝らす。昇降機の天板の裂け目から覗くのは、箱の中から搬出される病児たちの姿だ。ヤチネズミはヤマネの手を引き、右足を引き摺りながら裂け目の傍まで歩み寄った。膝をついて中の様子を見つめる。か弱いいくつかの泣き声と唯一の盛大な泣き声は輸送装置に載せられて遠ざかって行く。ヤチネズミは両手をついて覗きこむがどれほど頬を擦りつけても子どもたちの行く先までは見えない。
「ヤッさんこっち」
呼ばれて顔を上げると、いつの間にかヤマネが手を離していた。見るとまた壁板を剥がしてその中に四つん這いになって納まっている。いや、壁板ではなくて金網?
「通気口だよ。これならあいつら追えるんじゃね?」
後輩の提案に頷いてヤチネズミは右足を引きずりながら後に続いた。