00-97 ヤマネ【狂気】
過去編(その48)です。
ヤチネズミはヤマネと並んで暗い通路を走った。オオアシトガリネズミが行くべき先の灯りを落としてくれている。だが走り抜けた傍から停電は解除されていく。そのため自分たちの影が長く前に伸びている。そして背後が明るくなる度にアイを感じる。アイと共に自分たちを探す他部隊のネズミたちの気配を感じる。どこの部隊だろう。アイの呼びかけでわざわざ塔に帰還したのだろうか。オリイジネズミ隊だって救援要請後の到着は早かった。どこの部隊も命令には忠実に従うようだ、自分たちと違って。
ヤマネが遅い。ヒミズも足が遅かったがこいつも負けず劣らずなかなか遅い。ヤチネズミは傍らを見る。と、非常灯に慣れた目が眩しい光に気付いた。咄嗟にヤマネの上着を掴んで傍らの暗がりに投げ込む。顔から壁に激突したヤマネは悶絶し、乱暴な先輩を怒鳴りつけようと立ちあがったが、今度は口を手の平で塞がれた。その直後に、先までいた通路を複数の足音が駆け抜ける。
ヤチネズミはヤマネを抑えこんだまま通路を覗いた。足音と懐中電灯の踊る光が完全に過ぎ去ってから、ほっと息を吐く。その隙にヤチネズミの腕から逃れたヤマネが、
「痛ぇんだよ、ヤッさん! 先に声かけろよ」
「遅いんだろ、お前が。見つからなかったんだから良かったじゃん」
ヤマネはぶすっとして唇を尖らせたままそっぽを向いた。ヤチネズミはもう一度通路を見遣って、
「よし行くぞ」
不貞腐れているヤマネに声をかけ、通路に首を突き出した。右手は既に電気が灯っている。もう戻れない。だが左手に進めば先ほど駆けて行った連中と遭遇する可能性もある。
「別の経路探すか」
「なんで?」
状況を説明してヤマネを黙らせた。とは言えもう少しだけ待ってから左手に進むしかないかもしれない。先の奴らと遭遇した時に衝突は免れないだろうが…。
「昇降機で一気に行っちゃだめなの?」
腕組みをして唸っていたヤマネがそんなことを言った。ヤチネズミは呆れて振り返る。
「バカかお前。昇降機なんてアイに見つけてくださいって言ってるようなもんじゃん」
「バカはそっちだろ、おっさん。誰も昇降機に『乗る』なんて言ってないし」
「乗る以外でどう使うんだよ、なあ!」
『おっさん』という悪口に瞬間苛立ち、ヤチネズミは後輩に凄んで見せる。見せたところで威圧感はなく、あぶり出されるのは小物感しかないことにも気付かずに。
ヤマネは白けた目を先輩に向けながら、息を吐いて首を振った。それから、
「あのねえ、ヤッさん。例えばの話だけど、ヤッさんの鼻の穴にちっさい何かが入ってきたら嫌じゃん?」
「何の話だよ」
「例え話だよ、聞けってじじい」
ヤマネはさらに面倒臭そうに息を吐く。
「砂とか塵とかが目に入ったらすぐ気付くじゃん? 出そうとして擦るよね。でも寝てる間に口に入った埃には気付かなくね? 気付かないってことは出そうともしないよね。埃がそのまま気管とか食道とか見えないところに行っちゃったらもう埃を食っちゃったっていう事実さえ知らないままだよね?」
「俺は吐くけどな」
ヤチネズミの薬は一切の消化吸収を許さない。
「お前の反射がどんだけすごいかの話じゃないって。気付く気付かないの話。ヤッさんの薬が飲み食い出来なくて何でもかんでも吐き出すっつうのはおいといて、吐くまでは埃を飲みこんでたことも気付かなくね? って聞いてんの!」
ヤチネズミは言われて口を閉じ、斜め下に視線を向けて少しだけ考えて、「まあ」と答えた。
「だからそういうこと」
ヤマネが言う。
「どういうことだよ」
ヤチネズミは視線を戻す。
「顔と同じくらい物わかり悪いな、じじい」
「ああ?」
「だからアイも同じってこと」
俄かに爆発しかけた怒りは、ヤマネの一言で鎮火する。
「……アイも同じって?」
「アイだって気付かないんだよ、寝てる間に見えないとこから入り込んだものなんて。
電気がついてる部分はアイが見えてるところでしょ? ヤッさんの身体で言えば皮膚みたいな。誰かが触ればもぞもぞ感で気付くし、鼻に指突っ込まれたら抜こうとするじゃん。
でも電気がついてない時はアイちゃんお休み中なの、ね? 寝てる間に顔に落書きされても起きなかったヤッさんみたいに、電気が消えてるところで俺らがなんかしてもアイは感知できないんだよ。だからオオアシは停電起こしてんじゃん。でもどんどん復旧してってんでしょ? だったら常日頃から電気点いてないところに行けばいんじゃねって話」
後輩の早口に圧倒されてヤチネズミは押し黙る。オオアシトガリネズミだけでなく、自分よりも下の代はなぜここまでアイの構造を熟知しているのだろうか。俺たちが無学なだけか? 最近の若い奴らはすごいな、などと感心しつつ、先の話を反芻してみたがやはり、
「……どゆこと?」
「だめだ、こいつ。なんともならねえ」
完全に呆れられた。
「し、仕方ないだろ! わかんないから聞いてんのに…!」
「こっち。ついてきて」
後進的な先輩に背を向けて、先進的な後輩は暗がりの中を歩きだした。
辿り着いたのは昇降機乗り場だった。いくつかの自動扉が整然と並んでいるが、
「めちゃくちゃ電気点いてんじゃん」
ヤチネズミは暗がりから悪態を吐く。
「そりゃね。オオアシが用意してくれた経路じゃないしね」
同じく首を覗かせながらヤマネが答える。
「で、どうすんだよ。昇降機に乗るにしてもここに出た途端にアイに抑えこまれるじゃん」
ヤチネズミは提案者の後輩を責めるが、
「考えようよ、『せんぱい』」
逆になじられて閉口する。
ヤマネは小さくなった先輩を見下ろすと、「ったく」と言って立ち上がり、両手の指をばきばきと鳴らし始めた。
「何してんだ?」
尋ねてきたヤチネズミを見もしないで、ヤマネはきょろきょろと何かを探している。そして眉毛を上下させて瞬きすると、暗がりの中で壁に歩み寄り、その一部に手をかけた。ヤチネズミは目を凝らす。剥がしやすそうな壁板を探していたようだ。ヤマネは両手で目当ての板を剥がすと一旦足元に置き、両手首の先を振ってから再びその板を持ち上げた。
「昔、カヤさんがやってるの見たことあるんだ」
ヤマネがにやりと片頬をあげる。
「一度やってみたかったんだよね」
言うと板を頭上に振りあげ、壁内の基盤を導線ごと破壊した。
火花が散る。灯りが不規則に点滅し、警報音が鳴り響く。ヤマネの思惑通りの完全な停電は起こらず、返ってアイに居場所を教えることになった。
先ほどの連中だろうか。怒号と足音が近づいて来る。ヤマネは完全に興奮状態に陥り、高笑いしながらも火花の中で破壊行動を続けている。
「や…、ぁ……、ヤマネぇ!!」
「いたぞ!」
追跡者たちに気づかれた。いや、自分で居場所を暴露した。違う、もともとはヤマネがばかなことをしなければ!
「来い!!」
慌てて後輩の袖を掴み、ヤチネズミは昇降機乗り場に躍り出る。警報音が鳴る。灯りが明滅する。ヤマネが笑う。足音が近づく。慌てる。ふためく。混乱しながら、
「どこ行きゃいい!!」
後輩の腕を力一杯揺さぶった。ヤマネはへらへらと笑みを湛えながら、
「昇降機って言ってんじゃん」
などと余裕をかましている。
ヤチネズミは後輩を放り出し、最寄りの昇降機に駆け寄った。開かない。当然だ。アイに頼まないと動かない。だがアイには頼めない。どうする? どう使う? どうすれば動く…
脇を押し退けられた。ヤマネは両足を肩幅に開いて両手の指先を扉の隙間にかけると、力任せにそれをねじ開けた。開くんだな、それ、とヤチネズミは呆気に取られて感心する。
「早くしろって、ヤッさん!」
上機嫌に得意気に、したり顔を向けた後輩は、言うなり暗がりに飛び込んだ。ヤチネズミは息も忘れて立ち尽くす。
「待て!」
背後から怒鳴られてびくりとする。見ると追跡者が懐中電灯も放り投げて剛速球のように向かってくる。慌ててヤマネの後を追おうとし、その扉の縁に手をかけて立ち竦んだ。
「まじかよ……」
あるべき箱は見当たらず、上下に巨大な空間が暗い口を開けている。
「ヤッさん早く!」
見上げた先には壁面に貼り付いたヤマネ。指と靴先を僅かな凹凸に引っ掛けながら、すでに上階を目指し始めている。
「まじかよッ!」
「ヤチ!!」
怒鳴られてヤチネズミは振り返った。追手はもうすぐそこに迫る。
「だー! くそっ!!」
ヤマネに任せたのが間違いだった。オオアシトガリネズミの用意してくれた経路を選んでいればこれほど大騒ぎにも追われることにもならなかったのにと後悔しながらも、ヤマネに倣って右手の壁面に手をかける。昇降機を滑らせる溝を跨ぐようにして両手足を垂直な面に沿わせるが短い足が災いした。左のつま先が空を踏み瞬間、全身が無重力に包まれる。反射的に力んだ両手が辛うじて滑落を止めたが、心臓の音と息使いが暗闇に響き渡り、冷や汗が顎を伝って見えない足元に吸い込まれていった。
「ヤッさん息止めて!」
ヤマネの怒声に呼ばれた。はっとして見上げた先から白い粉が降り注ぐ。訳がわからず口を開けきった呆け顔に、
「吸うなよ神経毒!」
確認する間もなく慌てて口を閉じ息を止めて顎を引いた。ついでに閉じていた瞼の向こうで、「回避! 回避!」と叫ぶ声と別方向からは「早く登れって!!」というヤマネの指示。明らかに粉っぽい口中は気のせいだと頭の中で繰り返して手探りに歯を食いしばって頭上を目指した。
と、すぐにヤマネに追いつく。頭がヤマネの靴裏にあたったのだ。待ってくれていたわけではなく、単に登るのも遅いのだろう。
「あ〜、楽しかった」
ヤマネが笑いながらそんな言葉を口にした。
「ヤマネ……」
ヤチネズミの戸惑いをまるで気にせず、快活な声はのろのろと動きながら、
「ちょ! ヤッさん真っ白!!」
げらげら笑って手を止めた。
言われてヤチネズミは身体を見下ろす。口の中の粉っぽさは気のせいではなかったらしい。
「や、ヤマネ、お俺、すう…」
「粉吐きながら喋ってるし!!」
「お、おおおい、やま…」
「大丈夫だって。ただのそば粉だよ」
ひとしきり笑ったヤマネがさらりと言い放つ。青い顔のヤチネズミは言われた事実を理解するのに数秒を要した。
「そばこ……?」
「さっきまで打ってたんだよ。何もすること無かったからさ」
じれったいほど緩慢に手足を動かしながらヤマネは言う。手持無沙汰はそばを打つのか? ヤチネズミは壁面にへばりついたまま動けない。
「こういうこともあるかと思って持ってきてたんだ」
得意気に笑顔を向けてヤマネが言った。『こういうこと』とはどういうことを想定していたのだろうか。確かに追手の足止めには一役買ったが、
「どういう神経だよ、お前……」
ヤチネズミにはそう呟くのが精一杯だ。
「えー? 楽しかったじゃん。わくわくしなかった?」
「しねえよ! 心臓ばくばくだよ! 死ぬかと思ったわ!!」
本気で正気を失っている後輩に呆れかえりながらもヤチネズミは足元を見下ろす。無理矢理こじ開けた昇降機の乗り口には、誰の顔も覗いていない。追ってきた連中に名前を呼ばれたが誰だっただろうか。顔は見えなかった。だが話せばわかる相手だったとしたら。協力者になり得たかもしれない追跡者たちが気になったが、それよりも優先すべき者を思い出して腕を伸ばした。
「……だったら絶対大爆笑なのにな」
頭上のヤマネが何事かを呟く。見上げると既に後輩は正気を取り戻していた。
「何だって?」
ヤチネズミは面倒臭げに尋ねる。
「セージだよ」
「あ?」
「あいつこういうの好きなんだよ。後で絶対怒られるってわかってんのにそれがたまんないっつってバカやるんだよな」
ヤチネズミの眉間の皺が消える。反対にヤマネは奥歯を噛みしめ鼻筋に皺を刻む。
「何が『仕事』だ。ふざけんな」
ヤマネの憤りが歯ぎしりと共に聞こえた気がした。