00-93 オオアシトガリネズミ【笑顔】
過去編(その45)です。
「あのぉ……」
オオアシトガリネズミはおずおずと呼びかける。しかしヤチネズミは歯を食いしばったまま同じ姿勢を保持している。
「あ、や、ヤチ…ネズミ、さん?」
「申し訳ありませんでした」
「だから、なにのぉ……」
「本当に申し訳ありませんでした!!」
自分の『毒』を無理矢理入れてしまった被害者に向かってヤチネズミは額を床に押し付け、瞼を力一杯引き締めて声の限りに怒ったように連呼した。
それ以外の言葉が見つからなかった。それ以外に何をすればいいのかわからなかった。
オオアシトガリネズミは困ったように目を瞬かせ、ほとんど会話さえしたことのない性格もよく知らない上官の見事なまでの土下座を気まずそうに見下ろす。
「……とりあえず、顔、上げときません?」
おずおずと上官に提案しかけてその顔を覗きこもうとした時、全身に痛みが走って思わず呻き声を上げた。土下座をしていた上官は文字通り飛んできて手を貸す。
「だいじょぶです。いや、いたいけど……」
向けられた苦笑が想像と違って元気そうで、ヤチネズミは少なからず安堵した。
改めて、オオアシトガリネズミよりも一段低い場所に腰を下ろして両手を床に付く。頭を下げるとオオアシトガリネズミが止めようとするから、顎を引いて視線を落とすに留める。
「なんか……、髪のせいっすかね……。雰囲気、変わりました?」
オオアシトガリネズミはへらへらと困ったような笑みを浮かべながらそんなことを言う。
だがヤチネズミからは何も言えない。ひたすら許しを請うより他にできることが無い。許されなくても謝罪は続けるつもりだった。しかし、
「ありがとうございました」
予想外にも程がある。呆気に取られて顔を上げたヤチネズミに向かってオオアシトガリネズミは困ったようにはにかむと、
「ちゃんと言えてなかったから面会来てもらえてよかったっす。その節は、お世話になりました」
頭を掻きながら照れたようにそう言った。
「どの節?」
思わず疑問が口を付く。
オオアシトガリネズミはきょとんとすると、
「え……」と言って固まった。
「その節ってどの節」
ヤチネズミは真顔で繰り返す。本気で全く感謝される覚えがない。
「だからあの時の。ネコにやられた後で薬入れてくれたじゃないっすか…」
「その節については本当に申し訳ありませんでした!」
聞き終える前にヤチネズミは再び土下座する。オオアシトガリネズミは頬を引きつらせて上体さえ引き気味に「えぇえ~……」と息を吐くと、
「俺の話、聞いてますぅ?」
まともに会話をするのは初めてにも関わらず、妙に砕けた口調で呆れ声を上げた。それでも頭を下げっぱなしの上官を諦めたのか、オオアシトガリネズミは壁の方に視線を向けた。無機質な空間を見つめながらぽつぽつと語り出す。
「ヤチネズミさん、息が止まるってわかります?」
ヤチネズミは床を見つめながら「まあ」と答える。訓練中はアズミトガリネズミによく投げ飛ばされて呼吸困難を起こしたものだ。
「あれ、苦しいんすよね。十秒、二十秒、って経つごとに心臓もばくばくしてきて、頭は動いてんのに肺は動かせなくて、あ、手足もっすね。で、そのうち、心臓のばくばくが収まって来るんすよ。あ、死ぬこれ、って思いました」
ヤチネズミは床に手をついたまま瞼だけを上げる。
「ヒミズさんの声とか感触とかはあるんすけど、自分の身体が無くなったみたいな。……変な言い方っすね、すんません」
オオアシトガリネズミはそこで困ったように照れ笑いすると指先で頬を掻き、その持ち上げた腕に痛みを覚えたのか顔を顰めて腕を下ろした。それから包帯と布団に包まれた自分の身体を見下ろす。
「あの時、多分俺、死んでました。一瞬っすけどね。ん? や……、数秒? 数分? 結構死んでましたね」
全然笑えない話をさもおかしい冗談かのように言ってオオアシトガリネズミは短く笑う。
「聞こえてたんすよ、反応出来なかったけど。ヒミズさんが俺とミズラを庇いながらずっと叫んでくれてたのも聞こえてました。何言ってたかわかんないけど」
―子どもが先だろ―
―絶対死なすなよー
側頭部を陥没させながら子ネズミたちを預けて逝ったヒミズの目を思い出す。
「……『ぜったい死なすな』」
ヤチネズミの呟きにオオアシトガリネズミが振り返る。その視線を受けて、「ヒミズが」とヤチネズミは答える。
オオアシトガリネズミはぽかんと口を開けてしばらくヤチネズミを見つめた後、突然噴き出し、身体を揺さぶり大口をあけ、そして項垂れると片手で顔を覆って笑った。それが笑い声にも泣き声にも聞こえて、ヤチネズミは黙って俯く。
「ばかっすよねえ、ヒミズさん。普通なら『あ、駄目じゃね? こいつら』って捨てていくとこをヒミズさん、俺らに覆いかぶさって守ってくれたんすわ。馬鹿ッすよね。死にそうな奴を助けるより生きてる自分、守った方がぜったい効率いいのに」
一通り引き笑いのような泣き声を垂れ流してから、オオアシトガリネズミは目元を覆ったまま再び、「ありがとうございました」と礼を言った。ヒミズに対してかとヤチネズミは思う。しかし、
「薬入れてくれてありがとうございました。あの薬入る前、俺、死んでました」
入室して以来うすら笑いを浮かべたようなしまりのなかった顔が眉根を寄せ、首筋を浮きあがらせて、
「すんません、みんな死んだのに。ミズラもセンカクもヒミズさん……! 俺だけ、なのに。でも俺、おれ、しにたくなかったッ……!」
片手は目元を覆い、もう片方は布団を握りしめている。アイが気遣いの言葉を寄こして来てヤチネズミは止めようとしたが、それよりもオオアシトガリネズミが壁板を剥がす方が早かった。中の導線を数本力づくで引き千切って、停電と共にアイを黙らせる。片手で行われた流れるようなアイの停止作業にヤチネズミは目を見開く。
オオアシトガリネズミの影は暗闇の中からのヤチネズミの視線に気付くと、「すんまぜん、うるさくて」と言って鼻で笑った。
「……すごいこと、すんだな」
やっとのことで感想を述べたヤチネズミに、オオアシトガリネズミは、へっと笑って鼻水を啜りあげる。
「ジャコウネズミって知ってますか?」
聞いたことのない名前だった。ヤチネズミは首を横に振る。見えていたのか雰囲気でか、ヤチネズミの反応を汲み取って「ですよね」とオオアシトガリネズミは鼻で軽く笑った。
「俺の唯一の先輩です。俺の部屋、上はジャコウさんしかいなくて。年も離れてたし無口だし、あんまり思い出もないんすけど、ジャコウさんがいつも以上に苛ついてた時、突然壁剥がしてこうやって導線引っこ抜いてたんです」
危なそうな性格のネズミもいたものだ、というのがヤチネズミの率直な感想だった。
「俺、びっくりして『何やってんすか?』って聞いたら、『アイを黙らせる方法』って」
手っ取り早いかもしれないけれども。ヤチネズミは顔さえ知らないネズミの行動に呆れる。
「ジャコウさん、その時だけはやけに饒舌に教えてくれました。機械が得意だったんでしょうね。アイを黙らせる方法、強制的に再起動させる方法、時計戻す方法まで知ってて、『あんた何やってんすか!』って思わず怒鳴っちゃいました」
オオアシトガリネズミがあまりに嬉しそうに話すものだから、ヤチネズミも場違いにも失笑してしまう。オオアシトガリネズミは暗闇の中でさらに嬉しそうな声を上げて、同室の先輩の話を続けた。
「ジャコウさんから教わったのってまじでそれだけです。主に機械、そんだけ。俺からもも少し話しかければ良かったのかもしれないんすけど、ちょっと怖い雰囲気でなかなか打ち解けられなくて」
それでもそれなりの絆はあったのだろう、言葉尻からヤチネズミはそう感じた。
「もっといろいろ聞いとくべきだったなって思いました」
「今からでも聞きに行けばいいじゃん」
謝罪に来ていたはずなのに、すっかり下手に出ることも忘れてヤチネズミがそう言うと、
「早々に検査に行きました。で、そのまま」
「『そのまま』?」
「そのままったらそのままっすよ。検査中の死亡事故なんてよくあることじゃないすか」
苦笑気味の指摘に、ヤチネズミは冷たい現実に付き戻される。
「悪い……」言いかけて、「すみません」と敬語で言い直す。
「なんでヤチさんが謝るんすかぁ。ジャコウさんと面識もないのに」
それはそうなのだが。自分の罪を鑑みると無関係ではない気がしてならない。
「もう十年近く前の話です。『ジャコウネズミ』って名前も、もうすでにどっかの子ネズミに使い回されてるんじゃないすかねえ」
天井の方を見遣ってしみじみと言うと、オオアシトガリネズミは再び苦笑して俯いた。
「一応後輩もいたんすよ? でも検査で死んだり掃除中に死んだりで、気がついたら俺以外の同室は全滅してました」
ヤチネズミは唇を閉じる。
「俺の部屋、呪われてんすかねえ? なんでか知らないけど死に易くって。俺もあんな部隊に配属されたからいつか死ぬんだろうなってどっかで思ってました。予感って言うか諦めてたっつうか。だからあの時、ネコに遭った時、『ああ、俺の番か』って思ったんです」
話が戻ってきてヤチネズミは顎を引く。
「でも、ヤチさんの薬入れてもらった瞬間に、息が戻ったんすよ」
ヤチネズミは眉間に皺を寄せる。
「ものすっごい臭くて不味くてそのままにしてたら腹から破裂しそうで、そしたら吐き気と一緒に息も吐き出せて」
「……臭いの?」
俺の薬。
「すごいっすよ」
力強い肯定。どうでもいい点に落ち込むヤチネズミ。
「しばらく吐き気が止まんなかったけどその分息は吸えたし吐けたし、吐きながら『吐いてる、あ,息してる』って思いました。でも、」
「臭かった?」
ヤチネズミの質問に黒い影が無言で頷いた。
―あんた…、……なにいれた?―
向けられた血走った目を思い出し、「すんません」とヤチネズミは小さく呟いた。オオアシトガリネズミは心底愉快そうに笑う。
「命あっての物種ってやつっすね。いやあ、あんなすっごいの、もう一生味わえないと思います」
笑い過ぎて傷に障ったのか「いたた…」と時折声をあげながらも、オオアシトガリネズミは鼻声のまま楽しげだ。だがヤチネズミは笑えない。何故ならオオアシトガリネズミは不味い物や臭い物だけでなく、美味い物も甘い物も好物も、今後一生味わうことは出来ないのだから。
「っつうか最後の晩餐? がヤチさんの薬ってことになるんすよね?」
ヤチネズミが自分の薬の効能を説明しようとした刹那、オオアシトガリネズミが事もなげにそう言った。ヤチネズミは困惑しながら顔を上げる。
「……知ってんのか?」
「何がっすか?」
「俺の………、『薬』の効能」
『毒』と言うべきなのだけれども。何としても口ごもってしまう。
「飲み食い出来ないんすよね?」
あっけらかんと黒い影は答える。ヤチネズミはその輪郭に目を凝らす。
「わかってんのか?」
「何がっすか?」
「だから、」ヤチネズミは動揺を抑えつつ、
「飲み食い出来ないってことは、今後一生、水も飲めなくて、好きな物も食えなくて。……口に入れることは出来てもその後ぜったいに吐いて、脱水症状起こして、薬も飲めないから風邪引いたら寝てる以外出来ることなくて…」
「別におれ、食道楽じゃないし」
ヤチネズミの懸念をオオアシトガリネズミは一言で片付けた。
「でもお前……」
「だって食事って面倒臭いじゃないっすかぁ。腹減る感覚とか気持ち悪くなるし、食ってる時間とか無駄でしょう。そんなことしてる暇あるならその分俺は女探しに時間割きたいです」
ヤチネズミは唖然として、平然と自分の価値観の真裏をついた意見を言い放った年下のネズミを見つめる。そしてその黒い輪郭が先から手元を動かしていたことに気付く。
「……何やってんの?」
「導線千切ってます」
さらに呆気に取られたヤチネズミは数秒の沈黙の後で、
「なんで?」
「さっきから復旧しようとしててうざいんですよぉ。こうやって千切り続けてやれば導線修復も間に合わないでしょう? アイちゃん復旧したら、やれ何があっただやれ罰則だって面倒だし、こういう場合はしばらく黙らせてあげるのがいいんすよ」
どうりで停電が長いと思った。それよりもそんなことを飄々と言い捨ててやってのけるオオアシトガリネズミという男に、ヤチネズミは感心しつつ驚愕もしていた。
「そんなことを謝ってたんすか?」
オオアシトガリネズミは両手でぶちぶちと導線を引き千切りながら、ヤチネズミに尋ねた。「そんなこと?」とヤチネズミはきょとんとする。それから首を横に振りつつ身を乗り出す。
「そんなことじゃねえよ! あれは、俺の……は、生産体も受容体も関係なく入れられた奴は全員死ぬやつなんだよ」
「おれ、生きてますよ」
オオアシトガリネズミが平然と言う。それはそうなのだけれども、
「そうじゃなくて! お前は特別なんだよ!! 普通死ぬんだよ、死んでたんだよ、お前もほんとは死んでたかもしれなくて……、違うな。お前は死んでなかったし死ななかったのに俺の薬が入ってもたまたま生き延びただけで…」
「それはないっすね。俺、死んでましたもん」
「だから!!」
ヤチネズミは頭を抱える。こいつはなんでこんなに勘違いしている?
「……食えないんだぞ?」
頭を抱えたまま強調する。
「今はそんな余裕かましてるけどそのうち絶対、後悔する。絶対にあの時死んでおけばよかったと思うくらい苦しくなる時が…」
「飲み食い出来ないっつってもヤチさん、カヤさんたちとしょっちゅう酒飲んでましたよね?」
「一口だけだよ。その後すぐ吐いてた」
「一口だって味わえるんならばんばんじゃないっすか。好きな物、味わえて普段の食事はいらなくて食べてないのに死なないんでしょ? 最高っすよ!」
「『さいこう』?」
ヤチネズミは価値観が違い過ぎる子ネズミの言葉に目が回る。何言ってんだ、こいつ。頭、大丈夫か?
「ああ、でもあれっすね」
オオアシトガリネズミは思い出したように導線をちぎる手を止める。
「他の薬の効能がなくなっちゃうってのは玉に瑕っつうか」言って拳をにぎりしめたが、
「うん。やっぱり力入んない」
納得したように頷いた。
「コジネズミさんのだっけ」
確かそう聞いている。
「あ、はい。唯一合ってたのがコジネズミさんの筋肉でかくなる薬だけだったんすよぉ。でも今は無理っすねえ。子ネズミ並みに何も出来ないっす。これは少しだけ困りましたね」
黒い影は大口を開けて明るい笑い声を上げてから、
「でもまだおれ、生きてます。ヤチネズミさんの薬のおかげです。わかるんすよ、そういうの。自分の身体だし。だから、ありがとうございました」
もう一度感謝を述べた。
ヤチネズミは唖然としている。そういう考え方もあったのかと、暗い部屋の中で目の前が明るく開けていくのを感じる。無い物ばかり見るな、ハタネズミも言っていた。あの言葉はこういう時のことを指していたのかもしれない、そう感じた。そんなことを言っていたハタネズミ自身が色々間違えていて、それを信じたヤチネズミは取り返しのつかない間違いを犯してしまって、その罪の一端をハタネズミが担っているとも言えなくもないのだけれども。
けれどもヤチネズミを思って言ってくれた言葉の数々は、あの気遣いと優しさまでは否定する必要もないのでないだろうか。ハタネズミは間違っていたけれども、優しさに甘えて楽な道を選んで結果取り返しのつかない罪を犯してしまった自分の過去は消えないけれども、けれどもハタネズミの優しさまでもが嘘ではなかったはずだ。
―ヤッちゃんの責任だよ、ヤッちゃんがシチロウを殺したんだよ―
都合のいい解釈だ。罪は消えない。過去は戻せない。シチロウネズミを死に至らしめたのはヤチネズミ自身だ。しかし、
―無い物ばかり見るな。ある物も探せ―
目の前にはこうしてまだオオアシトガリネズミが笑っている。まだ生きている。まだ。だから、まだ、
―ヤチにはまだたくさんある―
「ヤチさん?」
暗闇の中で蹲り、啜り泣く声に気付いてオオアシトガリネズミは動揺した。やっべ、俺なんかやっちゃった? などと戸惑いつつも、自力で寝床から這い上がることは出来ない。慌ててアイを復旧させようと導線を繋ぎ始めた時、
「……がとう…」
啜り泣きが鼻声で感謝を述べた。「へ?」とオオアシトガリネズミは固まる。何のことかと尋ねようとした時、
「お前が生きててくれてよかった」
咽び泣きながら嗚咽する聞き取りづらい声は、しかし確かに自分の生存を褒め称えた。