00-92 アカネズミ【変様】
過去編(その44)です。
鉄扉の前でヤチネズミは立ち竦む。声をかけたい気持ちは山々だが、何と呼びかければいいかわからず戸惑っていると、
「ヤッちゃん?」
記憶の中のそれより幾分か低音の、しかし聞き慣れた懐かしい声が聞こえた。
「アカ……」
扉に手の平を置く。
「ひさしぶりヤッちゃん。いつぶりかな。地上行ってたんでしょ? ハツ達と同じ部隊になったんだって? ムクゲさんに聞いたよ。って、ムクゲさん亡くなったって? 俺、あんまりちゃんと聞いてなくて…」
「アカぁ……」
ひんやりとした感触の中に額を乗せる。頭の中の熱さが身に沁みて瞼を閉じる。
「何? どうしたのヤッちゃん、」
また泣いてんの?
アイにはしばらく口を挟まないように頼みこんだ。鉄扉に背中を押しつけて床に蹲り、組んだ両腕の中に顔を埋めながらそれまでのいきさつを話した。時々鼻水を啜りあげ、嗚咽まじりに言葉を詰まらせながら。
きっと向き合って聞いていても理解しづらい話だったと思う。それでもアカネズミは何も言わずに黙って話を聞いてくれた。あまりに静かでどこかに行ってしまったのかと不安になり、時々呼びかけて所在を確認する。「ちゃんといるよ」という声を聞いて安心して、ヤチネズミは同室の同輩に全て打ち明けた。
「全部俺のせいなんだ。俺がけしかけなければ、俺がシチロウを止めれてれば、俺が、おれがシチロウに、……入れなければ……」
やはり最後までは言えなかった。アイに散々責任を追及されたのに、頭にこびりついて離れない一文が内側から自分を責め続けているのに、なのにそれでもこの場に及んで尚、自己保身を捨てきれない。
「大変だったね」
ヤチネズミが言葉に詰まり、目元をこすっていた時にかけられた第一声がそれだった。大変などという一言では納まりきらないのだけれども、
「うん……」
優しい声にまた鼻の奥がつんとして、ヤチネズミは鼻水を啜りあげた。
「ムクゲさんって、それで亡くなったんだ」
アカネズミの呟きにヤチネズミは顔を上げて鉄扉に振り返る。反応するの、そこ?
「……アカ、ムクゲと面識あったんだ?」
聞きたいことを直接聞けなくて、遠回しにどうでもいい点について尋ねる。
「生産体とは全員会ってるよ」
アカネズミは苦笑しながら答えた。ああ、そうか、とヤチネズミも納得する。アカネズミは特別だったっけ、と。自分などとは違い、アイからネズミから、塔の全てから期待を一身に背負っている特例中の特例だったっけ、と。
「あいつの薬も入ってんの?」
ぼんやりとがっかりしながらヤチネズミは尋ねる。
「薬は大体全部入ってるよ」
事もなげにアカネズミは答える。答えてから、
「あ、でもヤッちゃんのはまだもらってなかったね」
言って笑った。笑い事じゃないとヤチネズミは俯く。
「『まだ』じゃなくて『今後一生』の間違いじゃん。俺のなんて入れたらアカだってどうなるかわかんないって」
シチロウネズミの二の舞になんてしたくない。
「まあね。ヤッちゃんの話聞いて、なんでヤッちゃんの薬だけはもらわなかったのかわかったよ」
相変わらずの調子でアカネズミはさらりと言った。何も間違ったことは言われていないのに、自分の薬が『毒』だと再認定されたようで、アカネズミにそんな風に言われるとは思っていなくて、ヤチネズミは勝手に傷つく。
「……怒んないの?」
ヤチネズミは尋ねる。
「怒ってほしいの?」
当たり前のように聞かれる。言われて初めて、そうかもしれないと自分の願望に気付く。しかし、口ごもって返したのは否定だった。
もしかしたら叱ってほしかったのかもしれない。アズミトガリネズミのように、面と向かって自分の過ちを指摘してほしかったのかもしれない。でもそれ以上に欲していたのは、情けないことに慰めだった。
「仕方なかったんじゃないの?」
まるで時期を見計らったかのようにアカネズミに言われてヤチネズミは鉄扉に振り返る。
「仕方なかった……、かな」
「そうなんじゃないの」
存外にそっけなくアカネズミは言う。
待ち望んでいた言葉のはずなのに何故か腑に落ちず、ヤチネズミは右の手首で目元を覆って首を振る。
「仕方なくなくね? だってシチロウは『薬はやだ』って言ったんだよ? トガちゃんの薬でさえ使いたがらなかったのに、もう薬なんて御免だって拒否られたのに俺はシチロウの気持ちを無視して薬合わせしたんだって。仕方なくないじゃん。どう見たって俺が悪いじゃん。俺が、俺がシチロウを…」
「ならヤッちゃんのせいなんじゃないの?」
ヤチネズミが言い切る前に言葉尻にかぶせて、早口にアカネズミは言い放った。自分で否定しておいてそれを肯定されると言葉に詰まる。
「……やっぱり俺のせいじゃん」
わかりきっていることなのに、自分以外の者から言われると痛く響く。拗ねて前を向き、組んだ両腕に顎を乗せようとした時、
「じゃあ何て言えばいいんだよ!!」
背後から鉄扉越しに怒鳴られてヤチネズミはびくりと肩を震わせた。
「アカ…?」
「ヤッちゃんさあ、前から思ってたけど本ッ当にわがままだよね。自分の思うように行かなかったらすぐに拗ねて泣きだして、自分が乗ってる時は周りのことなんか全然見ないではしゃいで。でもそれ指摘したらまた泣くじゃん。俺らがどんだけ気ぃ使ってたか気付いてないの?
ハツがどじこいてたのはヤッちゃんを笑わすためだよ、シチロウが道化演じてたのはヤッちゃんを泣かせないためだよ、俺がなんにも言わなかったのは俺が怒ったらヤッちゃん死んじゃうからだよ!」
驚きすぎて度肝を抜かれて面食らったヤチネズミは、瞬きも忘れて固まる。
「トガちゃんがいた時はトガちゃんが丸く収めてくれてたけどもうトガちゃんはいないんだって。いい加減わかれよ。俺らいつまでも子ネズミでいられないんだって」
「アカ……」
「シチロウが再生間に合わなくなるまで怪我しまくったのはシチロウの意思でしょ? 子ネズミ助けるためにシチロウが自分で選んだことでしょ? その結果がどうだったかなんて関係ないよシチロウの意思だよ子ネズミ守るためなら自分を犠牲にするなんて当然じゃん!」
当然、なのか?
「ヤッちゃんが薬入れたのだってシチロウ助けようとしたんだろ? でもヤッちゃんは自分の薬の効能忘れてたんだから仕方ないじゃんって言ってんじゃん。うっかり忘れることなんて誰でもあることだって。そのうっかりが駄目だって言うならヤッちゃんのせいだよ、ヤッちゃんの責任だよ、ヤッちゃんがシチロウを殺したんだよ!」
俺がシチロウを。
「……ヤッちゃんたちが地上で大変だったってのはわかるよ。でも地上出れただけでもいいって思えないの? トガちゃんは地上出る前に死んだんだよ、俺だって一度も出たことないよ!!」
ヤチネズミは顔を上げる。
「でも仕方ないって言ってるじゃん。俺らネズミなんだから。塔のために働かなきゃいけないじゃん。子ネズミと夜汽車守るために出来ることやらなきゃいけないじゃん違うの!?」
鉄扉に振り返る。
「アカ…、」
「アイ!」
「はい」
それまで静観していたアイが、アカネズミに呼ばれて返事をした。
「次の奴ら呼んで。早いとこ片付ける」
「体力は回復しましたか? アカネズミ」
「むしゃくしゃしてるからやれるよ! いいから早く次の培地どもよこして!!」
「アカ、おれ…、」
「それとそこの泣き虫もどっかやって」
泣き虫と言われてヤチネズミは鼻水を啜りあげることさえ躊躇う。
「会話を終了してください、ヤチネズミ」
アイに指示され、圧縮空気に腕を掴まれた。
「アカ、ごめ…」
「会話を終了します」
「あ……!」
床が勝手に移動して、身体が同室の同輩から遠のいた。
アイに運ばれるままに別の階の個室前までやってきた。オオアシトガリネズミの病室だという。今まで気付きもしなかったアカネズミの本音に面食らって、聞かされた内容が衝撃的過ぎて言い返せなくて、落ち込むことも叶わぬほど打ちのめされたヤチネズミは色のない顔のまま扉の前に佇む。
どんな思いであの部屋で、自分の話を聞いていたのだろう。どんな顔でシチロウネズミの死を、ハツカネズミの発狂の経緯を聞いていたのだろう。どうして考え及ばなかったのだろう。同室を失ったのはアカネズミだって同じなのに。
―俺だって一度も出たことないよ!!―
我ながら最悪だと思う。最低だ。ぐうの音も出なかった。
地上活動が長すぎて、当たり前になりすぎていてすっかり忘れていた。初めて塔を出た時のこと、初めて本物の空を直に見た時のこと、その感動、あの感覚。あの広さを高さを解放感をあれほど享受しておきながら、その有難い幸運への感謝さえいつのまにか捨てていた。
―俺がなんにも言わなかったのは俺が怒ったらヤッちゃん死んじゃうからだよ!―
そんな風に思われていたなんて知らなかった。全くもって今の今まで気付きもしなかった。それでも、
―仕方なかったんじゃないの?―
あんな風に言われるなんて。アカネズミがあんな冷めた話し方をするなんて。
―ヤッちゃんがいるからこいつらも安心だよ―
―替えとくよ。着替えてきなって―
何を言われても平然と正論で論破してくる奴だった。何をされても笑いながら器用に流す奴だった。何もしなくても何でも出来て、誰に対しても優しくて平等で、性格だけでなくて頭もよくて。同輩でありながら尊敬に値する、自慢の同室だった。
そのアカネズミを本気で怒らせた。
室内からアイと何事かを話しているオオアシトガリネズミのくぐもった声が聞こえる。何を話しているのかまではわからない。聞きとれていたとしても今のヤチネズミに理解することは極めて難しかっただろう。アイに声を掛けられて鉄扉が開かれて、寝床で上半身を起こしたオオアシトガリネズミの姿が視界に入ってきて、ヤチネズミはようやく顔を上げた。
「……ども」
居心地悪そうに肩を竦めて挨拶をしたオオアシトガリネズミの部屋に一歩ずつ歩み入り、完全に扉を抜けたその場で膝を付く。戸惑うオオアシトガリネズミの声を聞かずに床に手を付き頭を下げた。