00-85 カヤネズミ【隠蔽】
過去編(その37)です。
ハツカネズミはシチロウネズミに係る一切の記憶を『失くした』。ムクゲネズミの薬のせいだ。ムクゲネズミの薬の副作用か反作用か劣化による効能の変質か何が何だかよくわからないが、とにかくハツカネズミはシチロウネズミのことを覚えていない。崩れそうな壁を一枚隔てた空間で、カヤネズミは生き残った仲間たちにそう伝えた。通訳はドブネズミだ。カヤネズミの聞き取り難い声を言い直しながら、ドブネズミが徐々に動揺していく様子を、カヤネズミは申し訳ない気持ちで視界の片隅に捉えていた。
実際はおそらく違う。ムクゲネズミの薬が原因ではあるが、カヤネズミの読みが正しければ、ハツカネズミはシチロウネズミの記憶を『失くした』のではなく、意図的に『捨てた』。シチロウネズミの死が重すぎたから。持ち続けるには耐えがたかったためだろうか、ハツカネズミはその辛さを『無駄』と判断したのだ。なぜならムクゲネズミの薬は無駄をなくすことだから。目的のためにそれ以外を切り捨てられる効能だから。
だがカヤネズミはそれを秘匿した。ハツカネズミはシチロウネズミを『無駄』と判断した、シチロウネズミはハツカネズミにとって『無駄』だから忘れられた、捨てられた……。
言えるわけないだろう、そんなこと。特にヤチネズミには。ただでさえシチロウネズミの自殺の責任に押し潰されているのにこれ以上は無理だ。これ以上の事実はヤチネズミを崩壊させる。
子ネズミたちにも言えない。ハツカネズミに心酔しているヤマネなど論外だし、これ以上の不安と懸念の種を植えることに意味はない。
セスジネズミならばもしかしたら、とも考えた。同じムクゲネズミの薬が入っているセスジネズミならば冷静に事実を見つめて無駄のない正解に近い行動をとれるのではないかと。だがセスジネズミもまた、カヤネズミの期待を見事に裏切った。
思いの外、感情的だった。想定外にも程がある、予想以上に取り乱している。
カヤネズミが気付かなかっただけでセスジネズミはもう、なんと言うか言うなればシチロウっ子だった。どんだけ懐いてたんだよ、尊敬の域を超えてるって! うまく喋れないカヤネズミはただただ呆れてその顔を見る。セスジネズミは泣かないだけで、表情に出さないだけで物凄く落ちていた。落ち込むではなく、落ちた。愕然どころではない。何も聞いていない、見ていない、目を開けたまま寝ているのかと訝るほど脱け殻と化していた。ヤチネズミが言っていたようにセスジネズミは全くもって感情が無くなってなどいなかった。ただそういう効能だと聞かされてセスジネズミ自身もそう思いこんで信じ切っているだけだ。それがこの無表情を作ったのかもしれない。冷静さを培ったのかもしれない。でも実際は滅茶苦茶感情的だ。一言で表せば『むっつり』。まじで使えないってセージ、とカヤネズミは副部隊長に呆れ果てた。
考えて考えて前頭葉を酷使したカヤネズミは、全員に事実を隠し通すことをにした。
事実を隠すためには隠れ蓑が必要だ。それっぽい、信じやすい、怒りが別の方に向きやすい嘘が。
ムクゲネズミに被ってもらうことにした。それくらいやってもらおう。一応部隊長だったんだし、奴がしてきたことに比べれば安いものだ。全部お前のせいだ、全部お前が悪い、それでいい。
「……ムクゲの薬のせいってことか」
ヤチネズミが沈黙を破る。カヤネズミは頷く。そうだ、ムクゲだ、そういうことにしよう。その薬を入れさせた俺の責任が最も重いのだがこの際全部あいつのせいだ。
廃屋の床を睨みつける真っ赤な目は奥歯を鳴らすと、その怒りの視線をカヤネズミに向けてきた。
「本ッ当にハツはシチロウを忘れたんだな?」
カヤネズミは小刻みに何度も頷く。そうだ、『忘れた』んだ。忘れてしまったんだ。
ヤチネズミは額に手の平を当て、憤りを吐きだした。これでも重たい。だが事実に比べればまだましなはずだ、とカヤネズミは俯く。
「お前らみんな、」
目元を隠したままヤチネズミが言った。『お前ら』という呼びかけに、子ネズミたちが顔を向ける。
「全員、ハツには世話になったよな? みんな今日まで……、昨日のネコに遭う前までは、掃除もほとんどしないでハツにずっと守られてたよな?」
昨日の『作戦』と言わなかったのは、カヤネズミを慮ってかもしれない。カヤネズミは後ろめたさに頭を垂れる。
「返す番だろ」
ヤマネが眉根を顰める。
「そろそろ子ネズミ、卒業してもいんじゃね?」
タネジネズミとジネズミが視線を交わす。
ヤチネズミは手の平を下ろして目元を露わにした。泣き腫らした真っ赤な目は怒っているようにも見える。
「頼む」
言うとヤチネズミは前転していきそうなほど顎を胸に押し付けて頭を下げた。子ネズミたちに動揺が走る。カヤネズミは居たたまれなさに目を瞑る。
「全部ハツに合わせてくれ。シチロウはいなかった。シチロウネズミなんてこの部隊には初めからいなかった。地階でも会ったことなんてないし、そもそもそんな奴は存在すらしなかった」
言いながら鼻水を啜りあげ、
「……いなかった奴の話は、こんり……ざい、二度とあいつの前では……」
声を震わせ涙声になり、最後の方はほとんど何を言っているかわからなかった。
ヤマネが泣きだした。お前は泣きすぎだ、とカヤネズミは息を吐く。泣きたいのは皆同じなのにお前が泣くから皆泣けないんだよ、と。
思っているうちにカワネズミも啜り泣き始めた。「シチロウ君……」と呟きながら。セスジネズミは相変わらず呆然としたままで、ドブネズミは悔しげに短く息を吐く。壁際のオオアシトガリネズミまで項垂れて震えている。
「悪い」
ヤチネズミは子ネズミたちを順々に見回し、
「ごめん」とさらに言った。
「謝らないでください、ヤチさん」
ワタセジネズミが答える。咽びながら同じ内容を繰り返す。
どうしてうちの奴らはこうも皆、涙もろいかな、とカヤネズミは内心息を吐いた。ここまで盛大に泣き声、鼻声で大合唱されると泣くに泣けない。俺も結構、しんどいんだけんどな。
カヤネズミがどうこの場を納めようかと思案し始めた時、その耳が異変に気付いた。顔を上げたカヤネズミにヤチネズミも気配を読み取る。続いて鼻水を啜りあげていた子ネズミたちも。
「誰と、喋ってんすか……ねえ」
鼻水を手の甲で拭ってドブネズミが言った。カヤネズミははっとする。
「救援部隊だろ」
ヤチネズミが手の甲と腕で顔をぐちゃぐちゃに拭いながら立ちあがった。「思ったより早かったな」
「この状況はどう申し開きしましょうか」
涙を流せなかったセスジネズミが普段と変わらない様子で言って、それまでぼんやりとしていた面々が事態の深刻さに気付いた。
「ハツさん縛ったままだ……」
「仲間割れとか思われたら面倒じゃね」
「そこじゃないだろ」
そう。もっと重大なのは、
「ハツの奴、なんて説明してんだ?」
口裏合わせ! ヤチネズミの真っ青な顔に、子ネズミたちが喉の奥で悲鳴を上げた。