00-84 ハツカネズミ【取捨選択】
過去編(その36)です。
ムクゲネズミの薬は壊れていた。死んだ直後であったとしても薬の劣化は始まっていたのだろう。ムクゲネズミの薬の効能は『感情がない』だったが、劣化した薬の効能は少しだけ変わっていた。
感情は残った、その点においては喜ぶべきかもしれない。だが残りはしたが無事ではなかった。感情はなくならずに『壊れた』、記憶と共に。
ムクゲネズミの死後にその身体から注がれた薬は、ハツカネズミの感情と記憶の一部を破壊した。大部分は残っているし機能している。会話もできるし介護も必要としない。それは見た目からも確実だ。しかし会話の端々で、日常のふとした場面で、微かな違和感を覚えることは否めないだろう。怒って然るべきところで突然笑いだすかもしれない。泣いていいところで泣けないかもしれない。不謹慎な言動はこれまで以上に増えるだろうし、それが相手を傷つけているとハツカネズミが自覚することも難しいと考えられる。ハツカネズミ自身がそれを辛いと感じるか否かはわからない。ただ周囲が不快に思ったり不審を抱いたりすることは確実と予想される。
そして現段階でわかっていることは、ハツカネズミが失くした記憶の一部が仲間の存在だということだ。ハツカネズミはシチロウネズミの存在そのものを失くしている。
いなかったものとされている。出会ってもいないし一緒に過ごしてきた時間の中からもシチロウネズミの存在だけがすっぽりと抜け落ちている。シチロウネズミとハツカネズミだけの思い出もあったかもしれないが、それがどのようにハツカネズミの中で処理されているのかは不明だ。だがハツカネズミの頭の中における同室の同輩は、ヤチネズミとアカネズミだけということになっている。
……みたいな事を話し合っているのだろう、とハツカネズミは仲間たちのぼそぼそとした声に聞き耳を立てながら考えていた。ヤマネの靴下は吐き出させてもらえたが手足はまだきつく結ばれ、身体は廃屋の支柱に固定されたままだ。その気になればそれらの拘束を文字通り破ることは可能だったが、皆が苦労して縛りあげたものだ。行動に移すことも忍びなくてハツカネズミは静かに待つことにした。自分を置いて壁の向こう側に移動してしまった、仲間たちの手によって解放されるのを。
ヤチネズミの泣き叫ぶ声を聞いた。水の底に沈んでいるような、光が遠くて音がくぐもっていて、身体が妙に動かしにくいところにいたハツカネズミは、ヤチネズミのあの声で覚醒した。『眠る』というのがどういう感覚なのかを忘れていたから、眠っていたかどうかは正直わからない。と言うかそもそも、痛いとか熱いとか寒いとか暑いとか、触覚全般は既に一切なくなっているし、味覚もあまり残っていない。嗅覚は辛うじてあるにはあるが、今現在ハツカネズミが主に頼る感覚は視覚と聴覚に偏っている。それゆえ入眠時特有の、全身が心地よく重たくなる感覚も覚えていなかった。もともと記憶力は良くないのだ。嫌なことは三歩で忘れる脳味噌だ。でも嫌なことなのに仲間の大量死は忘れられるものではなかった。嫌なことなのに、忘れてしまえば楽なのに、そんな時ばかりハツカネズミの脳はハツカネズミの希望を無視して活性化した。ヒミズが死んだ瞬間、アズマモグラが固まったあの時、センカクモグラが落ちたところ、シチロウネズミの自殺。
どの一瞬も固まった画面のように克明に脳裏に焼き付いて離れず、悲しくて寂しくて悔しくて仕方ない。ムクゲネズミの薬を入れられたはずなのにおかしな話だ。だが何故か感情はこうして残っている。そして記憶も全て。守れなかった、守るって決めたのに、言ったのに、がんばったけどできなかったという恨みがましい後悔とともに。
あんなに苦しんだ後でようやく地上に出て来られたというのに、シチロウネズミはずっとおどおどと沈んだ顔をしていた。怪我すればまたあの時みたいに痛みに苦しむと思うと絶対に怪我はさせられなかったから、シチロウネズミの検査が終わったと聞いた時にはまっさきに自分と同じ部隊に配属されるようにアイに頼みこんだ。希望は通ったがムクゲネズミ隊だったことはシチロウネズミには負担だったかもしれない。でもこの身体があれば守りきれると思っていた。絶対に掃除の前線には立たせないように、絶対にムクゲネズミの『かわいがり』の的にされないように、常に気を張り目を光らせていたつもりだった。
でもシチロウネズミは笑わなかった。子ネズミたちの身代りになって『かわいがり』を受けることもあった。何とか止めようとしたのにムクゲネズミはしつこくて、そしてシチロウネズミはいつも下を向いていた。
そのシチロウネズミが笑った。ヤチネズミが合流してから時々楽しげに、俯き加減にでも朗らかに、昔の感じが戻りつつあった。そして『作戦』と言ってヤチネズミが子ネズミたちを引きつれて皆で掃除をしようと提案してきた時、その隣にいたシチロウネズミは満面の笑顔だった。俯いていなかった。おどけて冗談を言ってヤチネズミをおちょくって、あの頃と同じシチロウネズミだった。あの頃の、地階にいた頃の本来のシチロウネズミが戻ってきた。そう思った途端に……。
何が間違っていたのだろう。やっぱり俺には出来ないのかな。俺の頭じゃこの身体は使いこなせないのかな。アイに従って塔に残って検査を続けるべきだったのかな。
そんなことを考えていた時にヤチネズミの号泣だ。ああ、ヤチも泣かせちゃった、と思った。どうしよう、アカに呆れられる。シチロウもいないのに、どうやって泣きやませよう。どうしよう、どうしよう、怒らせよう。
怒らせよう! 怒っていてもらおう。ヤチは怒っていればいい。シチロウを許せないって泣いているくらいならいっそのこと、俺を憎めばいい。俺を許せないって怒っていればいい。シチロウはもういないけれども俺はまだいるからいくらでも怨みを買える、憎まれる対象になれる。そうだよ、そうすればヤチはきっと泣きやむじゃん。
でも何で怒らせよう。ヤチの怒ること……、いっぱいありすぎてわかんない。でも出来れば継続的に、永久的に怒っていられる方がいいんじゃないかな。そっか。なら、
シチロウを捨てたことによう。
シチロウを捨てるなんてヤチが許せるはずがない。シチロウを捨てた俺をヤチは心底怒るだろう。怒って怒って、泣くかもしれないけれども怒り狂って、下を向いている暇なんてなくなる。怒りをぶつける相手を睨みつけるためには顔を上げなければいけないから。
あり得ないほど効果的と思われる名案にほくそ笑んだ。清々しいほどに目の前が開けた。そう言えば考え事がよくまとまるな、と気付いたが、その原因をハツカネズミが知ることは無い。考え事はよくまとまるし取捨選択に迷いがなくなったとは言え、所詮はハツカネズミだ。土台の知能がそれほど高くない。考えつくことも妙案と呼べるようなものではなく、むしろ見当違いも甚だしい。しかしハツカネズミにとってはそれしかないとさえ思える代物なのだ、彼の知能をもってすれば。
やるべきことが分かれば実行するまでだ。今度こそ間違えない。やり遂げる。守り切る。もう絶対に誰も死なせない。ハツカネズミは自信をもって迷惑な計画を選択した。そして口中、心中、ひれ伏さんばかりに謝罪する。
ごめんシチロウ。ごめんけどお前のことはいなかったことにさせてもらうよ。
恨んでくれていいから、許してくれなくていいから使わせてね。
そろそろ話し合い終わらないかな、手持無沙汰に仲間たちのいる壁の向こうを見遣る。しかしハツカネズミの耳が捉えたのは、彼方からの接近者たちの音だった。