15-44 『おにいちゃん』は
「かぞく!!」
上半身を両手で持ち上げてジュウゴは叫んだ。男の振り下ろした刃物の切っ先がシュセキの右脚の上で止まる。シュセキが怪訝そうにジュウゴを見た。ジュウゴは静止したままの男の背中に向かって続ける。
「『かぞく』だ! 『おにいちゃん』は『かぞく』だって言ってた、コウが!!」
男が首だけを回して振り返りジュウゴを見下ろす。居竦まりそうな膝を無理矢理伸ばしてジュウゴは片目で男の視線に対峙した。
「『おにいちゃん』『おにいちゃん』ってずっと言ってたからそれは何って聞いたら『おにいちゃんはおにいちゃんだよ』って、『ワンはワンだ』って繰り返してたみたいに。それじゃわからないからちゃんと説明してくれって言ったら『おにいちゃん』は『かぞく』だって『おかあさん』が言ってたと言ってた」
男の肩から力が抜けたのが見てとれた。今なら逃げられる。
「『おかあさん』て何って聞いたらコウとワンの『おかあさん』は『おかあさん』で『おにいちゃん』みたいなものだよって」
「君は何を話している」
「君の質問に話すてら!」
混乱して興奮したジュウゴは頭だけでなく舌さえ回っていない。当然シュセキは理解しない。
「せめて言語を発しろ。君のは言葉未満の音の塊だ。それとも僕の話さえ理解できない…」
「知らないよ! わららないけどコウにはワンの他にも『おとうさん』と『おかあさん』と『おにいちゃん』がいたんだよ!!」
男は完全にジュウゴに向き直っている。刃物の先は砂の中に沈み半端に開いた唇と瞬きもしない両目にジュウゴは恐怖を拭えないが、シュセキの脚が切られることは無いと思う。
ワンが口を閉じたまま歩み寄ってきた。ジュウゴはワンを見つめる。頷き唾を飲み込むと再び男を見上げた。
「コウは砂の下の『おとうさん』に植物を持っていかなきゃって言ってた。毎日夜が来たら植物を持っていって挨拶するんだって、『おにいちゃん』との約束だからって。吹雪で動けない間、いつが昼か夜かもわからなかったけどれど何日も経ってることはわかったから、行かなきゃ行かなきゃってずっと言ってた。言ってたんだ、『おにいちゃん』は忙しいからコウがしないとって、『おとうさん』が待ってるって。
『おかあさん』のことも教えてくれた。サンみたいな女子で怒るとすごく怖くて『おとうさん』はいつも怒られててでも優しくて、ずっと『おでかけ』しているけれどももうすぐ絶対帰って来るから帰らないとって」
男が彼方を見遣った。研究所の方角を。
「『おとうさん』は『おにいちゃん』に進入しないと言われて落ち込んだんだ。どこに行くのと尋ねたけれどもそうじゃないと言われた」
―『しん友』だってば。お兄ちゃんってなんにも知らないよね―
吹雪に見舞われてまだ間もない頃、互いに体力もあって苛立つ気力も残っていて、コウが繰り出すジュウゴには理解不可能な言葉の意味を尋ね続けて答えてもらえていた頃、コウは『おにいちゃん』と『おかあさん』と『おとうさん』とワンについて教えてくれた。
* * * * * * * *
「しんゆう! お友だち! 大すきなあいてのことそう言うでしょ?」
「之繞? 部首ってこと? 相手が部首なら君は旁ってことか?」
「お兄ちゃんこそ何、言ってるの?」
「之繞の話をしだしたのは君だろう? 誰かが之繞だとしたらもう一方はそれと組み合わせる旁になるわけで…」
「ヤチのお兄ちゃんがため息ついてたのってお兄ちゃんのせいだね」
「なんでヤチネズミの話になるの? ヤチネズミを損傷させていたあの大きな男は何って僕は聞いているんだよ」
「だからお兄ちゃんだってば!! コウのお兄ちゃん、コウとワンのお兄ちゃん!」
「君の『おにいちゃん』は広すぎるよ」
「お兄ちゃんの言ってることがぐちゃぐちゃなんでしょ」
ジュウゴは頭を傾げて後頭部を掻きながら、
「……その、ヤチネズミじゃない方、進入してきた之繞じゃない方の男は、『おにいちゃん』? は何なの?」
コウは白い息を吐いてそっぽを向いた。傍らのワンに何事かを伝えられたのか「うん、うん、」と不貞腐れたように頷いてから、面倒臭そうにジュウゴに向き直った。
「家族」
「『かぞく』? って何?」
ジュウゴが尋ねるとコウはがっくりと項垂れて長い息を吐いた。そして顔も上げないまま、
「家族は家族でしょ」
「その何は何って言い方、やめてくれない? 答えになってないよ。『ワンはワンだよ』とか『おにいちゃんはおにいちゃんでしょ』とか。もっと具体例をあげて図解でもって説明してくれないと」
コウは小さな両手で頭を抱えて唸っていたが、何かを思いだしたと言わんばかりに顔を上げた。ジュウゴはようやく疑問が解決するかと期待した。
「お父さんがね、すっごく落ちこんでたの。お兄ちゃんに、しん友じゃないって言われたって」
「『おとうさん』って何?」
「お父さんはおと…!」
言いかけたコウは唇を噛み、視線を泳がせた後で考えながら続けた。
「地下が来る前はお父さんとお母さんとコウとワンで住んでたの」
あの研究所にはかつて、コウとワンの他にも誰かがいたということなのだろう、とジュウゴもそこは理解した。
「お父さんは男、お兄ちゃんたちよりも大きくて老けてた」
「『ふけてた』って…」
尋ねようとしたがワンに睨まれ、これ以上何か言えばまたどこかに歯をつきたてられると思ったジュウゴは口を噤んだ。
「お母さんは女。お兄ちゃんたちの、ヤチのお兄ちゃんがつれもどしに行ってくれてるお兄ちゃんと同じ…」
「サンのこと?」
コウが頷く。
「お母さんはお父さんよりも若かった。『としのさふうふう』ってお兄ちゃんが言ってた。怒るとこわくてお父さんはいっつも怒られてた」
サンもハチも怒ると怖い。女子は大体そうなのだろうとジュウゴは思った。
「お父さんが、お母さんに怒られたわけでもないのに落ちこんでたからコウ、『どうしたの?』って聞いたの。そしたら『お兄ちゃんにしん友じゃないって言われた』って。『しん友じゃないなら何なんだ』って」
―親友だろうって言ったら親友ではないですね、だってさ。俺ってあの子の何なのかな―
―親友ではないでしょ。年、離れ過ぎよ。クマタカ君に失礼じゃない―
―失礼とか言うなよぉ。だったらお前は何だと思う?―
―そうねえ―
―ほらあ! お前だってそうやって…―
―家族じゃない?―
―家族?―
―だってクマタカ君はコウちゃんとワンちゃんのお兄ちゃんでしょ? だったら家族じゃない―
* * * * * * * *
「『おにいちゃん』はワンとコウの『おにいちゃん』だから『かぞく』だって、『おにいちゃん』は『おにいちゃん』だから『おにいちゃん』であることが『かぞく』であることで『おにいちゃん』の…」
「理解が及ばない分野の説明をしようとするな。聞いている側の混乱を招く」
シュセキの指摘にジュウゴは息を切らせながらそちらを見遣る。
「はやく…」
喋り過ぎて舌が回らない。口中が乾燥して喉に痛みさえ覚えている。シュセキは眼鏡をかけ忘れた時みたいに目を細めてジュウゴに侮蔑の視線を寄こす。ジュウゴが痺れを切らして立ち上がりかけた時、男が足を踏み出した。男の動きとは真逆にジュウゴは固まる。
「どこに行く」
シュセキが怪訝そうに男に呼びかけたが、男は無言でその場を後にした。男の後ろをワンが駆け足でついていく。
「何だ、あれは」
シュセキは首を傾げて男の背中を見送った後で、ジュウゴに振り返った。
「君も何だ、今のは。何を話そうとした。まるで理解が及ばない。どういう思考回路と処理能力であんな支離滅裂な文章を喚き立てて…」
シュセキが全てを言い終える前にジュウゴの拳がその頬にめり込んだ。踏み込んで殴りつけた分、威力は凄まじく、腰を下ろしたままだったシュセキは砂の上を滑るように倒れ込む。
「何をす…」
「ふざけるな! 何が僕を撃つだ!! 撃つなよ壊れてるのか!? 壊れるだろう? 二度とやるな、壊れた眼鏡ッ!!」
しきりに自分で壊した眼鏡を揶揄するジュウゴにシュセキは苛立ちを隠さなかった。いきり立って仕返しを試みたが、
「それ以上壊れるなよ……」
ジュウゴが突然俯いて膝から崩れたものだから、立場が逆転して今度はキュセキが見下ろす形となる。
そのまま黙り込んだジュウゴの丸まった背中に、シュセキは怒りよりも疑問の色を強くして黙りこんだ。
* * * * * * * *
墓の前に至る。先日の暴風雪で盛り砂など飛散して辺りはどこも平らに均されていたが、クマタカにはどこにイヌマキたちが眠っているのかすぐにわかる。膝をつき、手の平で砂を掬って砂を盛り始めた。
―『おにいちゃん』は『かぞく』!」―
男と呼ぶには若干幼い少年の言葉が頭の中で繰り返される。
―さっきのなぞなぞ、ちゃんと答え教えてねー!!―
砂を掬う。かける。
―私たちに出来ることならなんでもするから―
掬って、
「親友ではないでしょう」
そんな関係ではなかった。そんな一言で収まるようなものでは。
「コウが死にました」
砂を握りしめる。親指と小指の端からさらさらと震える粒が流れ落ちる。
「すみませ…」
ワンが無言で近づいてきた。微かに濡れた鼻先でクマタカの頬を突く。クマタカは片手を持ち上げてその頭の上に置いた。力なく横に倒れたワンの耳が、クマタカの手の動きに連動して揺れる。
「ごめんな、何もしてやれなくて」
また守れなかった。
「ごめんな、また、お前の大切な…」
―『おにいちゃん』は『かぞく』―
「ごめん、ワン」
―ごめんなさい、クマタカ君は…―
―『おにいちゃん』は―
―お兄ちゃん!―
ワンに呼ばれた。潤んだ目でじっと覗かれる。
「お前が帰ってきてくれてよかった」
心の底から礼を述べてクマタカはワンを抱き寄せた。