00-80 カヤネズミ【感情】
過去編(その32)です。
ネズミがアイを欺く。
そんなことが可能だろうかと、自分の仮説をカヤネズミ自身も疑った。しかし経験を冷静に振り返れば十二分にあり得ると結論づけた。
アイは万能だ。だが完璧ではない。何事にも平均と例外があるように、統計学でさえ傾向は見出せても必ずそれを外れる点があるように、アイだって間違いを犯す。百発百中で的を射たとしても、千発の場合はどうか。それが、万発、億発だったら? 分母が膨れ上がれば中心を外れる分子は必ず現れる。
生産体と受容体の有無を見る検査でさえ確実ではなく、自分のような生産体もどきを作り出してしまうほどの体たらくだ。生産体の効能を判断する時もまた、間違いや見過ごし、失敗することだってあるのではないだろうか。そこに誰かの故意が加われば尚更だ。おそらくムクゲネズミは意図して自分の薬の効能をアイに誤認させた。
何故ムクゲネズミはそんなことをした? おそらくは塔を出るためだ。塔から離れてアイの目の届かないところで子ネズミたちを手にして遊びたかったのだ。だから部隊長の椅子が必要だった。そしてアイはムクゲネズミの薬が不要だった。ん?
カヤネズミは考える。自分の導きだした仮説の齟齬を探し、垂れ落ちてきた汗を辛うじて動かせる瞼に沿わせて目尻に流す。暑い。外気が上がってきた。皮膚を失った指先に風が触れて激痛が走る。あまりに痛くて怒りを覚える。余計なことを排して考えたいのに、痛みが、感情が、邪魔をする。
邪魔だろう? 感情なんて。どちらかと言えば無駄なのではないだろうか。だがその無駄とさえ思える要素をムクゲネズミは捨てなかった。無駄じゃないのか? 必要なのか? 誰にとって? アイはどうして……。
アイは何故、ムクゲネズミを地上に『捨てた』? 使える生産体だと捉えられればアカネズミのようのように塔に捕らえる。ムクゲネズミの薬の効能を『感情が無い』だと認識したアイはムクゲネズミを他の生産体や受容体同様、地上に放った。『感情がない』という効能はそれほど重用されなかったということだ。むしろないがしろにされた、何故か。
何故、感情の有無は、直接身体の強度を高めるとアイには認識されなかったのだろうか。高めるだろう? 十二分に。怒り狂っている時は些細な怪我の痛みに気づかないこともままあるし、悲観的な時は実際以上の痛みを感じたりするものだ。常に平静でいられるならば、感情に左右されない理性が手に入るのならば、作戦の遂行率は格段に上がるだろうし、それは痛みですら意思で調整できることに繋がるだろう。ハタネズミの薬の次くらいに重宝されたのではないだろうか。
だがムクゲネズミは自身の薬を『感情がない』とアイに思い込ませた。ムクゲネズミはその方が『アイに不要だと認識させられる』と考えた。ムクゲネズミの狙いが部隊長の椅子だったならば、奴は塔に囲われることを拒んだだろう。ムクゲネズミは自ら『不要』と思われたかった。
そして実際にそうなった。現にムクゲネズミの薬を正式に入れられているネズミを、セスジネズミ以外にカヤネズミは知らない。セスジネズミが件の薬を入れられたのはおそらく確認のためだ。希望も一応聞かれはするが、ネズミは皆、結局は体質にあった薬を試される。セスジネズミは不幸なことにムクゲネズミの薬を受け入れるのに適した受容体だった。ムクゲネズミの薬を受容体のセスジネズミに入れてみて、ムクゲネズミの言うようにセスジネズミは感情を失ったように見えたから、ムクゲネズミの薬は使えないと判断されて、塔はムクゲネズミを地上に捨てた。ムクゲネズミの狙い通りに。
何故か。何故ムクゲネズミはその方法で地上に出られると考えた? 何故『感情がない』薬は不要な効能と認識された? アイは俺たちに感情を失わせたくない? ネズミが皆、無感情になり、それこそアイの一部となって命令以外のことをしなくなることをアイは欲していなかったということか。つまりアイはネズミに自由裁量を許しているのだ。いや、許しているのではなくて、そうあることを必要としている。完全な機械ならば足りているのだ、アイ自身がいくらでも製造できるから。でも完全な機械以外の者は不足している?
ちょっと待て、カヤネズミは重たい頭を振るう。感情云々ではない。薬だ。薬そのものだ。そもそも薬は身体強化が目的ではなくてアイの求める塔にひ……
「カヤさん起きてますか?」