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00-76 シチロウネズミ【気付き】

過去編(その28)です。

 ヤチネズミは身を乗り出した。ハツカネズミもヤマネも、他の子ネズミたちも固唾を飲んで見守っている。


 ヤチネズミの薬を入れられたシチロウネズミは、オオアシトガリネズミと違って吐き出すことはなかった。喉が上下し確実に薬を飲みこむと、呼吸が安定し始め、心なしか顔色もよくなったようにヤチネズミには見えた。半面が削げて残りの部分も血まみれなのに顔色も何もあったものではない。だが興奮した脳はしばし、視覚情報を都合よく書き換える。


 だがまだ安心はできない、ともヤチネズミは思っていた。ミズラモグラの例がある。静かになったと思った瞬間、それが死である可能性も捨てきれない。


 誰も何も言わずに真剣ないくつもの目が光る中で、その場にそぐわない音が鳴り響いた。随分と間の抜けた、拍子抜けする腹の音。緊張感がないにもほどがある。


「誰だよ、腹鳴らしたの」


 言いながらヤチネズミは笑ってしまった。ハツカネズミや子ネズミたちもぽかんとして互いに顔を見合わせ、音の発生源を探している。こんな時に空腹感を訴えるとは何事か。よほどの豪傑か限りなく緊張感が欠落した馬鹿だ。

 その馬鹿はさらにもう一度、腹を鳴らした。今度はヤチネズミだけでなく、子ネズミの中からもいくつかの失笑が漏れる。


 しかしその和んだ空気は一瞬にして凍てついた。ハツカネズミが指差したのだ。皆がその指差す先を目で追い、目を見張り、息を止めた。


 音の発生源はシチロウネズミの腹だった。皮膚を失い、臓物(なか)があらわになった腹部は波打つかのごとく蠢いている。肋骨に癒着した心臓は狂ったように脈打ち、いつ心房が突き破られてもおかしくない状況だ。骨折で奇妙な方向を向いたままの両手は震え、いや、両手だけではない。全身痙攣を起こしながらシチロウネズミの剥き出しの歯から息が漏れる。


「シチロウ?」


 ハツカネズミが駆け寄る。ハツカネズミの上着を破かんばかりに握りしめて、上体を起こされたシチロウネズミは灼熱の廃屋の中、寒空の下にいるみたいにがたがた震えて口を動かした。


「なに? どこ痛いの!」


 ハツカネズミが大声で尋ねる。ヤチネズミも膝をついたままシチロウネズミに近寄り、その声を聞き取ろうとする。


「なんだって?」


「水?」


 シチロウネズミは頷く。「水だ!」「水持ってこい!」走る罵声。ジネズミが水筒を差し出すとシチロウネズミは震える両腕の腹でそれを抱えて口に運んだ。折れているのだ、手の骨が。ヤチネズミは気付いて水筒の底を支える。ハツカネズミも手を添える。だがシチロウネズミは上手く飲めない。いや、飲んでいる。歯ぐきや破れた口角下制筋の隙間からこぼしつつだがシチロウネズミはちゃんと飲んでいる。でもヤチネズミの膝には水滴がぼとぼとと落ちてくる。ヤチネズミは水筒を支えながらその原因を探し、見つけ出して絶句する。穴が空いた食道から勢いよく噴き出していた。


「駄目だシチロウ! 先に再生! 治せまずそこ!」


 怒鳴りながら水筒を奪い取る。シチロウネズミは奪われた水筒を追いかけて両腕を伸ばし、届かないまま体勢を崩して床に伏す。


「何すんだよ!」怒鳴るハツカネズミに、


「飲ませても無駄だ! 腹から出てんだよ!」怒鳴り返すヤチネズミ。


「シチロウ君?」


 伏したシチロウネズミの顔を、床に手をついて覗きこんだヤマネは次の瞬間、ネコに遭遇した時のような悲鳴をあげた。


「ヤマネ!」


「シチロウ!?」


 ハツカネズミがヤマネを引っぱり寄せ、ヤチネズミはシチロウネズミを背後から羽交い絞めした。ハツカネズミの腕の中でヤマネは口をあんぐりとしたまま肩を掴んでいる。


「シチロウ、落ち着けシチロウ!」


 暴れるシチロウネズミに顔を顰めながら、ヤチネズミは何度も同室の名前を呼ぶ。


「シチロウ!!」


 揺さぶりながら耳元で叫んだ時、ヤチネズミは気付かぬうちに腕に力を入れていた。薬合わせの時に短刀で切った傷口から血飛沫が飛んだことにも気付かずに。だがシチロウネズミは違った。貴重なたんぱく源の軌跡を血走った二つの目玉が追いかける。


 突然後頭部だった部分に顔が現れてヤチネズミは慌てた。もともと運動神経はよくない。反射も遅かった。ハツカネズミがヤマネを押し退けて手を伸ばしたが間に合わず、シチロウネズミの剥き出しの歯はヤチネズミの腕の切り口に噛みついた。


「だ! 痛ッ! し…、シチロウ!?」


 左腕を咬まれながら右手でシチロウネズミの額を押す。両足を踏ん張って引き離さんとする。ハツカネズミの腕力で引きはがされたシチロウネズミは錯乱状態だ。硬直する子ネズミたちの中に背中から倒れ込んだヤチネズミは、咽頭を全開にしたまま口呼吸しつつ、噛まれた腕の腹を目線まで上げた。切り傷とそれを囲うような歯型、押さえないと溢れてくる血液、慌てて患部を右手で覆い、足と腰の動きだけで立ち上がった。


「薬、……だよな?」


 混乱するハツカネズミを見もせずに錯乱するシチロウネズミに尋ねる。


「薬が足りなかったんだよな? 薬がほしかったんだろ? そうだよな、シチロウ」


 割れた絶叫、血に飢えた地下の連中みたいに。


「シチロウッ!!!」


 ヤマネがびくりとして目を瞬かせた。鬼ごっこでも見たことのない、頼りない、いつも見下していた先輩の横顔ををまじまじと見つめる。


 シチロウネズミもようやく我に返ったようだ。ハツカネズミに抑えこまれながら、無様な仰向けの状態で自分が傷つけた同輩を見上げる。その腕の傷と、手の甲で拭った口元の汚れを見比べるとハツカネズミの腕を振り払い、その場に突っ伏した。


「シチロウ?」


「しまって! 見せないでそれ!」


「どれ?」


 ハツカネズミが混乱してきょろきょろと周囲を見回し、ヤチネズミは自分の左腕を見下ろす。


「シチロウ君?」


 ワタセジネズミが歩み寄る。だがシチロウネズミの絶叫に立ち竦む。


「どうしたのシチロウ? ねえ。治ったの?」


 ハツカネズミは蹲るシチロウネズミの肩を揺さぶるが返事はない。


「反作用」


 ヤチネズミは口中呟き、「え?」とヤマネが訊き返した。


 入れられた薬が合うか合わないかは受容体の体質による。全く効果が現れない者もいる。拒絶反応が出る時もある。そして中には反作用がもたらされることも。


 オオアシトガリネズミには拒絶反応が現れた。ミズラモグラはわからない。だが全く効果が現れなかったのかもしれない。何もしなかったとしてもあそこで息絶えていたのかもしれない。そしてシチロウネズミには反作用が出た。


 ヤチネズミの薬の効能は飲食を一切必要としないことだ。食欲も味覚も、それ以外はまだ全て残っているヤチネズミにとってそれは苦痛でしかなかった。効能が発露しないことこそが最善だと思っていた。それ以外の可能性を考えたことがなかった。


 一切必要としないことの反対は常時必要とすることだろう。常に食べ続け、飲み続けなければ生きていられないということだろう。だが飲食のみをし続けることなど出来るだろうか。塔に帰って胃瘻を造設して経管で栄養を継続注入し続ければ……、


 ……駄目だろう。シチロウネズミは経口摂取を望んでいる。口から飲み食いしないとあの渇きは止まりそうにない。そもそも止まるのだろうか。

 とりあえず皆の持っている飲み水と非常食をかき集めて駅まで……、

 駅までもつか? 辿り着けるか? 子ネズミたちだって腹は減る。水も飲む。こいつらのそれらを全部、シチロウネズミに与えていいものだろうか。


「シチロウまず治そう。再生して。元気になったんでしょ? ね? ね?」


 ハツカネズミは気付いていない。相変わらずシチロウネズミの肩を揺すっては再生を促している。再生には意志が要る。だが今のシチロウネズミにそんなことを思考する余裕はない。


「なおりま…せんよ」


 酷くかすれた声が耳についた。ヤチネズミは声の主を探す。壁際からだった。カワネズミに支えられて、睨みつけるような虚ろな目を水ぶくれの下から覗かせたオオアシトガリネズミが、


「その薬……、つぉ…つよ、…ぎます。俺も、……っきからちか……、…るぁ、入んない」


「あいつの薬って?」


「コジネズミさん」


 ヤチネズミの疑問に隣にいたヤマネが答えた。


 コジネズミ。その見た目と体格にそぐわない腕力は彼の薬によるものだ。筋肉の増強と持久力の高さ。アズミトガリネズミさえ腕相撲も敵わなかった。

 ヤチネズミは口元を手で覆う。ヤマネが不安そうに覗きこむ。


「ヤッさんなに? どゆこと、何?」


「シチロウ君もしかして……」


 タネジネズミは気付いたようだ。ヤチネズミは震えながら俯く。


 またやった。やらかした。失敗だ。


 シチロウネズミはおそらくもう、トガリネズミの薬を使えない。ヤチネズミの薬は他の薬の効能を打ち消すのだろう。そんな可能性、考えつきすらしなかっただってハツは普通に受け入れたじゃん! そこまで思って違うと気付く。ハツカネズミが特異なのだ、と。ハツカネズミとアカネズミだけが特別だったのだ、と。


「シチロウ再生しろって! 心臓! シチロウ!!」


 ハツカネズミは気付かない。なぜならハツカネズミだから。難しいことを考えると途中で知恵熱を出して寝込むような奴だから。


「ヤッさん、どうすんだよ」


 ヤマネに揺さぶられる。


「ヤッさん! ヤッさんの薬だろ、ヤッさんて!」


 無責任にも程がある。(けしか)けるだけけしかけて、上手くいかなかったら全責任を負わせようとする。全くもって子どもという武器を巧みに使った性質たちの悪い自己防衛だ。


 だがヤマネの言い分にも一理ある。ヤチネズミの責任は重大だ。様々な可能性があり得たはずなのに、希望的な結末ばかりを思い描いて思慮に欠けた行動をとったことには違いない。


 どちらが悪い。誰が悪い。誰も悪くない? 皆、悪い。


「シチロウ……」


 ヤチネズミはヤマネの手を振り払って同輩たちに駆け寄った。困った顔をあげたハツカネズミに対して、シチロウネズミは変わらず伏したまま震えている。


「ヤチ、」


 助けてと言わんばかりのハツカネズミを捨て置いて、ヤチネズミはシチロウネズミの両肩を掴んだ。


「ごめんシチロウ、俺のせいだごめん」


「ヤチ?」


「辛いよな、そんなもんじゃないよな」


 ハツカネズミが頭を掻き毟る。シチロウネズミは声を殺して鼻息荒く震えている。


「塔、戻ろう。アイなら何とかしてくれるって。それまで俺の血でも薬でも何でも飲め、食え。全部俺の責任だから」


 シチロウネズミが微かに頭を上げた。


「何言ってんの? ヤチ」


 ハツカネズミがシチロウネズミを庇うように間に割り込んでくる。


「何言ってんの? 飲むわけないじゃん、地下じゃあるまいし!」


 薬を入れるのも血液を飲むのも同じ行為にも関わらず、自分も多くの生産体のそれを口にしてきた過去さえ憚らず、ハツカネズミは激昂する。ヤチネズミはハツカネズミを押し退けようとするが力負けし、首を伸ばしてシチロウネズミに語りかける。


「いいんだ、シチロウ。我慢するな、大丈夫だ。お前、いっつも俺のお守りしてくれたろ?」


 身体を張って守ってくれた。


「次は俺の番だ。飲んでいいんだって。頼むから飲め!」


「ヤチ!!」


「俺は平気だから! 俺もそばにいるから!」


「いい加減にしろよぉ!!」


 ハツカネズミに投げ飛ばされる。体格も腕力も何もかも優れた受容体を前に、出来そこないの生産体は敵わない。


「さっきから何言ってんの? 飲まないってば、当然じゃん! 地下のごみと一緒にすんなよ!!」


 ハツカネズミは黒ずみそうなほど顔を赤らめ憤慨する。


「さっきのは偶々だよ、間違えたんだって。薬合わせの時にはよくあることじゃん。初めての薬なら混乱したって仕方ないって」


「よくある……?」


「あるだろ!!」


 子ネズミたちの密談を聞き逃さずにハツカネズミは怒鳴りつける。ジネズミがびくりとしてタネジネズミがハツカネズミから後ずさり、カワネズミとヤマネは信じられないといった面持ちで先輩の形相を見つめた。


「ハツ、黙れ」


 手をつき上体を起こしながらヤチネズミは言う。眉毛を吊り上げたハツカネズミが睨み下ろす。


「餓鬼どもにあたんな。お前がそんな顔したらこいつらが可哀そうだろ」


「ヤチこそ黙れよ! シチロウに酷いこと言っといて何だよお!!」


「落ち着けハツ、頭冷やせ」


「それはヤチの方だろう!!」


 罵り合う同室たちの後ろでシチロウネズミが顔を上げた。カワネズミだけがそれに気付く。シチロウネズミは震えながら同室たちをしばし見つめた後で、這うように手を伸ばし、床に投げ捨てられた誰かの小銃を掴んだ。折れた指を震わせて腕の腹で銃身を手繰り寄せ、引き金に手をかける。


「シチロウ君?」


 カワネズミは立ち上がる。だがオオハシトガリネズミの介助で壁際にいた。距離がある、あり過ぎる。


 ハツカネズミが振り返る。瞬時に事態を把握し、シチロウネズミの持つ銃口を手で掴む。


「シチロウッ!!」


 遅れてヤチネズミも立ち上がった。ハツカネズミが邪魔だ。どけハツ! しち…


「ごめん、ヤチ」


 銃弾は一寸の狂いもなく、押し当てられたハツカネズミの手の平を貫通して、銃口からまっすぐにシチロウネズミの額を貫いた。二本の折れ曲がった腕が床に落ち、時間差でシチロウネズミの上半身も顔から床に倒れ落ちた。

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