00-73 ヤチネズミ【無力】
過去編(その25)です。
―受けとった受容体がその薬を受け入れられるかは運次第だ。けれども運が良ければ薬が細胞分裂を促進させることもある……―
その言葉に賭けてみた。ハタネズミが言っていたことだから間違いないと思った。
違う、ハタさんのせいにするな。俺の責任だ。俺のせいだ。俺が自分で考えて自分で選んで実行した。でも、
―瀕死の奴に薬を入れれば一か八かで助かる―
助かると思った。助けたかった。ヒミズが、シチロウネズミが、身体を張って守り抜いた子ネズミたちだ。自分自身もかつてどこかで世話したかもしれない、抱き上げたことがあったかもしれない子どもたちだ。だから、
―一か八かで助かる―
助かると思って、助かってほしくて、
―運が良ければ……―
運が悪ければ?
ヤチネズミは口元を手で覆った。足元の子ネズミたちを瞬きもせずに凝視する。
どうする。次はどうすればいい? どうすればこいつらを助けられる?
考えたところで思いつかない。この隊では年長の方ではあるがヤチネズミ自身、まだ若輩者だ。現にハタネズミ隊では一番の下っ端だった。いつまでたっても新入り扱いだったし、現にヤチネズミよりも後に入隊した者はいなかったから、実際のところ新入りだった。そして経験も浅かった、地階にいた時間が長かったから。生産体は受容体よりも後に呼び出されるから。
いや、そんなことは関係ない。経験が浅いだけで許される失敗などない。失敗は失敗でそれによって実害を被った者がいるならば、それはもはや罪だ。
とかそんなことどうでもいい! 自分のやらかした失態を断罪している暇などない。今はとにかく失敗の補てんだ。やらかしたならやらかす前に戻せ。戻せないならせめて実害を鎮静しろ。とにかく何とかするんだ、助けるんだ子どもたちを!!
瀕死の子ネズミたちに入れられたヤチネズミの薬は当初、ハタネズミの言葉通りの働きをしたかに思われた。小柄な子ネズミは薬を飲み込んだ後に呼吸が穏やかになり、背の高い方もその水ぶくれに覆われた皮膚の下敷きになっていた瞼を微かに持ち上げて見せた。効いたか? 細胞、分裂しているか?
期待を膨らませて覗きこんだヤチネズミに浴びせられたのは、自らが背の高い子ネズミに飲ませた自分の血だった。背の高い子ネズミは、持ち上がりきらない瞼を目一杯持ち上げて、仰向けのまま口中の薬を吐きだした。詰まらせては危険だとヤチネズミは慌てて子ネズミを横向きにさせようとしたが、その厚意は片手で払いのけられ、子ネズミはのた打ち回るようにしてうつ伏せになり、さらに嘔吐し続けた。
「……おい、」
こぷっと排水が逆流したような音が背後で聞こえてヤチネズミは振り返った。みると小柄な方の子ネズミの首が斜め横に倒れていた。
「おい」
小柄な身体を擦る。倒れた首がヤチネズミの手の動きに合わせて揺れた。
うつ伏せで嘔吐していた方が声を発した。ヤチネズミは今度はそちらに振り返る。
「お、おい…」
「あんた…、……なにいれた?」
水ぶくれに覆われた瞼の下から血走った目がヤチネズミを捉えた。
「はけ」
失敗だ。
「吐け! 全部出せ!!」
合わなかった、失敗だ、賭けに負けた、凶と出た。
ヤチネズミはうつ伏せたまま起き上がろうとしている子ネズミに駆け寄り、飲み水を口に含ませた。漱がせようと思った。しかし嘔吐直後の子ネズミは最初の一口で口を漱ぐと水筒をヤチネズミの手から奪い取り、残りの全てを飲みほした。そしてまた吐いた。ヤチネズミの薬だけでなく、水だけでなく、おそらくは消化中だったと思われる胃の内容物も何もかも全て吐き出し、最後の方は吐血だった。吐いて吐いて吐きつくして、子ネズミはそのまま廃屋の床に伏した。
ヤチネズミは子ネズミに呼びかける、語りかける、身体を擦る。吐き疲れたのか背の高い子ネズミは浅い呼吸の中で意識が薄くなっていた。
小柄な方に振り返る。考えたくもないがあの動きはおそらく、
「おいお前! 起きろ、駄目だ起きろって!」
小柄な方の子ネズミはぐちゃぐちゃの顔の中で口からヤチネズミの薬を一筋吐き出し、そして息絶えていた。ヤチネズミは子ネズミの身体を横に向け、何もかもを吐かせようと混乱する。それから身体をもとに戻し、胸の中央に両手を置いて、蘇生を慌てる。
「おい! 起きろ。出せ全部死ぬな。起きろっておい!」
全身を使って小柄な心臓を叩き続けるが、生身の身体は弱い。一度止まった臓器を再び目覚めさせるのは至難の業だ。
「起きろよお前、おいッ!」
「ヤチさん」
名前を呼ばれてはっとする。どれくらいの間同じ動きを繰り返していたのだろうか。手の下で子ネズミはやはりまだ眠ったままだ。
「ブッチ……」
隣室の後輩はヤチネズミの下の子ネズミを見下ろし、「ミズラ、死んだんですか?」と呟いた。ヤチネズミは何も答えられなくて、子ネズミの身体から両手を下ろす。こいつ、そんな名前だったんだ、などとどこかで呑気に思いながら。
「オオアシは」
言いかけたドブネズミが小さな目を見開いて背の高い子ネズミに駆け寄った。そうだ、オオアシトガリネズミだ、とヤチネズミは思い出す。印象に残っていたはずなのに今の今まで忘れていた。
「生きてますね。げろ臭いけど」
吐瀉物にまみれた仲間を抱きかかえてドブネズミは息を吐いた。ヤチネズミは顎を引く。死ななかったのはオオアシトガリネズミの生命力によるものなのか、自分の薬の効果なのか。前者ならば自分の行為は何だったのか。小柄な方の子ネズミ、ミズラと言ったか、を死なせただけだったのではないのか。
「向こう頼めますか」
ドブネズミに言われてヤチネズミは戸惑う。「向こうって?」と怯えた子ネズミのような声で訊き返す。
「この屋根真っ直ぐ行った反対側の日陰にみんないます」
同じ廃屋にたどり着いていたのか。
「負傷者多数です、行ってやってください。スナが一番やばそうで。自分、こいつら見てますから」
ドブネズミは辛うじて息をしているオオアシトガリネズミと、既に息を止めているミズラを交互に見遣りながら言った。
ヤチネズミは顔を背ける。助けようとして助けられなかった負い目が足を竦ませる。
「ヤチさん、医術出来ましたよね?」
言われて顔を上げドブネズミを見た。確かにネコに対応していたはずなのに全く無傷の後輩は、小さな目に力を込めて繰り返した。
「ヤチさん!」
「ここ頼む」
言い置いてドブネズミの指示に従った。
子ネズミたちが騒いでいた。どいつもこいつも酷い怪我だ。一番重症そうな奴が一番大きな声で叫んでいる。ハタネズミの薬を持っているのだろう。
「スナってどいつだ!」
ヤチネズミは怒鳴りながら子ネズミたちの中を見回した。「こっち!」と応えた声の方に大股で駆け寄る。スナと呼ばれる子ネズミは当然横たわらされているかと思われたが、壁にもたれかかって座っていた。座らされて止まっていた。
「さっきまで喋ってたのに突然寝たんだよ。こいつ、クマネズミさんとハタネズミさんの薬入ってるから滅多に寝ないのにいきなり寝ちゃって…」
「カワ……」
「ヤッさん助けてくれるんでしょ? 早くしてよ!」
「カワ、」
「とっとと治せよ!」
同室の後輩が襟首を掴み上げてきた。ヤチネズミはそのまま壁に叩きつけられる。カワネズミは血飛沫にまみれた顔の中で真っ赤な目を白黒させて、先輩に向かって怒号と唾を飛ばす。
「カワ」
ヤチネズミは興奮する後輩の手首を握ってその目を見た。そして子どもに言い聞かせるように静かに、
「死んでる」
目の前にある事実を伝えた。
「嘘つくなこの野郎!! 早く治せよ、ヤッさんそういうの得意だったじゃん! 薬でも医術でも何でもいいからなんかやってって!!」
「カワ!」
ハツカネズミが駆けつけてきてカワネズミを引き離した。ヤチネズミは同輩と目が合う。ハツカネズミは泣き出しそうな目で何かを言いたけだ。ヤチネズミはその視線に耐えられなくて顔を背ける。
何もかもが失敗だった。言いだしっぺの責任だ。だが責任の取りようがない時はどうすればいいのか。
ハツカネズミによって腕を降ろさせられたカワネズミは、腕と一緒に腰も下ろし、床を拳で叩き始めた。こいつは死なない、肉体的な負傷のみに焦点を当てる。精神的な傷を見て見ぬふりをする。ヤチネズミは蹲る同室の後輩と、生前の面影が残らない遺体を後にした。
痛がっている奴はありがたい。どこがどのように痛いか口頭で教えてくれる。言葉で表現できるくらいの元気があれば大丈夫だろうとも判断がつく。応急処置は慣れている。ハタネズミ隊の時には何度も別隊の応援に借り出されたから。体温と出血量には気を配らねばならないが夜を待って塔に送れば後はアイが助けてくれる。
だが痛がっていない奴はわからない。ハタネズミの薬の効きがいい連中はどこが負傷したのか何が危ないのか当事者たちがわかっていない。「だいじょうぶ」と軽く言う。それよりも痛がっている奴らを何とかしてやってくれと自分を後回しにする。その言葉を信じて背を向けた瞬間に死んだりする。
「どうなってる!」
ひと際大きな怒号に全員が振り返った。見るとぼろぼろのヒミズが同じくぼろぼろのシチロウネズミの肩を担いで立っていた。
「「シチロウッ!」」
ヤチネズミはジネズミの処置を放り投げて同室たちに駆け寄った。ハツカネズミも駆けつける。ヒミズからシチロウネズミを譲り受けて左右から抱きかかえる。
「しちろ……」
顔面の左側はあの時よりも酷く、それ以外もそこかしこから骨やら肉やらを晒していた。四肢は全て複雑骨折と見られる方向に折れ曲がっていて、胴部からも夥しい出血が…、違う。胴部ではなく胸部だ。胸の中心、心臓が。
「シチロウ再生は? 回数限界?」
ハツカネズミが早口で尋ねた。再生回数に限界があるのか? ヤチネズミはハツカネズミの顔を見つめる。それからシチロウネズミに視線を戻し、恐る恐る破れた衣服を開いて覗きこむ。抉れた肉の下から赤い骨と白い筋がすっかり見えていて、その後ろに拍動し続ける心臓が目視出来た。でも何かがおかしい。何と言うか、癒着?
「……また、ずれた……」
辛うじてそう言ったシチロウネズミの口元は、筋と歯茎が見えていた。