00-71 シチロウネズミ【ネズミ】
過去編(その23)です。
四輪駆動車にまとわりついていた女たちが投げ出され、地面に打ち付けられて呻いている。とりあえず敵の戦力は削げたようだ。しかしこちらも動けない。目が霞む。音が遠のく。息が詰まって下敷きになった右手が痺れている。
くぐもった音、声、ヒミズ。お前は大丈夫か? くっそ、痛ぇ。
「……ていい! 使え!!」
なんて? ちょっと待てよ。待ってくれ。痛いんだって。
ヤチネズミは目の前にあった手を見つめる。誰の手だ? 力を入れてみる。俺のじゃない。
「く…そ野郎……ッ」
誰に向けたかもわからない悪態を付きながら上半身を起こした。痛い。重い。目を開ける。仲間たちが戦っている。膝を付く。動け。立て俺も! 俺だってまだ…
「ばっちりだったね、ヤチ。計算通りってやつ?」
見上げると誰かの背中だった。逆光で影しか見えないが声がシチロウネズミのそれだ。
「『ばっち…』?」
「あの衝突で結構ネコども蹴散らせたじゃん。ヤマネも無事。ハツが子ネズミたち運んでる。そろそろ朝だしあっちも引いてくれんじゃね?」
どうりで明るい。昇り始めた朝日はヤチネズミの視界を広げ同室の全貌を露わにした。と、死角から何かがこちらに飛んできた。ヤチネズミは反応できない。注意を促そうにも発声さえ間に合わない。
壊れた自動二輪か何かの部品はシチロウネズミに直撃した。いや違う。シチロウネズミが身体を差し出した。投げつけられた部品を左膝で受け止めて、ヤチネズミに当たることを防いだ。見るとそこかしこに同じような鉄屑が散乱している。ネコたちは肉弾戦を諦めて、手段を投てきに切り替えたようだ。ヤチネズミがそう理解している間にも、シチロウネズミは身体中でネコの敵意を受け止め続ける。
「シチろ……」
「でもヒミズが囲まれちゃっててさ。ミズラとオオちゃん助けに行ったんだろうけどちょっと劣勢。ネコ怖いって。あいつらほんとは女じゃないんじゃね?」
鉄やら石やらを全身で受けつつ、怒気を孕ませた早口は時折、鼻で笑いながら震えていた。
「ヤチは大丈夫? 結構痛がってたよね。でもヤチならもう少し頑張れんじゃね? ってかがんばって」
言われて身体を見下ろすと、発生源が不明な血液でべっとりと上着は濡れていた。それよりも、
「シチロウお前…!」
シチロウネズミはようやくふり返る。左半身で衝撃を受け止めたのだろう。顔面の皮膚は爛れ、目と歯の白だけが浮いている。辛うじて立っているが左の膝下は変な向きに折れていて、肩から先の袖は無くなり素肌が剥き出しだ。その剥き出しになった左腕が何だか妙だった。角度? 付け根が、生え方がまるで……。
シチロウネズミはヤチネズミの顔色から、同室の疑問を汲み取ったようだ。自分の左半身を見下ろし、「これでしょ。気持ち悪くね?」と失笑した。
「何だよ…、なんだそれ! おまッ!! うで……」
「またずれたよ、だから嫌なんだって。ああもう!」
全身で叫ぶとシチロウネズミは右手に握りしめていた短刀を左肩に付き立てた。刃が骨に当たったのか、ごりん、と耳触りな音が響く。シチロウネズミは嘔吐を我慢するような顔で涙目を見開くと、止まった短刀をもう一度握り直し、今度こそ一気に左肩を切り落とした。
「お…、俺のトガちゃんの、……は、こ、ここんな……から、使いたく…くて……」
トガリネズミの薬の効能は驚異的な再生だ。トガリネズミ自身が完璧で完全な再生だったのに対し、その多くの受容体は少しずれる。繋がるには繋がる、塞がるには塞がる、欠損部分は再生する。だがやはり全てずれる。
「で、でもも…、ぅす……さい生は早いから!」
息を切らせて怒鳴るようにまくしたてると次は歯を食いしばって唸った。と同時に切断面から新しい左腕が飛び出た。伸びた。生やした。生えた、腕が。は……
ヤチネズミは口元を手で覆う。聞いたこともない声を発する見たこともない顔の同室の同輩を、物心ついた時には既にいつも隣にいた、気心知れたはずの仲間の全く知らない横顔をとその身体を、信じられない気持ちで見つめる。
「今度はちょっとまとも」
吐きだした息と共に早口で言いきると、シチロウネズミは生えてきた左手を持ち上げた。動くのかあれ、とヤチネズミはまじまじと同室の動作を見つめる。
「…ッし!」
シチロウネズミは頷くと左手を握りしめたまま振り返った。ヤチネズミはびくりとする。
「多分そこの二輪はまだ動く。ヤチはそれであいつら運んで、子ネズミ優先で。俺はヒミズと時間稼ぐから」
「お……」
「おれら年上じゃん? ヤチもがんばってっていうかがまんして!」
「しち…」
「俺動くからね! 当たんなよ!!」
言い置くとシチロウネズミは駆け出した。その後ろ姿から、おそらくはあの左脚も左腕のように新しく生やした物だったのだろうと気付く。走りづらそうなのに全力疾走で、痛いはずなのに全身を使って。
「シチロウッ!!」
同室を追いかけようとして踏みとどまる。正確に言えば数歩、後ずさりした。ネコたちの投てきは続いている。向かい来るシチロウネズミに悲鳴じみた叫び声をあげながらも、女たちは手近な物を投げ続けている。奴らが何故、肉弾戦を諦めたのかをヤチネズミも気付いた。
そのシチロウネズミ目がけて投げつけているはずの鉄屑や石ころが、ヤチネズミの方にも向かってくる。四輪駆動車の車輪がすぐそばで砂に埋まった。どういう筋力を持っていればこんなものを投げられるのか。あいつら絶対、女じゃない。
シチロウネズミの脇腹に何かが当たった。逆光の中で落ちた背中はしかしすぐに立ち上がる。患部に手を当て頭を垂れて、その手が何かをちぎり取ったかと思ったら、そのまま地面に放り投げた。遠目でも質感がわかった。固形と液体の間のような、ぷるんとした塊。多分皮膚と肉と臓物も少し。また先のように切り捨てたのだろう。傷つけば痛いし痛ければ動かせない。だから傷ついた部分はすぐさま捨てる。そして新しく再生させる。再生させた部分は新しい、傷ついていない、だから動かせる。例え少しずれていたとしても動かせる方をシチロウネズミは選ぶのだ。動かせるようになるまで、使える部位に再生するまで、使えない部分は切り捨てるのだ、自らの手で。
―いたい、いたいよ、もうやめて―
あんなに泣いていたのに。あんなに痛がっていたのに。
「シチロウッ!!」
馬鹿野郎ッ!!
ヤチネズミは傍らの自動二輪を起こして跨る。勢いづけて片足で地面を蹴るが機械は衝撃に弱い。原動機がなかなか目覚めずやきもきする。
「くそ! くそッ!!」
動けよ、動けって!
視界の端に飛んでくる物体を捉えてヤチネズミは慌てて上体を伏せた。飛来物が右の額を掠める。ごっという音と衝撃の後に血が流れ、瞑った右目が視野を狭める。悪態を付きながら傷口を手の平で拭い、左手で原動機の起動を何度も試みる中でその額の傷以外はどこも流血していないことに気付いた。
―俺動くからね! 当たんなよ!!―
―防御には向いてんだって―
お前のは防御じゃなくて自己犠牲だ! ヤチネズミは奥歯を鳴らした。また同じことをさせてしまった、また自分のせいで。
―誰もお前をまともな戦力だなんて思っちゃいない―
嫌な記憶が不穏な予感を湧き立たせる。
―反対の見解を持て―
反対、反対? 反対って何だよ!
―ヤチにはまだたくさんある―
原動機が目覚めた。勢いづけて地面を蹴る。逆光の中から突如として現れる飛来物を注意深くかわしながら自分を守ってくれた同室の背中を追いかけた。