3-224 再始動
朝が来るや否や持ち場を離れて、チュウヒは階段を駆け降りた。
通路を走る。走る。走る。途中すれ違う女たちの前では平静を装って速度を落とし、その姿が見えなくなると同時に再び走る。
手慣れた様子で昇降機を降り、かつての仕事場兼溜まり場に駆け込んだ。仲間たちは手持無沙汰に作業台で頬杖をついたりしている。
「おぅ、お疲れぇ」
ハヤブサが眠たそうに言った。
「何? 手伝いにきてくれた? チュウヒさま、やっさしー!」
チョウゲンボウがくねくねと体をよじる。
「サシバは?」
肩で呼吸をしながら、チュウヒは真顔で尋ねた。
「サシバは! あいつどこ行った!」
尋常でないチュウヒの慌てようにようやくハヤブサが身を起こした。チョウゲンボウもにやけ面を潜める。
「この時間はサギんとこだろ。あいつ毎朝太陽見るの日課だし…」
「今すぐ呼んで来い!」
「お前、どした?」
歩み寄って来たチョウゲンボウをかわし、ハヤブサが頬杖をついていた作業台にチュウヒは手をかけた。
「なんだよ…」
「下行く! これ動かせ!」
「はあ!?」
「いやいや今は駄目だろ。もう搾血も終わる頃だろ? 仕事しなきゃなんないし…」
「うるせえ! どけ!」
チョウゲンボウとハヤブサは顔を見合わせる。
「どけ! ハヤブサ…」
「チュウヒ!!」
ハヤブサに腕を掴まれて、チュウヒはようやく動きを止めた。
「どしたお前。上で何、あった」
チュウヒはハヤブサに振り返る。その横にチョウゲンボウもやってくる。完全に覚醒した真面目顔と、冗談をさし控えた心配顔に見つめられて、チュウヒはようやく作業台から手を離した。
「……お頭が来た」
「まあ、そうだろな」と言ってチョウゲンボウがアイのいない部屋を見回す。
「サギのこと聞かれた」
「サギぃ?」
ハヤブサが怪訝そうに瞬きした。
「お頭もサギ狙ってたの?」
チョウゲンボウが意外そうに扉の先を見遣るようにして言い、
「あいつを廓に連れて行きたがってんのはノスリの方だろ」
ハヤブサがその後頭部に向かって言った。
「ハチクマあたりもやばいよな」
チョウゲンボウが正面に向き直り、
「無駄に見た目はいいからな」
ハヤブサが鼻筋を寄せて言った。
「そうじゃない! そっちじゃなくて…」
チュウヒはまだ真剣さが足りていない仲間たちへの苛立ちに頭を抱える。一大事なのに、事は一刻を争うのに!
「『ナナは元気か?』って聞いてきたんだよッ!!」
チュウヒは怒鳴りながら作業台を叩いた。残響の中でハヤブサとチョウゲンボウがようやく唇を閉じる。
「今まで一回もサギに興味なんてなかったくせに、『お前はヨタカと仲が良かったよな』とか『仕事ちゃんとしろ』とか」
チュウヒは頭を抱えながらまくしたてる。しかし焦り過ぎてその内容が支離滅裂で、彼が何を恐れているのかが仲間たちには伝わりきらない。
「どこまで知ってんだ? いや、気付いたのか? なんで!! どっから漏れたってお前らが漏らすはずないし……」
しかしチュウヒが何かに怯えているのは、その雰囲気からも十分伝わって来たから、
「チュウヒ?」
チョウゲンボウはチュウヒの顔を覗きこんだ。
「とりあえず落ち着け。んで一から順に話せ」
しかし、
「ばれたかもしれねえっつってんだヨ…!」
取り乱したチュウヒは事もあろうか大声でそんなことをまくした。チョウゲンボウが慌てて注意しようとしたその脇を風がすり抜ける。次の瞬間にはチュウヒは背中から床に倒され、跨られていた。
「黙れお前、黙れ。な?」
チュウヒの口を左手で抑えこんで、ハヤブサが凄んだ。
*
元分別係の男たちはチュウヒの話を聞くことにした。搾血後の夜汽車が運ばれてきたが、作業室に積ませるに任せて。
「絶対お頭は気付いてんだよ」
チュウヒは項垂れ、後頭部を掻き毟った。
「まじか……」
同じく神妙な面持ちでチョウゲンボウも下を向く。
しかし頬杖をついていたハヤブサは憮然とした表情で目を瞑り、「なあチュウヒぃ、」と切り出した。
「お前が職務怠慢で怒られたってのはわかるんだけどさあ、なんでそれがヨタカに繋がんだ?」
チュウヒは勢いよく顔を上げる。
「んなの決まってんだろ! 『隠し通せると思うなよ』だぞ!? 『全部わかってんだぞ』ってことだろ??
大体改札の見張りなんて他にもいるのにわざわざ俺んとこ来て、『ヨタカの仲間だろ?』って確認してきて。
お前らそんなこと言われたことあったか? あのお頭の口からヨタカの名前が出ることなんて…」
「俺一回あるぞ」
チョウゲンボウが右手を挙手した。チュウヒは絶句してチョウゲンボウを見つめる。
「むか~しのことだけどな。ヨタカん家に迎えに行った時にたまたまお頭がいてさあ、『どうも』っつったら『いつもヨタカがお世話になってます』って。敬語で」
「まじ?」とこぼしてチュウヒは固まる。がしかし首を横に振ると勢いを取り戻して、
「で、でも昔の話だろ!? ヨタカが右目焼かれてからは部屋も追い出されて…」
「ヨタカが自分から出たんだよ」
ハヤブサが頬杖をついて呟く。
チュウヒはチョウゲンボウとハヤブサを真っ赤な顔で見比べていたが、「とにかく!」と大声で雑音を退けた。
「お頭は何か知ってんだよ。どっかで気付いたのか誰かの入れ知恵か。こん中で言うとしたらサシバ、お前しかいねえだろが!」
チュウヒに指差されたサシバは腕を組んだまま困った顔をした。「あいつあ?」と横から問われて、「個室で寝ている」と答えながら。
「あいつの話はとりあえずおいとけよ。今はお前とチュウヒの血圧を心配する時間」
チョウゲンボウのその物言いさえもチュウヒには腹立たしい。
「おいチョウ、お前なんでそんなにふざけてられんだよ!」
チュウヒはいきり立ったがそれを制したのはハヤブサだ。チュウヒに代わってチョウゲンボウの脛を蹴ると、「サシバじゃねえよ」とチュウヒに言う。
「お頭がサシバの話、聞くと思うか? こいつめちゃくちゃ嫌われてんだろ。なあ?」
話を振られたサシバは憮然としながらも否定できない。その顔を見て可笑しそうに腹を痙攣させる輩に、チュウヒは睨みを利かせる。
「だったら誰が言ったってんだよ!」
怒鳴りながら椅子に座り、チュウヒは頭を掻き毟った。
「俺じゃない」サシバが首を横に振り、
「言うわけないだろ」ハヤブサが息を吐き、
「右に同じく」チョウゲンボウも続いた。
「だったらなんでお頭は知ってんだよッ!!」
チュウヒは真っ赤な顔で唾を飛ばした。「だからぁ、」とハヤブサが面倒臭そうに言う。
「お前の話聞く限りだと、まだヨタカのことがばれたとは限んなくない?」
「でもお頭は『余計な奴と関わんな』って言ってきたんだぞ? ヨタカ以外で誰のこと言ってるってんだよ!」
チュウヒも負けじとハヤブサに食ってっかかる。
「しかもサギの昔の名前まで持ち出してきて、あん時のことほじくり返して。いきなり『七』って言われてもわかるかって! 夜汽車のって言われて初めて思い出したわ。あいつも『十五』だったし」
「あ!」
チョウゲンボウが何かを閃いたようだ。だが皆に見つめられたその視線が真面目なものばかりで、「なんでもない」とすぐ逃げる。
「あんだよ。いぇよ」
「いや…」
「何!」
半ば叱られて強制的に、チョウゲンボウは閃いたことを言わされた。
「あの…、サギと同じ夜汽車? の奴が来たじゃん。ヨタカみたいに包帯巻いた…」
「ジュウゴな」とチュウヒ。「そう、そいつ」とチョウゲンボウは同意してから、
「お頭が言ったのは、そいつを入れたことを怒ってたのかな~なんて…」
「なんでお頭があいつがここに来たこと知ってんだよ」
チュウヒが苛立ちを全面に押し出していって、「だよな」とチョウゲンボウはすぐさま意見を引っこめた。
「だったらやっぱりお頭は…?」
「気付いてんだろ、ヨタカのこと」
チョウゲンボウの疑問符に、チュウヒは確信を持って答える。
「そうかなあ?」と、どうも腑に落ちない様子でハヤブサは天井を仰いだが、
「どぅっちでもええよ」
その声に全員が振り返った。
「あいつがおぅえのこと、知っってても、ん…なくても、やぅることわ、お…んなじ、だ」
サシバが隣を見る。
「いっッぱつ、ぶんなぐぅ」
絵空事じみた願望を聞いて、チュウヒは気が抜けた。
ついこの間、ようやく寝床から降りたばかりの癖に、自分で車椅子に移乗することも失敗続きの癖に、不自由な体で描く夢だけは壮大だ。しかしこいつが言うと可能に思えて来るから不思議なもので、その絵空事がまた祭事になりそうな予感がして、思わずチュウヒは噴き出してしまう。
「そりゃ見物だな」
ハヤブサも同じだったようで、それまでの真剣な顔を崩してにやついた。
「だったら俺は、お頭に膝かっくんして逃げるから、後始末よろしく」
チョウゲンボウがまた下らない冗談を言って笑っている。
「そんなに動いて平気か」
サシバがその体調を心配したが、
「ひぃだが、かいい」
冗談めかした本気の愚痴を聞かされて、反応に困る。
「お前にはないだろ、バカ」
チュウヒが言ってやると上半身を揺らして笑う。それから左目を見開くと、
「やるぞ、おぅわえら」
―行くぞ、お前ら―
決まり文句を口にして寝床から身を起こしたヨタカに、仲間たちは同じ顔で頷いた。