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3-209 氷解

「あのね、夜汽車の中にツミちゃんにすごくよく似た男の子がいたんだけど、」


 シュセキが言っていた。


「思い出せないのは覚えておくための許容量を上回っているからで、一種の自己防衛みたいなものなんだって」


―何故君の記憶力が酷く欠落しているかと言えば君の記憶を留めておく許容量が異常に小さいためだ。水と貯水槽を想像しろ。水が情報で貯水槽がその容量だ。容量以上の水を注げば貯水槽はやがてひび割れ破裂する。それを避けるために溜めきれない水を適度に零す。それが忘却だ。

 つまり君の貯水槽は君以外の者のそれと比べて驚くほど小さく脆い、耐久力の圧倒的な低さとも言い変えられる。遊泳場と欠けた湯呑の差と言えば理解出来るか」


 言われたジュウゴは真っ赤な顔で憤慨した。ナナとハチに相槌を打ちながら、ウミネコは背中で男子たちの会話を聞いている。


「だが貯水槽の下には受け皿もある。これはつまり君が何かを忘却したとしても、君が君の身体を以てその事物を認知したという事実は消えないということだ。水が体験した事実そのもので、貯水槽……君の場合は湯呑だな……、湯呑は君が記憶として留めておくことが出来た事実の一部分とするならば、君自身は忘却しているが君の身体に刻まれた記録が受け皿の中身と言える。

 君がその頭の中に溜めておける記憶量は他者に比べて数千分の一程度かもしれないが、受け皿は必ずある。君が忘れていても君に刻まれた過去の事実は消えない。そして君の湯呑も常に満杯というわけではない。時折余裕が出来る、何かのきっかけで。その余裕が出来た時に、君は受け皿の中の水を掬い上げられることもあるだろう」


「でも注がれた事実と掬いあげた思い出では、随分と見え方が異なるんじゃないのか?」


 横で聞いていたジュウシが尤も過ぎる茶々を入れて、ジュウゴはさらに混乱したが、


「だから自分以外の他者の助力が必要なのだろう」


 シュセキはさらに注釈を加えた。


「自分が掬いあげた記憶と、他者の記憶、注がれた事実は同じでも保管していた者の貯水槽によって記憶(みず)の色は異なってくる。だからそれらを比較し照らし合わせ、各々の記憶を事実に近づけていくのだろう」


「結局僕は何をすればいいの?」


 説教を受けていた当のジュウゴは全く理解出来ない顔をしてそんなことを言う。その顔を見てシュセキはさらに機嫌を損ねて、その後さらに長々と説教というよりは罵倒を続けていたのだが、


「思い出せたんなら大丈夫だよ」


 呆れ顔のジュウシが仲裁していた。



 *



「きっとツミちゃんは忘れることで自分を守っていたんだと思う。とても言い方が悪いけれども、……ツミちゃんはツミちゃんのお兄ちゃんを憎むことで自分を保っていたんじゃないかな」


 怒りは時に、生きる糧となるから。


「でもそうじゃないことを思い出せたってことは、もう恨まなくても大丈夫ってことなんじゃない?」


 ウミネコはツミを覗きこむ。ツミはわからないと言わんばかりに首を横に振る。


「でも、でもだってわたし、ずっとお兄ちゃんのこと…!」


「私はおじさんの言葉を信じるよ」


 ウミネコの言葉にツミは青ざめる。「わたしのせい?」と誰にともなく助けを求める。


「わたしのせいでおにいちゃん……」


「ツミちゃんは守られてたの!」


 声が上ずり始めていたツミは息を飲んだ。


「ツミちゃん、ちゃんと守られてたんだよ」


 静かな声で言い直したウミネコの前で、道に迷った幼児のような顔で下を向いた。


 ウミネコは身を起こした。膝立ちで歩み寄り、ツミを抱きしめる。


「ツミちゃんが生きててくれて嬉しい」


 全身で包み込み、ジュウゴからもらった言葉を今度はツミに贈った。それから、


「結果論だけどね」


 ツミの真似をして微笑みかけた。


 ツミが噴き出す。やがて可笑しくて仕方ないと言わんばかりに笑い転げる。あまりに笑ってばかりいるから、「なに?」と腕を解いてウミネコは尋ねたのだが、


「ウミちゃんはいい子だね」


 まるでジャコウネコのような口振りでからかわれた。ウミネコは気恥かしさを覚えて赤面する。


「なにそれ! ツミちゃん元気じゃない!」


「ウミちゃんかわいい」


「ツミちゃん!」


 言いながら笑い合い、じゃれあいながら互いの無事を喜び合った。


 笑いながらウミネコは、つい先ほどの会話を省みていた。ツミが兄に対して抱いていた感情は、自分が母に向けているそれと何ら変わりないのかもしれない。もしかしたら自分がツミに説いたように、自分もまた母を恨むことで自分を保っているのだろうか、と。


 だがあの女を擁護する点など見当たらない。


 娘を捨てた狂気の女。それ以上でも以下でもない。ウミネコの思考はその一点で帰結する。



 *



 夫に風呂を勧めて、ヒメウミガメは居間を片付けていた。子ども部屋も静かだ。自分も寝室で夫を待とうかと思ったその時、遠慮がちに扉が薄く開かれた。


「トカゲ?」


 養女(長女)が窺うように覗いている。


「明日まで飲んでるかと思ったわ。ヤモリはこっちで寝かしたよ」


 娘を起こすには遅すぎる時間だ、今日はこちらで預かるから、とヒメウミガメは言ったつもりだったのだが、トカゲは無言で入室してきて後ろ手で扉を閉めた。何か話があるのだろう。ヒメウミガメは開けかけていた寝室の扉を閉め、居間の中央の長椅子に腰を下ろす。「おいで」と言って隣の座面を軽く叩くと、トカゲは従順にやってきた。


 横に座るなりヒメウミガメの大腿を枕にして横たわる。珍しく甘えたい気分のようだ。最近は滅多になかったのに。


「なしたのさ」


 トカゲの頭を撫でながら、ヒメウミガメは言った。一時はどうなることかと思っていた五分刈り頭も、大分伸びて見栄えがよくなってきている。


「何? 怖い夢でも見たのかい?」


「反対」


「反対?」


 意味がわからなくてヒメウミガメはトカゲを覗きこんだ。最近ではあまり見せなくなっていた少女の顔になって、トカゲはどこか遠くを見つめている。


「トカゲ…?」


「ヒメ、」


 ほぼ同時に互いに呼びかけていた。ヒメウミガメはすぐに「ん?」と聞き返す。トカゲもヒメウミガメが自分の言葉を待っていることを知って、瞼を閉じるように目を細め、


「長く生きてると、いいこともあるんだな」


 しみじみと呟いた。


「な~に言ってんのさ、若者(わかもん)が!」


 ヒメウミガメは思わず噴き出す。あまりに似合わな過ぎる感慨だ。冗談にしか聞こえない。


 しかしトカゲは腹を立てる風も言い返してくることもなく、ふふっと微笑んだ。その横顔を見てヒメウミガメも真顔に戻る。それからトカゲに合わせて、微笑みをたたえてその頭を撫でてやる。


「なんかいいことでもあったのかい?」


「半分」


「悪いこともあったのかい?」


 トカゲは無言で頷く。


「でもいいこともあったんでしょ?」


「うん」


「したら、いかったね」


 消え入りそうな鼻声がヒメウミガメに同意した。


「ヒメ?」


「なあに?」


「あの時、」


 そこでトカゲは言い淀み、きつく閉じた唇をむずがゆそうに動かした。それから短く息を吸って、


「あの時、助けてくれてありがと」


 一息で言って逃げるように顔を隠した。


 ヒメウミガメは手を止める。真顔でトカゲを見下ろす。それから小さく破顔して再び娘の頭を撫で始めた。


「トカゲ?」


「……ん?」


「あの時、助かってくれてありがと」


 トカゲが目を見開いた。ぐるりと首を回してヒメウミガメを見上げる。目があった養母は歯を見せて笑いかけてきた。


 ヒメウミガメの大腿の上でトカゲは寝返りを打つ。養母の腰に左手を回して抱きつき甘える。


「なしたのさ」


 ヒメウミガメの苦笑の中で、「別に」とトカゲは強がった。



 *



 ひとっ風呂浴びてすっきりして、さて、と気合いを入れたシュウダを待っていたのは、薄暗い居間に置かれた煎餅布団だった。布団の上には置き手紙。


『今日はここで寝て』


 妻の字で一言、無情な要求が書かれている。あれ? 続きは? と寝室の方に顔を向けたシュウダの目に入って来たのは、


 『たち入りさん止』


 『女しやいちゆ』


 たどたどしい養女の字で書かれた張り紙だった。シュウダはしばし呆然と立ち尽くす。


 のそのそと長椅子の上に布団を敷き、半乾きの髪の毛のまま潜り込んだが、酔いから覚めた体は火照りも引き、寝返りも打てない狭い椅子は固かった。


「………寒っ」



「ウミちゃんかわいい」


「もう! ツミちゃん!」


 トカゲとサンがじゃれ合っているそのすぐそばの改札の陰で、シマヘビは声を押し殺して固まっていた。


 背中を汗が滴る。うすら寒さに全身を震わせる。 

 

 楽しげな女たちに気付かれないうちに、シマヘビはそっと改札を離れた。

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