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3-208 お兄ちゃん

「ヤモリって言うんだけど、あの子、私の娘」


 思いもよらなかった告白にウミネコは度肝を抜かれた。


 自分と変わらない年齢の、母親になるには若すぎる幼馴染みの告白にウミネコは目を白黒させたが、


「ネズミ」


 ツミは馬鹿にするように鼻で笑った。誰に対する嘲りだったのか。明らかに望まない妊娠だっただろうに、ウミネコは言葉を失う。


 ツミは正面を向き、ウミネコに倣ったみたいに脚を抱える左腕の上に顎を乗せる。白い息を吐きながらどこかを見つめてぽつぽつと語り出す。


「シュウダも最初は『産なくていい』って言ってた。ヘビの中には今でも『()ろせばよかったのに』って言う奴らもいる」


「どうして産んだの?」


 おそらくはヤモリの出生をよく思わないヘビたちと同じように、ウミネコは非常に無神経で残酷な質問を口にした。


 ツミはちらりとウミネコを見る。ウミネコは首を竦めて構えたが、 


「どうしてだろうね」


 ツミから返ってきたのは苦笑だった。


「最初に妊娠してるって言われた時は凄く嫌で気持ち悪くて。汚いって、ただそれしかなくって。私ごと全部なかったことになればいいって思ってたはずなんだけど、」


 言葉を挟むことも憚られる体験談は、聞いているだけでウミネコの咽頭を締めつける。


「シュウダたちの予想よりも早く出てきちゃって。産まれちゃった後はヒメが…、シュウダの奥さんが引き取るって言ってたんだけど、そうなるって思ってたんだけど、顔見てだっこしたらなんか……」


 膝の上に顎を乗せたまま下を向く。


「ウミちゃん知ってる? 赤ちゃんってすごくちっちゃいんだよ。壊れそうだった。何かあっても自分じゃなんにも出来なくて、ヤモリは泣けなかったから苦しくても誰かを呼ぶことも出来なくて。辛いだろなって、誰かに助けてほしいんだろなって見てたらなんか、なんか……」


 ツミは顔半分を沈めて、


「………私が守らなきゃって」


 くぐもった声で言った。


「でもずっと不安だった。ちゃんと育てられてるのかなとか、ヤモリだって私なんかのところに産まれてきたくなかったんじゃないかな、とか」


 聞き取りにくい声でツミは続ける。声と共にその姿も、そのまま砂に埋もれていきそうだ。ウミネコは何か言わねばと思う。しかし、


「でもあいつは、『ありがとう』って言ったの」


 ある一点でその沈下は止まった。


 『あいつ』が誰を指すのかわからなかったから、ウミネコは眉根を寄せてツミを見ていた。しかしツミはその視線には気付かずに、


「ヤモリと出会えたのは私がヤモリを産んだからだって、ヤモリを産んでくれてありがとうって」


 そう言って微笑んだ。その横顔がありにも嬉しそうだったから、尋ねることも忘れてウミネコはしばし見惚れてしまう。


 ツミは思い出し笑いをかみ殺すように笑った。


「すごいよね。本当に見つけちゃうなんて」


 その目はウミネコを映しておらず、ウミネコに語りかけた言葉でもないようだったが、その言葉でウミネコは『あいつ』がジュウゴを指していたことを知る。


「よかったね、見つけてもらえて、」


 結果論だけどね、と言ってツミはいたずらっぽく笑った。ウミネコは「……うん」と頷く。


「ウミちゃんが羨ましい」


 言ってツミは空を見上げた。つられるようにしてウミネコも空を仰ぐ。まだらな白が、だいぶ夜を押し出していて、いつの朝も残酷なまでに冷たく寒いのに、いつだって太陽は腹が立つほど美しい。


「私だってツミちゃんが羨ましかった」


 終わりかけの夜を見つめながらウミネコは呟いた。


「私の何が?」


 ツミが振り返る。ウミネコはその顔をじっと見つめてから微笑み、


「ツミちゃんのお兄ちゃん」


 と、答えた。


「四つ上だったっけ? かっこよかったよね。ツミちゃんちに遊びに行ったらいっつも木刀振ってて、練習してる姿が『お兄さん』って感じで…」


 思い出話に花を咲かせようと、かつての憧れの存在を口にしたウミネコだったが、


「ツミちゃん?」


「ネズミに襲われた時、あいつ私のそばにいたんだ」


 花は咲く前に刈り取られ、腐臭を放ちだす。


「でもあいつは先に逃げた、私を置いて。私あいつに捨てられたの。あいつのせいで私……」


 そこまで言ってツミは口を噤んだ。先までのお節介な眼差しも母親の包容力もそこには無い。そこにいたのはツミではなく、ヘビの駅のトカゲだった。


 ウミネコはトカゲの横顔をじっと見つめる。シュセキによく似た口元は固く閉じられていて、シュセキよりも眼力が強い目は淀んだ黒に沈んでいる。けれども、


「違うよ」


 ウミネコははっきりと否定した。忘れていたことさえ忘れていた記憶は、幼馴染みとの会話で徐々に鮮明に思い出されている。


「ツミちゃんのお兄ちゃんは、ツミちゃんを守ろうとしたんだよ」


 トカゲが怒ったような目を向けてきた。だがウミネコは負けない。


「思い出したの。おじさん…ツミちゃんのお父さんと私のお父さんが話してたこと。ツミちゃんのお兄ちゃんはツミちゃんを守ろうとしたんだろうって、立派なワシの男だったって」


―ネズミに向かっていったんだろう。この棒きれが証拠だ―


―凄いだろ? ワシの鏡だ。……ああ、自慢の息子だよ―


「お葬式でね、ツミちゃんのお兄ちゃんのお葬式、ツミちゃんがいなくなってからすぐにあったんだけど、私もお父さんと一緒に参列したの。その時、おじさんがお父さんに言ってた、『ワシの鏡だ、自慢の息子だ』って。『最後までツミを守ろうとしたんだろう』って。

 あの時は何の話かわからなかったんだけど、もっと言えば誰のお葬式かも知らないで言われるままに行ったんだけど、後で聞いたらツミちゃんのお兄ちゃんのお葬式だって言われて。ツミちゃんにも会えないし『なんで?』ってお父さんに聞いても答えてもらえなくて」


 ツミの眉根が急接近する。イシガメに向けるような凶悪な形相になっていく。


「でも今思えば、そういうことなんじゃない? だってあのお葬式はツミちゃんがいなくなってすぐだったし。おじさん、お葬式の間中ずっと線路の枕木みたいなのを握りしめてた。『それなに?』って聞いたらおじさん泣いてしまって。私、お父さんに叱られたからすっごくよく覚えてるの、思い出したの」


 ウミネコは砂に手をついてツミを正面から覗きこむ。


「ツミちゃん、ちゃんと守られてたんだよ。守りきれなかったかもしれないけど、ツミちゃんのお兄ちゃんは最期までツミちゃんのこと…」


 そこまで言ってウミネコは口を閉じた。目の前にいる女の顔が色を変えていく。強がりで天の邪鬼のトカゲは影を潜め、ウミネコのよく知るかつてよく遊んだ少女が目を見開いていた。


「ツミちゃん…」


「うそ……、嘘!」


 ひっくり返った声でツミは叫んだ。


「そんなわけない! だってあいつは私を置いて走ってった! わたし呼んだんだもん! でも走ってっちゃった。私がネズミに捕まった時も『逃げろツミ!』って言うだけであいつは…!!」


 歯を食いしばると全速力で、兄は走り出した。離れて行く兄の背中を覚えている。置いていかれた、捨てられた。そう思って愕然として、絶望の中で呼び続けた兄が駆けて行ったのはすぐ目の前の改札ではなく、


「お兄ちゃんは……、」


 全く別の方向だった。


 何故だろう。ツミは左手で頭を支える。あいつは私を置いて逃げたのだ。そのはずだ。そうなのだけれども。


 ネズミに捕まって視界が回転して、兄を探して、探して呼んで、見つけた兄は確かあの時、


―逃げろ、ツミッ!!!―


 重量が増した頭を左手で抱える。頭皮に爪を立てんばかりに指先に力が入る。兄は自分を捨てた、自分を捨てて逃げて行った、だから私はネズミに捕まった。薄暗いあの部屋で、生臭い男たちに囲まれて、全ては兄のせいだと怨んだ、憎んだ、呪ったけれども、


 あの時最後に見たのは、兄の背中ではなく必死の形相だったかもしれない。


 ツミは俯く。愕然とした目には恐怖さえ見え隠れする。ずっと憎しみの対象だった存在の別の側面が見えた気がして、憎悪が揺らぐ、ぶれる、戸惑う、困る。


 呼吸荒く肩を上下させて困惑するツミの横で、ウミネコは言葉を探した。ツミが混乱しているのは明らかだった。信じていた記憶を否定されたのだ、困惑して当然だろう。ツミの気持ちは痛いほどわかる。自分も同じだったから。


 ウミネコは夜汽車に乗車中、夜汽車に乗車する前のことをすっかり忘れていた。あの数年間のウミネコはウミネコではなく、夜汽車のサンだった。


 何故忘れてしまっていたのか、どうしてそう思い込んでいたのか。地上に降りてからは自分の記憶力を呪ったりしたものだが、過ぎたことなのだ。悔やんでも嘆いてもやり直せないことは仕方ない。そしてその理由も多岐にわたり過ぎていて、原因の解明など望めそうにない。ただ、


「あのね、夜汽車の中にツミちゃんにすごくよく似た男の子がいたんだけど、」


 ただシュセキが言っていた。

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