3-207 ツミちゃん
「まさかあいつが探してたのがウミちゃんだったなんてね」
驚きを通り越して笑うしかないとツミは目を細める。
「いつから気付いてたの?」
驚き過ぎて乾き始めた目をさらに見張ってウミネコは尋ねる。
「シュウダがウミちゃんに声かけた時」
「どうして…」
「わかるよ。だってウミちゃん、おばさんにそっくりなんだもん」
「本当にツミちゃんなの?」
ツミは黙って頷く。
「どうしてここにいるの? その手はどうしたの?」
尋ねながら声が震えていった。信じられない気持ちが嬉しさなのか悲しさなのかウミネコ自身、よくわからなくなっている。
「どうして…!」
「座ろっか」
興奮と混乱に声が上ずったウミネコの背に、年近い幼馴染みがそっと手を添えた。
*
「落ち着いた?」
隣に座るツミに背中を擦られて、肩で呼吸していたウミネコは大きく頷いた。
「まだどきどきしているけれども……」
ウミネコが言うとツミは困ったような顔で笑った。その笑い顔にかつての幼さは残っていなかったが、それでもやはりあの頃の面影が覗かれて、ウミネコは泣きそうになる。
「ごめんね」
ウミネコはツミに向かって言った。「何が?」と真顔に戻ってツミが言う。
「だって、ツミちゃんはすぐに私のことわかってくれたのに、私は全然気付けなくて…」
「『名前がわかんない』って言われた時は泣きそうになった」
ツミが悲壮な顔でそう言ったから、ウミネコは縋るように謝罪する。しかしツミはすぐに失笑して、
「ごめん、うそ」
と、頬を持ち上げた。
「正直、何て答えるのが正解なのかわかんなかった」
そう言ったツミの目は虚ろだった。だがすぐに口角を元に戻し、
「ここではトカゲって呼ばれてる」
ウミネコに微笑みかけた。
ウミネコは微笑むツミをじっと見つめた。何故本名を使わないのか、そう尋ねようとしたのだが聞いてはいけないことのような気がして、遠回しな言い方をする。
「私が気づかないままだったらどうするつもりだったの?」
「気づかれなかったらそれはそれかなって」
驚いてウミネコは尋ねる。
「どうして? 私が思い出せなかったら何にも言わないつもりだったの?」
手をつないだ途端に振り払われた気分だった。しかし、
「だってウミちゃん、もし気付いてたら周りに誰がいても、さっきみたいに私の名前を叫んでたんじゃない?」
ツミは聡明そうな顔で嗜めるように言った。言われてみればそうだったかも知れない、とウミネコははっとする。
「駄目だよ。ここヘビの駅なんだし」
「うん……」
思い知らされてウミネコは俯いた。
「聞いてもいい?」
下を向いたままウミネコは口を開く。無言の目顔を横目で確認して、先も尋ねかけた疑問を口に出す。
「なんでツミちゃんがその…『ヘビの駅』にいるの?」
ウミネコの質問にツミは唇を固く結んだ。それから長く深い息で呼吸を整えた。
「シュウダに拾われてここに来て、そのまま」
「『ひろわれた』?」
「飼われてたの。ネズミに」
ウミネコが全てを言う前にツミは答えた。ウミネコは目を見開く。まじまじと見つめた横顔からは何一つ感情を読み取れなくて、読み取れたとしてもかけてやるべき言葉が見つからなくて、やがてウミネコは顔を背けた。
「どうして、……あんな変な喋り方をしていたの?」
別の話題を試みる。
「変って?」
ツミが振り向く。無意識であの話し方をしていたのだろうか。ウミネコは顔を上げてツミに向き直り、「さっきの喋り方」と指摘した。
「変だったよ、すごく。今は普通だけどさっきは何て言うか……。刺々しかったしそれに『俺』って言っていたし」
それも相まってウミネコはツミに気付けなかったのだ。
ツミは「ああ」と納得すると、再び正面を向いた。
「男の真似」
きょとんとしたウミネコを見ずにツミは彼方に目を向けて、
「自分がなっちゃえば怖くなくなるかなって思って」
言って左手で右手の先端を握りしめた。
「怖くなくなるって…」
尋ねかけて口を噤んで、ウミネコは猛省した。
聞く前にわかってしまったからだ。正確に言えば予想でしかないのだが、それが事実とどれほど乖離しているかは問題ではない。右腕を失っている、ネズミに捕まっていた過去がある、男の真似をして恐怖を克服しようとしている。ツミが恐怖を覚える対象と、恐怖を覚えるようになった経緯は容易に想像できたし、その上でそれ以上を語らせることなど出来なかった。
「ごめんなさい」
再会に浮足立って、軽率に知らない時間を詮索して、答えを知りたい自分の欲求ばかりを押し付けていた幼稚さを詫びた。
「ウミちゃんはなんにもしてないじゃない」
しかしツミは苦笑しただけだった。さらには、
「ウミちゃんこそ大変だったんでしょ? 夜汽車に乗ってたって聞いたけどどうして?」
ツミはウミネコを心配した。左手を砂について体ごと向き直って。覗きこんできた目があまりにも優しかったから、ウミネコは逃げるようにして視線を逸らしたが、優しさに甘えて自分の不幸を吐露し始めた。
*
ツミはウミネコを見つめる。ウミネコは無言で肯定する。
シュウダは自分の母に世話になったと言う。ヤマネコも同じことを言っていた。しかしウミネコの記憶の中では、母は自分を手放した狂気の女でしかない。よりによって夜汽車に。
「いらなかったんでしょうね、私」
不要だったのだろう。必要ないなら捨てるべきだ。捨てられたということは要らなかったということだ。
ツミはしばらくウミネコの拗ねた横顔を見つめていたが、やがて思案顔で「それはないと思う」と呟いた。
「ウミちゃんのお母さんは、そんなことしないと思うけど…」
「なにそれ」
曖昧な同情にウミネコは腹を立てる。
「ないと思うじゃなくて現にそんなことをしたの。お父さんが殺されて、ワシの連中が追いかけてきて、どさくさに紛れて私を捨てて逃げたの、あの女は!」
声を荒らげてからウミネコは我に返って口を噤んだ。ツミの前でワシを口悪く罵ってしまった後ろめたさに視線を泳がせる。
だがワシと他の駅の現状を理解しているツミは、その点については何も言ってこなかった。ただ黙ってウミネコを見つめていたが、
「私の知ってるウミちゃんのお母さんは、そんなことしないと思う」
俯いたウミネコの頭に向かって、同じ感想をもう一度繰り返した。
「うち、お母さんいなかったでしょ? だからウミちゃんのおばさんに会えるのが嬉しくって。ウミちゃん家に遊びに行ったらおばさんはいっつも笑顔で迎えてくれて、お祭りの時とかは着付けもしてくれたりしたよね。おばさんがうちのお母さんだったらよかったのにってずっと思ってた」
ウミネコは顎を引く。
「私のこともすごくかわいがってくれてるって思ってた。でもウミちゃんと話してる時のおばさんは、私に優しくしてくれる時よりももっと、なんていうかなんか違ってて。『ああ、やっぱりおばさんはおばさんで、私のお母さんじゃないんだなあ』って寂しくなったりして」
ツミに説得されるウミネコは頑なだ。組んだ腕を掴む指先を白くして、頑として押し黙っている。
「何か事情があったんじゃない?」
ツミはウミネコを覗きこむ。まるで母親のような目をして。ウミネコは幼子のように唇を固く結ぶ。
「それに結果論だけど、」
ツミは困った顔になりながら、
「ちゃんと夜汽車も降りられたんだし」
あまりにも舌足らずな慰めを口にした。
案の定、超絶結果論過ぎるそれはウミネコの気持ちを全くほぐさない。だが、
「ウミちゃんのこと心配して地上を探しまわってくれる仲間と出会えたのも、夜汽車に乗ったからじゃないの?」
次の言葉はウミネコの胸に刺さったようだ。ウミネコは寄せていた眉根を離して微かに顔を上げる。
「本当に心配してたよ。いっつも『サンが、サンが』って言ってた」
ウミネコは目を伏せる。
ツミが空に向かって息を吐いた。白い靄がふわりと消えるのを見送って、再び口を開く。
「さっき私の周りをちょこちょこしてた女の子、わかる?」
突然変わった声色と話題に、ウミネコは虚をつかれて顔を上げた。
「これくらいの身長の、目がくりくりしてて…」
「ツミちゃんが叱りつけてた子?」
ウミネコがすぐにわかってくれたから、左手で少女の身長を表現していたツミは、その手を下ろして頷く。
「ヤモリって言うんだけど、あの子、私の娘」
思いもよらなかった告白にウミネコは度肝を抜かれた。