3-206 ウミちゃん
ウミネコが改札から顔を覗かせた時、東の空は既にうっすらと白み始めていた。ネコたちの話だと朝方に動くネズミは少ないらしい。万が一出たとしても改札に逃げ込めばやり過ごせるだろう。
それにもしかしたら、ネズミはネズミでもヤチネズミかもしれない。
ウミネコはずぼんの隠しに手を入れて、小さく畳んだ布切れを取り出した。夜の下でも、それが決して小奇麗ではないことが見て取れる。かなり年季の入ったものであることを、縁のほつれが物語っている。
―顔、覆っとけ―
ウミネコは古傷を指先でなぞる。テンの手当てのおかげか、痕は残らなかった。
―もろ風、受けるよりいんじゃね?―
自分の方こそ酷い怪我だったくせに、そう言ってヤチネズミはこの端切れを差し出してくれた。
あの時のウミネコは、『ネズミ』から逃げることだけを考えていた。相手の話もまともに聞かずにその目も見ずに、ただただ自分の常識に従ってヤチネズミを拒絶した。
当然だと思う。だって怖かったのだから。仕方ないだろう。何もわからなかったのだし。
だが今となれば、酷いことをしてしまったという自覚を持つくらいには反省している。謝罪したところでヤチネズミは相変わらず怒鳴っていそうだし、感謝したところでそっぽを向いて相手にしてくれなさそうだけれども。
―これ、返さなきゃいけないの―
そう言ってワシから借りたという外套を握りしめていたナナの気持ちが、今ならわかる気がする。
返したところで受け取ってもらえないかもしれないけれども、返したいと思った。それが口実にすぎないことをウミネコもどこかで気付いていたが、ただ会いたいと思う。生きていてほしいと。
ウミネコは空を仰ぐ。紺と群青と白が断層的に重なって、地平線の上は色彩だけなのに温かみさえ感じる。寒さが身に沁みてウミネコは両手で二の腕を擦った。寒い、白い息を吐く。誰もいないって寒い。
―体調が優れないならそう言え―
優れないわけじゃない。ただ寒いのだ。誰の熱も感じられないから。
―大丈夫だよ、絶対! シュセキは絶対大丈夫だ―
大丈夫だろうか。片足を失って思考力も失って、あんな覚束ない様子だったのに、
―今度こそちゃんと聞く―
袖に皺が走る。
「何をしている」
驚いてウミネコは振り返った。その声があまりにシュセキに似ていたから。あまりに彼のことを思い過ぎていて、脳がついにありもしない音や像を自分に見せ始めたかと疑った。
しかしそこにいたのは虚像でも妄想でもなく、もちろんウミネコが思い描いていた相手でもなく、
「あ……」
シュセキによく似た女だった。
声をかけてきた女に向き直り、ウミネコはその姿をまじまじと見つめる。
初対面の時は、あまりにシュセキにそっくりなその顔しか目に入って来なかったが、その後に近づき気付いたことは、身体的特徴だった。
右手が半分無い。まるで質量を持たない袖が、風にたなびいている。全く隠す様子もないその特徴的な右腕を、ウミネコは無遠慮に観察していた。
視線に気づいて顔を上げる。女は黙ってウミネコを見つめている。怒っているわけではなさそうだがあまりに不躾だったかとウミネコは気付き、慌てて視線を逸らしてどぎまぎと謝罪した。
「ごめんなさい」
「何が」
何がと問われても……。
謝罪内容を具体的に説明するのも気が引けて、ウミネコは視線を泳がせる。
「どうした」
反対に気遣われてしまった。「何も」と女を見ないで答えながら、気まずさを払拭するために何か話さねばと話題を探すが、女がシュセキに似ていることしか思いつかない。
「し、シュウダさんの娘さんの…?」
「シュウダが勝手にそう言っているだけだ。俺はあいつを父親だと思ったことはない」
名前を聞こうとしただけなのに、呼びかけに対して三倍くらいの文字数で全力否定された。しかも機嫌を損ねたらしい。挙げ句の果てには『俺』って……。
物凄く気になるが指摘してはいけなさそうな話題を提供されたウミネコは、散々逡巡した後で「ごめんなさい」と下を向く。
「名前がわからなかったから……」
そこでウミネコは女を待った。この場合、きっと相手から名乗ってくれるだろうと期待したのだ。しかし待てど暮らせど女は何も言ってこない。
ウミネコは女を盗み見た。唇を閉じて目を伏せている。不機嫌? とも違う気がする。上機嫌からは程遠いが、聞く耳を持たないだけではなさそうなその顔は、やはりシュセキに似ていた。
「あの……、宴会は終わったんですか?」
「シュウダの命令だ。無暗に地上に出るのは危険極まりない。お前はもっと自分の身の安全に注意を払った方がいい」
認めていないと言うくせに従順なようだ。しかしそれよりも、自分のために足労をかけてしまったならば悪いことをしたと思う。
「大丈夫です。この時間にネズミはあまり出ないと言うし、そんなに改札を離れるつもりも…」
「脅威はネズミだけじゃない。この駅はカエルとも敵対している」
要は出歩くなと言いたいのだろう。
「お前はネズミに拉致されたことがあるんだろう? だったら尚更、行動は慎重にすべきじゃないのか」
ヤチネズミには拉致ではなく救助されたのだが。ネコたちの中ではウミネコの体験はそういうことで処理されているから仕方ない。
「そうでなくても女の単独行動は危険だというのに…」
「気をつけます」
目を伏せてそう告げた。あまり親しくはなれなさそうだ。
勝手に親しくなれると勘違いしていたのかもしれない。その顔に親近感を覚えて、彼みたいに不安を相談できるようになるかもしれないと、期待していたのかもしれない。何故なら彼が似ていたから、彼にもそれを期待して実際にシュセキはよく……。
『誰が』似ていたって?
ウミネコは顔を上げた。女はまだ説教を続けている。怖い顔で真剣な眼差しを自分以外のどこかに向けて、しかし本気で心配してくれているその姿を、ウミネコはかつて見たことがあった。
何故シュセキとは親しくなれると期待したのか。何故夜汽車に乗車してすぐ、シュセキには警戒心を解いたのか。ナナだってジュウだってジュウゴだって親切だったのに、何故自分は一番にシュセキを頼ったのか。
似ていたのだ、シュセキが彼女に。
―こんどはウミがあそびにいくね!―
父親同士の仲が良かったから、父親に連れられて頻繁に互いの駅を行き来していた。
―そしたらわたし、『せんろ』までむかえにいってまってる!!―
そう言って手を振っていたのが、最後に見た姿だった。
その直後に彼女は突然姿を消して、その兄の葬儀にウミネコは参列させられて、
―ウミちゃん!―
自分をそう呼んでいた、ワシの駅にいた年近いあの子は、
「……ツミちゃん」
説教が止まる。息使いさえ聞こえない。女は左手で右肘のあたりを握りしめていたが、やがて観念したように強張っていた肩を落とし、左手も下ろした。
女が顔を上げる。シュセキによく似たその顔をウミネコはじっと見つめる。突如として思い出された記憶が後から後から沸き出てきて、頭痛さえ覚えながらウミネコは瞬きも忘れて女を見つめる。
「ツミ…ちゃん?」
「……ひさしぶり、ウミちゃん」
懐かしい顔が微笑んだ。