3-205 ヤマネコの遺言
シュウダの号令で宴の席が設けられた。ネコの女たちの長旅を労い、歓迎会は盛大に行われた。
懐かしい顔ぶれにシュウダも酒が進み、すっかり上機嫌だ。ヘビとカメの男たちも負けず劣らずで、普段は堅物のヒバカリまでもがこの時ばかりは嬉しそうだった。
スッポンを除くリクガメ班はウミネコを質問攻めにした。不可能に近いと思われていた目標を達成した仲間の話で大いに盛り上がり、クサガメが先三日分の食事を取り返そうと、必死に兄を説得して爆笑をさらっている。
やがてシュウダに呼ばれてウミネコはその場を去ったが、イシガメはイタチと気が合ったらしい。最初の警戒心はどこへやら、すっかり気を許してお喋りが止まらない。クサガメはツキノワグマとアナグマに遊ばれている。真っ赤な顔は酒のせいだけではないだろう。ヤマカガシも複数のネコを一挙に相手して幸せそうなことこの上なく、アカマタは再婚相手を探しているようだ。タカチホヘビはものすご頑張っていて、下心を隠しきれないセマルハコガメは手当たり次第に話しかけていたが、最も多くのネコの女たちを侍らせていたのはリュウキュウヤマガメだった。
面白くないのはヘビとカメの女たちだ。上機嫌の男どもから酒や肴をねだられて、断る理由もないからと聞いてやればいつの間にか給仕として使われている。シマヘビはわざとイシガメの足を踏み、アオウミガメはセマルハコガメを侮蔑し、サキシマハブたちは負の雰囲気を発しながら無言で酒を飲み続け、キクザトサワヘビに至っては早々に部屋へと帰って行った。
「まさかウミちゃんがテンさんたちと一緒におったとはのう」
シュウダはウミネコを隣に置き、旧友の娘に目を細める。
「偶々だよ。この子がネズミに絡まれてたとこをほんとにたまたま」
笑いながらテンは猪口を口に運ぶ。
「ほんっとあんたは運が良かったよねえ」
ジャコウネコがウミネコを肘で突き、ウミネコは遠慮がちに笑った。
「ウミ、あんた親のこと聞きたかったんじゃないのかい?」
テンが猪口を口元から下ろして、ウミネコに言う。
「カモメちゃんのことけ?」
シュウダは言いながら目を細め、
「カモメちゃんには世話になったが。ウミちゃん、お母さんにそっくりやちゃ」
嬉しそうに破顔した。しかし、
「あいつとおんなじこと言うんだね」
テンが呟き、シュウダが笑顔を一瞬潜めてそちらを見る。
「そんなにそっくりなんですか?」
ジャコウネコが言ってウミネコを見たが、
「やめて」
ウミネコは不機嫌そうに目を伏せた。その様子にシュウダは目を瞬かせる。
場の雰囲気を悪くしたことに気付いたウミネコは慌てて取り繕い、「父のことを聞きたかったんです」とシュウダに向かって顔を上げた。
「アホウのことけ」
言ってシュウダは再び笑顔に戻る。ウミネコは頷き、
「姐さんがとても父のことを褒めていたんです。誇らしかったんですけど私、あまり覚えていなくて……」
俯きがちにはにかみながら、母が話題の時とは打って変わって嬉しそうな顔を見せた。
「長い片思いだったしねえ」
テンが手酌しながらぼやくように言った。隣からシュウダは徳利を差し出す。
「片思い?」
ウミネコは怪訝そうな顔を上げた。「姐さんが?」
「あいつあんたに何話してたの?」
今度はテンが怪訝そうに身を乗り出す。シュウダは行き場を失った徳利を黙って下ろす。
「何って、」とウミネコは困った顔をして、
「『すごくいい男だった』って。最初は姐さんが父といい仲だったのに、母がその……、奪って行ったって…」
最後まで言う前にウミネコは口を噤んだ。テンやヒグマが腹を抱えて笑い始めたからだ。
「ちょっとあいつ! どんだけ強がってんだか!」
「らしいっちゃらしいけどさ!」
ウミネコは年長者たちの馬鹿笑いの理由がわからず、ジャコウネコに助けを求める。ジャコウネコは居心地悪そうに顔を背けながら、「姐さん、けっこう話を盛るとこあったからさ……」と曖昧に言葉を濁した。
「話を盛るって?」
ウミネコはジャコウネコに尋ねたが、
「嘘だよそれ!」
ヒグマが代わりに答える。
「嘘?」と目を見開いたウミネコに、
「あいつはあんたの父親とつきあってたことなんてないの」
テンが真相を口にした。
「あいつはアホウドリさんのこと一方的に好きだっただけだよ。あんな性格なのにアホウドリさんの前だと何にも話せなくなってさ。だいたいアホウドリさんにはまるで相手にされてなかったし、あんたの両親の間にはあいつがつけ込む隙なんて全くなかったのに」
「でも姐さんが…」
「ウミは素直ないい子だねえ!」
酒臭いヒグマがげらげらと笑いながらウミネコを撫で回す。抱きつかれながらウミネコは、
「だったら姐さんの話してた『男』って……」
そこでネコの女たちは一様に口を閉じ、その輪の中で唯一の男を指差した。ウミネコは憮然として酒を飲み続けるシュウダを二度見する。
「シュウダさん?」
「……あいつ、俺のこと何やと思っとったがけ……」
シュウダが拗ねたように呟くと、
「黒歴史だね」
言ってテンが笑い飛ばした。
宴会場の他の輪の者たちが一斉に振り返るほどに巻き起こった爆笑の中で、ウミネコだけが肩を落とす。
「なんだ……」
姐さんがお父さんと付き合っていてくれればよかったのに。
自分の母親がヤマネコであればよかったと夢見ていたウミネコは、周囲の目も憚らずに落胆した。
父のことはあやふやだが記憶がある。優しかった。大きかった。繋いでくれた手が温かくて自分を見下ろす目が大好きで。
だが母は、
―行きなさい―
ウミネコは身震いした。
「ウミ?」
ジャコウネコがウミネコに声をかける。
「ごめんなさい。少し地上の風に当たってくる」
立ち上がったウミネコに、「気を付けなよ」とネコたちは声をかけるばかりだ。
「おい! 誰か付いてってやられ!」
シュウダはヘビとカメに向かって声をかけたが、男たちは夢見心地の有頂天だ。野太い中年男の声に耳を貸すはずがない。ネコの女に親切にしたがるヘビとカメの女はおらず、駅の頭首に誰も返事をしない。
「ったく…」
呆れて腰を上げかけたシュウダだったが、確かな足取りが視界の端を横切った。
珍しく素面のトカゲがウミネコの後を追って行った。
ウミネコのことはトカゲに任せて、シュウダは腰を下ろす。
向こうでは若い連中が騒いでいる。イシガメの腹踊りとタカチホヘビの不馴れな必死さが笑いを誘い、ジャコウネコたちもそちらに加わって、いつのまにか座は静かになっていた。自然にお膳立てされていた席で、シュウダは胸いっぱいの息を鼻から吐き出す。
「元気そうで何よりやちゃ」
「本気でそんなこと思ってんのかい?」
シュウダが呟くと、テンは鼻で笑って酒をあおった。
「いつけ」
テンは横目でシュウダを見た。男の目は楽しげな輪に注がれている。真っ赤な皮膚に刻まれた深い皺と斑な頭髪。自分も老いて当然かと鼻で笑った。
「去年の秋口にね」
話し始めたテンをよそに、シュウダの目はじっと若者たちを見つめている。
「例の病だよ。最期は立つこともままならなかった」
シュウダは空の杯に視線を落とした。目の前を元気な足音がばたばたと走り去り、底に残った水滴がふるふると震えて、止まった。
「もう少し早よう来られんかったがけ」
その言葉に込められた感情をテンはひしひしと感じた。弄んでいた猪口を床に置き、酒瓶に手を伸ばす。それから両手で抱えこむようにして持ったそれを見下ろした。
「あいつの意志だった」
「動けん体でほっつきまわることがか」
「意地ってもんもあるんだよ」
シュウダはそれ以上何も言わなかった。
治したかったのだろう。無言の空気からテンは男の思いを感じとる。自分なら治せると考えていたのかもしれない。いや、もしかしたらそんな自信などなかったかもしれない。
それでも何かしたかったのだろう。何も出来なくてもそばにいたかったのだろう。
だがヤマネコはそれを望まなかった。この男のそばにいれば自分が重荷になることを知っていたから。耐えられなかったのだろう、テンはそう思う。見せたくなかったのだろう、と。
したいこととされたくないことが丁度悪く重なってしまった、そういうことなのだろう。
「あいつから伝言を預かってる」
テンは酒瓶の口をシュウダの方に向けた。シュウダはちらりとテンを横目で見る。テンは黙ってその目を見据える。やがてシュウダは猪口を手にすると黙って突き出し、テンが待ちわびたように酒を注いだ。
「『セッカの話は続いてる』」
シュウダが完全に顔を向けた。
「ここを目指し始める少し前だ、うわ言みたいに言い始めた。あたしが思い出せる限りじゃ多分、本線を出た後だったよ」
テンは酒瓶を立てた。シュウダは猪口を持ったまま固まっている。
「あんたならわかるんだろ?」
「塔……、セッカ…?」
「あいつとセッカの繋がりなんて寄り合いの時くらいだ。あんたに託すってことはあんたも知ってることじゃないのかい」
シュウダは同じ単語を何遍も繰り返しながらじっと一点を凝視した。先の長の残した暗号を解読するにはしばらく時間がかかるらしい。テンは立ち上がるとヘビの男に寝床の場所を尋ねた。
「今日は先に休ませてもらうよ。何かわかったら起こしに来な」
シュウダは返事さえ満足に寄こさない。テンはため息を吐く。
「あんたも早く寝なよ。深酒は老体にこたえるわ」
そう言い置いて立ち去ろうとした時、
「本当かい?」
「そうだって。感謝しろよ?」
若い連中の会話の中から飛び出した単語に、はたとテンは振り返る。
「忘れてた、もう一つ。『あたしも感謝する』だってさ」
シュウダががばりと顔を上げた。しばらく驚いたような目をしていたかと思うと、途端に馬鹿笑いを始める。その声量にテンは眉をひそめた。
「こっちの方はすぐわかったんだね」
声をかけているというのにシュウダはこちらを見向きもせずに、膝を叩いて笑っている。そうけ、そりゃあよかった、などと言って心底楽しそうだ。
「何なのさ」
「お袋さんと仲直りしたんやろ」
テンにはわからない答えを呟くと、シュウダは顔全体で笑いながらようやく猪口を口に近付け、一息でそれを飲みほした。
*
宴もたけなわの席を後にして、シュウダはふらふらと通路を歩く。
いい気分だ。久しぶりに美味い酒だった。鼻の奥がつんとしてきてしばし立ち止まり、天井を仰ぐ。美味い酒だったのだ。一滴もこぼしてはいけない。
部屋の扉を開けると、暴風雨さながらの甲高い声と罵声が飛び交っていた。子どもたちがあっちで走り、こっちで泣き、そっちで転んではまた声が上がる。
「父ちゃん!」
トビヘビが叫んだ。かわいらしいが面倒臭くて手に負えない小さな顔が一斉にこちらを向いたかと思うと、我先にと飛び付いてくる。
「おかえり~」
「こっち! これみて、これ!」
「クロね、きょうね、おかあちゃんにほめられたんやぜ」
「『客』はいいの? ジュウゴまた来るの?」
「見て! 父ちゃん、見てこれ」
「だってね、クロね、ちゃんとおてつだいしたからね…」
「父ちゃん、父ちゃんってば!」
「兄ちゃんがたたいたあ!!」
四方八方から浴びせられる総攻撃にもシュウダは笑顔で頷きながら、右から順番に抱きかかえては話を聞くふりをして相槌を打つ。一番甘えん坊のクロウミガメを最後にするのは、一度抱きあげたら下りなくなるからだ。
「そしたらね、クロがね、」
「父ちゃん、これこれ…」
「うるっさい!!」
ヒメウミガメの雷が落ちた。一瞬でしんと静まり返る。
「いつまで騒いでんのさ! 歯磨きは……まだ終わってないのかい!? 咥えたまま走るんでないって言ってるべさ、トビ!」
「な、なー! 違うが…」
「スジ!」
クロウミガメが名残惜しそうにシュウダから降りて、スジオナメラが弟妹たちを子供部屋に連れていく。イワサキセダカヘビが扉の前でふざけてシュウダが笑うと、ヒメウミガメがじろりと睨んできた。シュウダと三男は目顔で相槌を打って、扉が閉まる。
「まだいいにか」
「子どもは寝る時間!!」
シュウダは適当に返事をしてどっかりと腰を下ろす。
「ヤエは? もう寝たが?」
「お陰様でたった今、もう寝たわ」
皮肉を吐き出すとヒメウミガメも腰を下ろし、大きくため息を吐いた。
「嵐だわ、ほんとに」
「にぎやかでいっちゃ」
「明日スーのとこ手伝ってこようと思うんだけど泊ってきてもいい? あの子たちのことお願いね」
「……申し訳ありませんでした」
ヒメウミガメの眼光にシュウダは平身低頭謝罪した。ヒメウミガメはまた息を吐くと、右手を肩に置いて首をぐるりと回す。シュウダは流れるように妻の後ろに行き、凝り固まった肩を揉み始めた。
「後で代わる?」
「なーん、いっちゃあ」
「そう? あーそこそこ!」
嬌声に近い声をあげながら、ヒメウミガメの眉間の皺は伸びて行く。すっかりほぐれた顔になると声だけは深刻になって、
「……ネコは?」
子どもたちには見せない目付きで言った。
「味方には違いない思います。向こうも目的は同じや、心配せんでください」
「何て言ってきました? 何か要求とかは…」
「詳しくは明日です。本線まで出張っとったいうがは読み通りでしたわ。とりあえず情報はかなり持っとりそうやし」
「ちょっと!」
ヒメウミガメは慌てて、伸びてきたシュウダの手を払おうとした。しかしシュウダはしつこくヒメウミガメに纏わりつく。
「だめ」
小声でヒメウミガメは夫を止めようとしたが、
「いいにか」
「ヤエにおっぱいやらないと」
「俺には?」
「ばか」
結局いつものように受け入れる。
ヒメウミガメの眉間に再び皺が寄る。夫の口付けに目を閉じる。だがしばらくすると目を開き、ぐるりと振り返った。
「こぼさんようにしとったがやけど……」
手を止めて自分に覆いかぶさったまま、夫は項垂れている。
「シュウダさん?」
返事もしない。
声も無く小刻みに震える夫を見つめていたヒメウミガメはやがて正面を向き、黙ってその頭をそっと撫でてやった。
2章11話からの続きでした。