15-198 忘れもの
雷のような猛吹雪のような、夏の昼間の太陽のような暴力的な背中が出て行くのを見計らって、ジュウゴは息を吐いた。
とりあえず生きていることは許されてよかった。あの男から逃げきる自信はなかったから、とりあえずは良かった。
しかしあんな理不尽で一方的な宿題を押し付けて来たのだ。あの男だって僕のお願いを聞いてくれてもいいじゃないか。そうジュウゴは思ったから思い切って口に出してみたのに。
今回もまた、名前はもらえず終いだった。
挙げ句の果てには、
―二度と俺を名前で呼ぶな―
あんなに怒られるとは想像もしていなかった。
「なら何と呼べばいいんだよ……」
ジュウゴは眉をひん曲げながら頭を掻く。コウは『おにいちゃん』と呼んでいたからジュウゴもそう呼んでみればそれはそれで怒鳴られたし、名前で呼んだら叱られた。だが『おにいちゃん』と呼ぶなとは言われていないから、
「おにいちゃん……」
そう呼ぶしかない。
「おにいちゃんはどこに行ったんだ?」
ジュウゴは頭を掻いていた手を下ろしてシュセキに尋ねた。シュセキは先から机に向かって、何やら作業を続けている。
「僕もそれは長らく疑問だった。だがつい先刻、ワンが教えてくれた。彼はいつも東からやってくるがその先に彼の居住場所があるそうだ」
ワンは言葉を話さないよ……、と思いながらもジュウゴは鼻で返事をしておいた。
「君はこれからどうする」
全くこちらを見ずにシュセキが言う。
「目的も無くここにやって来たから目的も無くここに居座るか」
「だからそういう言い方やめろよ!」
ジュウゴは喚いた。
「目的があることがそんなに偉いのか?」
「無目的に彷徨うことに意味はあるのか」
口でシュセキに敵う訳が無い。ジュウゴはむっとしたまま肩を竦めた。
「それで、どうするつもりだ」
「何がだよ」
「十秒前のことを忘れる癖をそろそろ直せ。君のこれからのことを話している」
言ってシュセキは、雑多な物で埋もれた引き出しの中に手を突っ込んだ。
「僕のこれからって……。君こそこれからどうするつもりなんだ?」
ジュウゴは真顔になって尋ねる。
真面目な問題だった。こんな誰もいない寂しいところで、ジュウシの死を理解せずに死んだ体に向かって独りごちて来た日々を思うと居たたまれない。
「僕はここでやることがある」
しかしジュウゴの懸念をシュセキはあっさりと払いのけた。「やること?」とジュウゴが首を傾げる。
「ここは非常に興味深い場所だ。かつてここで寝食をしていたというイヌマキの思考が特に面白い。彼の研究は植物を地上で増やしていくことだが、それ以外にも様々なことをしていたらしい」
「植物を地上に!?」
ジュウゴは驚いて身を乗り出した。それからコウの話を思い出す。
―お父さんは地面の上で植物を育てようとしてたの―
ジュウゴはシュセキの背中を見つめた。
「研究はかなり進んでいたらしい。しかし完成前にイヌマキは動かなくなった。その後はワンがコウと共に研究を続けたみたいだが成果は出ず、クマタカが僕に後継を託した」
シュセキはイヌマキの研究を引き継いでいる。
「完成するのか?」
ジュウゴは尋ねる。
「それは知らない」
シュセキは答える。
「完成しないのか!?」
ジュウゴは顔を突き出す。
「しないとは言い切れない」
シュセキが眼鏡の上に保護眼鏡をかけた。
「どっちなんだよ!!」
ジュウゴが声を荒らげる。シュセキは机の上で溶接をしながら、
「まだ途中段階だ。結果が出る前に成否を問われても答えられるわけがないだろう」
当然だと説き伏せた。ジュウゴは唇を尖らせる。
尖らせた唇を元に戻して微かに頷き、
「出来れば完成させてくれないか」
シュセキに頭を下げた。
「何故だ」
シュセキが保護眼鏡を外す。「あの研究が君に一体どのような得をもたらすというのだ」
「得とか害とか損とかじゃないんだけど、」
ジュウゴは頭を掻いていた手を止めて、
「コウがきっと喜ぶから」
何となくだがしかしきっとそうだという確信を持って、ジュウゴはシュセキに依頼した。
シュセキは肩越しにジュウゴの項垂れた頭を見下ろしていたが、「別に君のためじゃない」と言って椅子から立ち上がった。
「後ろを向け。導線が切れたままだとその暗視鏡も使えないだろう」
珍し過ぎる気遣いにジュウゴは驚いて顔を上げる。
「そうなんだよ」
言いながらジュウゴは切られた導線の先端を触った。
「君、直せる?」
「繋ぐだけだ」
当然だと胸を張ってシュセキは顎で促した。
「先の話だけど、なんでここでアイを使わないんだ?」
導線を繋ぎ合せてもらいながら、ジュウゴは背後のシュセキに尋ねる。
「クマタカの提案だ。僕も賛同した」
シュセキは答える。
「彼はアイが嫌いなのか?」
シュセキはため息をつく
「彼に確認していないのか?」
ジュウゴは振り返ろうとしたが、「前を向け」と不機嫌顔に睨まれて渋々前を向く。
「だってアイが無いと何かと不便だろう? 電気がつかないわけじゃないだろうし」
言いながらジュウゴは右の黒目だけで天井を見遣る。夜汽車を彷彿とさせる照明具が、暇そうに埃をかぶっていた。
「君はアイがなくて平気なのか?」
ジュウゴは他の照明機器を探しながらシュセキに尋ねたが、
「むしろ快適だ」
思わぬ答えが返ってきて、驚いて振り返った。
「あ、ごめん繋いでくれている最中……じゃないじゃないか! 何をしているんだよ、君は!!」
切られた導線を繋ぎ合せてくれているのだとばかり思っていたが、そんな作業はとうの昔に終了していたようだ。それどころか後頭部から何かがぶら下がっている。ジュウゴは上半身を傾け右手を伸ばし、その物体を確認しようとしたが、
「動くな。前を見て座っていろ」
シュセキの勢いに飲まれて、されるがままに固まった。
頭に若干の重みを加えられた後で、今度は左腕を持ち上げられる。「自分で上げていられないのか」と理不尽に叱られながら。義眼の修理が終わったらまとめて不平を言ってやる、とジュウゴは唇を尖らせた。
ジュウゴの左手首に無断で何かを巻きつけたシュセキは、見上げてきたジュウゴを見下ろして、
「その暗視鏡を起動させろ」
いつもの口調で指示を出した。
「だから嫌だと言っただろう! あの炎が眩し過ぎると何度も…」
憤ってからジュウゴは思い出し、
「この中で電源を入れたらおにいちゃんに怒られるじゃないか!!」
咄嗟に過ぎった怖ろしさに全身を震わせた。
「誰がここで電源を入れろと言った」
声の方に振り返ると、いつの間にかシュセキは地上に続く扉の前に立っていた。「早くしろ」と言い捨てて屋外に出て行く。
「ちょ、と待ってって、シュセキ!」
ジュウゴは床に手をつき立ち上がって、シュセキの後を追った。
*
シュセキに促されるまま砂丘を二つ越えた。落ち窪んだ地形に至り、ようやくシュセキは足を止める。
「起動してみろ」
息を切らせながら言う。体が右側に傾いている。義足で砂地を歩くことは彼にとっては難しいことなのかもしれないとジュウゴは気付く。
「君、大丈夫か? 脚の接続部分とか痛くない…」
「早くしろ」
気遣いを無下にされてジュウゴは唇を尖らせ、乱暴に義眼の電源を入れた。
すぐに赤い粒子が現れる。自前の視界の中で動く物だけが赤く色づく。シュセキ以外の何かが動いていることに気付いてジュウゴが顔を上げると、遅れてシュセキもその視線の先を見遣った。
「ワン!」
おにいちゃんを追って行ったワンが、今度は自分たちの方に向かって歩いて来ていた。
「何故ワンだとわかった」
シュセキが目を見開いて尋ねる。ジュウゴはその質問の意味を理解するのに数秒を要し、「ああ、君は見えなかったのか」と納得した。
困惑するシュセキが少し面白くて、ジュウゴは得意気に義眼を触る。
「右目では見えなかったよ。でも左目だと動く物が赤く見えるんだ。だから君以外で何かが動いているのがすぐわかったし、形と背の高さからワン以外にいないとわかったんだよ」
「暗視鏡ならば当然だな」
しかしシュセキの驚きは既に冷めていたらしい。期待が外れたジュウゴは気恥かしくなる。
シュセキは上着を探ると何かを取り出た。端末のようだ。ジュウゴが見ている前でそれの電源を入れ始める。
「まぶしいと言っているじゃないか!」
ジュウゴは慌ててシュセキに背を向けたが、その先で自分の左腕に巻かれた小型の機械のことを思い出した。小さな文字盤が並んでいる。一から〇までの数字と、四則演算の記号や米印などもあるが画面は無い。見慣れない機械だ。端末の一種だろうか。
「シュセキ、これ何…」
尋ねかけて振り返り、シュセキの手の中の端末の光に右目も閉じて背を向けて、遅れて義眼を手の平で覆って蹲る。
「だから義眼の電源を入れている間はそういう光は…!」
「何か入力してみろ」
「え?」
シュセキの言葉が意味不明で、ジュウゴは義眼を手で覆いながら振り返った。
「入力って?」
「先に巻いてやっただろう。左腕の機械だ」
ジュウゴは義眼の保護を右手に託し、左手を見下ろす。
「画面が無いし光らないからそれなら見ていられるだろう」
シュセキの思わぬ気遣いに少なからず動揺した。
「でも数字と記号しかないよ? 入力すると言ったって一体何を……」
「クマタカが言っていただろう。暗号だ」
「『はんごう』を? これで?」
「いいから何か打ってみろ」
ジュウゴは言われるままに『一』を押してみた。
「『一』。どういう意味だ」
驚いてジュウゴは顔を上げる。そして慌てて下をを向ける。
「なんで? 通信…?」
「君が何か入力すると僕の端末に届くようにしておいた」
「何してくれてるの!?」
「暗号を素早くやり取りするためだ」
すぐそばにいるのにこの作業は必要なのだろうか。
「……あのさ、義眼の電源を切るから普通に話さない?」
「今はそう出来るが距離が開けば声も届かなくなるだろう」
「そんなに離れずに話せば済む話じゃないか」
「そうもいかないだろう。君は何かを探していたのだろう?」
ジュウゴは義眼を覆ったまま首を傾げて、シュセキを見た。
「探している? 僕が何を?」
「僕が知るはずないだろう」
シュセキに訝られてジュウゴはますます混乱する。
「だったら君はなんでそう思ったんだよ」
「ワンが教えてくれた」
言ってシュセキは足元を見下ろした。見るとワンがシュセキの膝のあたりに寄り添っている。ワンは言葉を話さないけれども、
「ワンが何て?」
ジュウゴはシュセキに尋ねた。
「君はいつも何かを探している、と」
僕はいつも何かを探していたのか? ジュウゴはワンを見つめて考えたが、ああ、と思いだして納得した。
「サンを探していたんだよ。でもサンは見つかったじゃないか。ナナとも話せたしハチも見つけたし君とだってこうして会えたんだから他に何を…」
言いかけてジュウゴははっとして、
「ジュウイチ!!」
そうだ。すっかり忘れていた。