15-197 暗号
「彼に『声を出すな』とか『確認業務を怠るな』とか、そんな高等技術を要求することは限りなく不可能だ」
マツは夜汽車の義眼男を白い目で蔑みながら眼鏡を押し上げた。高等技術というほどでもないとクマタカは思うのだが。
「ぼ、僕にだってそれくらい…!」
「何か案があるのか」
クマタカは雑音を無視してマツに意図を尋ねる。マツは眼鏡を押し上げる手から覗く口元を微かに持ち上げ、
「『会話』でなければいいだけだ」
秘策を語り始めた。
「ジュウゴが注意を怠らないことは不可能だし、難解な規則を理解し守ることも不可能だ。つまり彼が注意を払う必要がなく、なお且つ彼でも理解可能な単純極まりない簡易な情報交換手段を採用しなければならない」
「結局君は何が言いたいんだよ」
マツの横で夜汽車の男は不服そうに唇を尖らせている。理解力が低くても散々こき下ろされていることは肌感覚でわかるらしい。
「君の声も会話もアイに全て聞かれてもいいということだ。但し一定の決まりに則ってもうら」
「つまり?」
自信満々のマツの秘策にクマタカも期待を募らせたが、何のことは無い。平たく言えば、
「……それは暗号と言ってだな、」
ごくごくありふれた作戦だった。
優れた頭脳は突飛な発想で多くの技術を生み出すが、それが斬新な発明か既存の道具かを判断するのは知識だ。マツの頭脳はクマタカも一目置いているが、知識については残念と言わざるを得ない。
マツの発見は既に実用化されている手段だとクマタカが説明している間に、マツの表情は目に見えて拗ねていった。
「でもその『あんこう』が使えるものだということに変わりは無いですよね?」
マツを庇うように夜汽車が隣で言う。発言の際に挙手するのはこの男の癖か何かなのだろう。そして、
「『あんごう』だ」
クマタカは男の滑舌の悪さを指摘する。しかし男は「は、『はんごう』?」などと言って首を傾げた。男は頭だけでなく耳もよくないらしい。外で米でも焚いていろ。
「そうだ。使えれば問題は無い」
マツも立ち直って不遜に言う。頭脳はともかく性格はつくづく子どもだ。クマタカは元夜汽車の末っ子気質に息を吐いた。
義眼の電源が入っている間の会話は全てアイに筒抜けと仮定して、大事なことだけでも暗号で伝えようという流れで話は進んだ。
「大事なことって例えば具体的に何ですか?」
夜汽車が右手を挙手して言う。「マツに話すべきこと全てだ」とクマタカが言うと、夜汽車は情けない顔を向けてきた。
「そもそも『はんこう』ってどういうものなのですか?」
先の説明でもまだ分かっていないらしい。クマタカは大きく深い息を吐く。
「単語や記号に別の意味を持たせ、第三者には意味が不明だと捉えられる文章を作ればいい」
マツが簡潔に説明し直したが、
「例えば?」
歪な顔面の男はやはり首を傾げるのだった。
「例えば、ワンを『くろ』、走るを『そう』と決めておく。『ワンが走った』と伝えたい時はこれを使って『くろそう』と表せばいい」
クマタカが具体例を挙げると、例えに使われたワンが見上げてきた。
夜汽車の男はようやく理解出来たのか、感心したように何度か頷いたが、
「それは駄目だ」
マツが否定した。
「そんな単純なものではすぐにアイは解読する。もっと複雑かつ不規則に、加えてジュウゴにも理解出来る簡易な手法でなければいけない」
面倒くさい。
「ならば五十音に数字を振るのはどうだ」
クマタカは身を乗り出して提案し直す。
「あ行から順に一、二、三、段にも同じように一から五の数字を振って、その組み合わせで文章を作る。例えば『ワ、ン』なら『十一、十五』、『は、し、る』は『六一、三二…』」
「駄目だ。秒でアイに知れる」
せっかく丁寧に説明したのに。クマタカはむっとして唇を結んだ。
指を折りながら「あ、か、さ、だから三で、さ、しは二で…」と既に却下された案をこねくり回していた夜汽車は、頭の中では数え切れなくなったらしく、埃を指でなぞって床を覚え書き代わりに使い始めた。掃除を怠るな、とクマタカがマツを注意しようとした時、
「あ!!」
夜汽車が大声と共に顔を上げた。
「ねえ、これどうかな?」
言うと夜汽車の男は床の上の埃を指差す。
「『三』と『三』で『み』『み』、『耳』と読めるだろう? 数字で言葉を作るんだよ!」
夜汽車の男は世紀の大発見をしたかのように目を輝かせて言ったが、
「それは語呂合わせと言ってだな、」
クマタカは再び常識を説明する羽目になる。
「いいと思ったんだけど……」と意気消沈する男に向かって、
「駄目に決まっているだろう。既存だろうと新しかろうとそんな単純なものはアイの目を欺くには稚拙すぎる」
マツが追い打ちをかける。
ぶつぶつと口を尖らせながら床の上の埃を指先でいじっていた夜汽車の男は、再び下らないことを見つけたようで、
「ならこれは?」
再び意気揚々と顔を上げてクマタカたちに目を凝らさせた。
「この『+』と『=』って並べて書くと平仮名の『た』に似ていない?」
クマタカとマツは非常に読みづらい埃の文字を睨むように見る。角度を変えて覗きこめば確かに見えないことも無く、その横で夜汽車は興奮しながら続ける。
「数字とか漢数字とか記号とかを組み合わせて文字に見立てたりしていくのはどうかな?」
「例えば?」
クマタカが言うと夜汽車は大きく頷き、
「例えば、『た』は『+』と『=』で、『い』は『1』と『1』で、『こ』は『=』だったり『二』だったり『一』と『一』だったり…」
「一つの文字を表すのに何通り用意するつもりだ」
クマタカが呆れて止めると、
「別に用意しておかなくても、その時そう見えた物で表現すれば良くないですか?」
暗号を感覚でその都度作りだせと夜汽車の男は言う。
「例えば『〇』『〇』で『ワンが走った』とか」
「どうしてそうなる」
男の発想が全く以て理解出来なくてクマタカは唖然とする。しかし男は楽しげに「さっき言っていた『ごろごろ合わせ』です」と言った。
「『〇』って『輪』でしょう。だから『〇』は『わ』、『ワン』!」
『ん』はどこからやって来た。
「それに『〇』って丸だからこう、回っている感じしませんか?」
言いながら男は指で円を描きつつ、
「『わん』が『丸』、『回る』、『走り回る』って感じで!」
およそ共有できない感覚をクマタカに押し付けてきた。
「それは…」
愕然としてクマタカは否定しかけたが、
「それで行こう」
マツは夜汽車の男に賛同した。案が採用されて夜汽車は跳びあがらんばかりに喜ぶ。
「正気か」
その横でクマタカはマツを凝視した。
「その都度意味が変わる数字とその都度形を変える記号だぞ。アイは解読に手間取るかもしれないが、お前も解読出来ないだろう」
クマタカは元夜汽車たちの意思伝達手段の取り決めを心配したが、
「彼が考えつく程度の問題を僕が解けないとでも?」
クマタカの心配は自信満々に払われた。クマタカはマツの自己評価の高さに絶句する。そのクマタカだけに聞こえるように、
「それに反対に彼の不規則な思いつきの方が、アイを欺けるかもしれないだろう」
マツは眼鏡を押し上げながら尤もらしい理由を付け足した。
「お前に任せる」
言ってクマタカは立ち上がる。頭を使うことに関してはその方がいい。
「夜汽車、」
クマタカは夜汽車の男に呼びかける。
「例の件をよろしく頼む」
男に釘を刺して背を向けた。
「おにいちゃ…!」
呼びかけかけて、その呼び方は駄目だと気付いて、夜汽車の男は挙動不審に目を泳がせる。「何だ、それは」と訝るマツに、男はクマタカを指差しながら目配せした。
「クマタカか?」
マツが言うと男は頷き、再びクマタカを見上げてきた。
「ええと、クマタカ?」
何故か異様に腹が立つ。
「質問……じゃない、ええと、お願いいいですか?」
「駄目だ」と言いたかったが、命じた件についてのことならば聞いておかねばなるまい。クマタカは背中越しに顎をしゃくる。男は怯えながらも照れくさそうに、
「僕は名前をもらえないんですか?」
「何故お前にそんな物をやらねばならない」
ほぼ本気で憤っていた。この男はつくづく相手を苛つかせることが特技のようだ。
「だって、クマタカはシュセキにはマツって名前をあげていたから…」
「お前に呼び捨てにされる筋合いはないッ!!」
本気で怒鳴ってしまったクマタカに対して、「『よび…』?」と知らない単語に首を傾げる男。馬鹿に腹を立てても仕方ないと気付きながらも、クマタカの苛立ちは収まらなかった。
「二度と俺を名前で呼ぶな」
それだけ言い置いてクマタカは研究所の扉を乱暴に開けた。ワンが立ち上がり、クマタカの脚に寄り添うようにして後を追った。