15-190 心配
一年半ぶりの更新なので作者も忘れていたここまでのあらすじ
ワシとネコの襲撃に遭ったヤチネズミは、ハツカネズミ隊とも保護した夜汽車の子どもたちともはぐれて迷子になっていた。しかしそこで、元部隊員のオオアシトガリネズミと再会する。
塔にいた頃、地上での活動に参加し始めた頃の日々を思い出すヤチネズミに、オオアシトガリネズミは最近の塔の様子を話し始める。ネズミたちは皆、地上の環境に耐えるべく、『薬』で心身を強化されているが、最後に見たハツカネズミの体の異変は『薬』の副作用によるものだというのだ。それは同時に死期が近いことも意味していた。
一方、ヘビとカメの駅を発ったジュウゴは、散り散りになった夜汽車の仲間たちを探していた。ナナ、サン、ハチとの再会を果たしたジュウゴはワンと共に研究所へと戻ってくる。そこにいたのはジュウシの遺体と過ごすシュセキと、コウが「お兄ちゃん」と呼んでいたワシの頭首のクマタカだった。
「ワンもきっと耐えられなかったんだと思います、僕だってそうだった。だから彼は…僕たちはコウを……」
最後の言葉を濁してジュウゴは口を噤んだ。最後まで話してしまえば、再び男に激昂されないかと怯えたからでもあるが、自分自身が単に聞きたくなかったのも事実だ。上目遣いで正面を窺う。件の男の横顔を覗きこんでいるワンが目だけでこちらを見る。ジュウゴは意味も無くワンに頷いて見せて、その横で項垂れる男を改めて窺い見た。
「あの……」
男は無言だ。胡坐の上に肘を付き、両目を両手で覆ったまま微動だにしない。
「お、おにいちゃん?」
「誰がお前の兄だ」
啜り泣きでもしているかと思っていたのに予想に反して男が乾いた声で答えたから、ジュウゴはつんのめりそうになる。慌てて姿勢を正して必死に考えを巡らせて次に言うべき言葉を探すが、ジュウゴの脳は彼の希望通りに働いてくれることはまずない。結果、無意味な音が無様に動く唇の端から漏れ出るだけだ。
男は目元を覆っていた手を下ろすと、憔悴しきった顔をワンに向けた。ワンが鼻を鳴らす。やり取りを見守っていたジュウゴは顎を引いて下を向く。
男に求められた通り、ジュウゴはジュウゴが知る限りのコウに関する事実を詳細に伝えたつもりだ。おそらく男も自分の話を理解してくれたと思う、多分。出来ることはしたのだ。後は男の結論を待つしかない。自分のしてしまったことを許してくれるか、自分がこのまま生き続けることを許してくれるか否かを。待つしかないと思いながらも、男の答えが『否』だろうことをジュウゴは既にどこかで気付いていた。だから、
「辛かったな」
男にそんな風に言われた時、ジュウゴは物凄く驚いたのだ。喉が締めつけられて目頭が熱くなり、苦しさを覚えてようやく息を吐き出した。
まさかそんなことを言われるだなんて思っていなかった。つい先まで自分を殺そうとしてきた相手が、刃物を振り回して恐ろしい形相で追いかけ回してきた目の前の男が、自分の思いを理解してくれるだなんて。
辛かった。本当は飲みたくなかった。出来ることなら避けたかったけれどもワンに倣って飲もうと決めたのは自分だ。あの時の自分の空腹はどう足掻いても我慢できるものではなくて、だから「飲みたくなかった」などという感想は後付けと言われても仕方ない。
でも辛かった。そして今でも。
瞬間的にこみ上げてきた涙が目頭に溜まる。溢れ出ないように瞼に力を込める。
「ごめんな」
謝罪される。
「そんなこと、したくなかったよな」
ジュウゴは顎を喉元に押し付ける。その拍子に涙がこぼれてしまいそうで奥歯を噛みしめる。「僕の方こそ」と言いかけて顔を上げた時、
「ごめんな、ワン」
男の謝罪が自分ではなく、ワンに向けられていたものだと気付いて唇を閉じた。
ワンが立ち上がって男の頬に鼻先を押し付けた。男が腕を上げてワンを抱き寄せるようにして撫でる。あの獰猛で話が通じない凶悪極まりない男の意外過ぎる姿と、もうだいぶ長いこと行動を共にしてきたのに初めて見たワンの表情を、ジュウゴはしばらく見つめていた。そして、
「ごめんなさい」
おそらくは男とワンの間にいるべきだっただろうコウの不在を、改めて詫びた。
ほとんど反射に近いものだった。ただ謝らずにはいられなかった。しかしそれはジュウゴの中の情動であって男には一切関係のないことだ。だから当然、疑問を抱かれる。
男の視線の前に居竦まりながらもジュウゴは頭に手を伸ばし、しどろもどろになりながら言い訳を試みた。
「こ、コウの、コウについての僕がしたのがごめんなさいなんですけど、コウの何がと問われれば何と答えればいいのかわからないのですが、コウは…の、その…」
「話はわかった」
言って男は静かに息を吐いた。何がわかったのかよくわかっていないジュウゴは顔を上げる。
「礼を言う」
「『れい』? って、お礼の礼ですか?」
間抜けな質問を素で尋ねて、案の定男に睨みつけられる。
「だって、僕の…は、責められることをしてしまったし許されなくても仕方ないと思っていたのに、おにいちゃんは『お礼』だなんて言うから…」
「お前のしたことを許すつもりはない。そしてお前に兄と呼ばれる覚えも無い」
表情を一切映さない男の口から怒りに満ちた声ではっきりと言われて、ジュウゴは顎を引く。
「だがお前を責めても意味がないだろう」
ジュウゴは黒目だけで男を見上げる。
「それにワンが許さない」
言って男はワンの首のあたりのたるんだ肉を揺らした。ワンは首を伸ばして目を細める。
「ワンが何を許さないんですか?」
わからなかった点をジュウゴは素直に尋ねたが、男にちらりと横目で見られただけだった。
「お前は、」
男はジュウゴを見ずに呟く。
「マツもここから連れ出すつもりか」
「『待つ』って何をですか?」
男は細めた横目でジュウゴを睨んだ後で、廊下に繋がる扉を見た。ジュウゴも男の視線の先を見遣る。自分たちを置いて行ってしまったシュセキは、研究所の奥で一体何をしているのだろうか。あの先には何があっただろうかとジュウゴが記憶を引き出しかけた時、
「名前がないというから『マツ』と呼ぶことにした」
男が呟いた。何をそう呼ぶことにしたのかいまいちわからなかったジュウゴは、きょとんとして男を見つめる、
「お前の仲間の……片足の眼鏡の男だ。不便だからマツと名付けた」
「シュセキのことですね!」
男の説明を受けて、ジュウゴはようやくシュセキが名前をもらったのだと気付いて、
「シュセキはおにいちゃんの大切なんですか?」
興奮気味に身を乗り出した。
名前を与えるとは大切であることの証拠だ。地下に住む者たちと関わってジュウゴはそう学習した。サンがそうだった。ナナもまた。そして男はシュセキに名前を与えた。ならば男にとってシュセキは大切な存在であり、つまりは『仲間』ということになるわけで、
「大切ということですよね!」
シュセキにも仲間が出来ていたことをジュウゴは嬉しく思った。
「重宝していることは否定しない」
男が答える。『仲間』か否かについての言及は避けたが、自分の言葉を否定されたわけではないと思ってジュウゴは破顔した。
「それはつまり、おにいちゃんがシュセキ…マツの仲間だからし…マツはおにいちゃんと一緒ということですか?」
非常にわかりにくいジュウゴの問いかけにも馴れて来たのだろうか。男は完全に冷めた視線でジュウゴを見据える。
「おにいちゃん?」
ジュウゴの呼びかけに、男が斜め下に息を吐いた。
「好きに解釈しろ」
言って男は立ち上がる。ワンを伴って屋外へと続く扉に向かう。
「どこに行くんですか?」
ジュウゴも立ちあがり、男の背中に問いかけたが返事はない。
「おにいちゃん…」
「お前にそう呼ばれる筋合いはない!!」
ついに男が怒鳴った。ジュウゴは怯え驚き後退し、踵と肘を壁にぶつける。
「いいか、俺はお前の兄じゃない。俺をそう呼んでいいのは今はこいつだけだ」
言いながら男は顎でワンを指す。
「本当なら今すぐお前を抹殺してやりたい。ワンが止めなければそうしていた」
ワンは何も話しません、と思いながらもジュウゴの言葉は喉奥で詰まる。
「だがお前の目的がマツを連れだすことだとしたら、今ここで阻止する」
言って男は腰帯に差した刃物の取っ手を握りしめた。ジュウゴは先の恐怖を思い出して背中と手の平で壁に張り付く。ジュウゴが誰かを連れだすとはつまり、その者を死なせることだと男は思っているのだろう。コウという前科があるジュウゴはそれを否定できなくて、震える唇をきつく結ぶ。
ジュウゴが何も言ってこないことを確認して、男は静かに構えを解いた。
「二度とここに近寄るな。マツを連れだすことも許さない。分かったらとっとと出て行け」
言い捨てると、「行くぞ、ワン」と言って扉に手をかけた。しかし、
「ワン?」
ワンは男のもとを離れ、なぜかジュウゴに歩み寄る。ワンの行動理由がいまだに全くわからないジュウゴは首から上を突き出してワンを覗きこみ、それから上目遣いで男を盗み見た。
「ワン」
ワンは男に振り返る。
「ワン!」
「行った方がいいと思うよ」
ジュウゴも小声でワンに提案する。
ワンは真っ黒な目でジュウゴを見上げると、くるりと円を描くようにしてその場で回り、ジュウゴの足元に腰を下ろした。
「ワン?」
男が目を見開いて訝る。
「わ、ワン」
ジュウゴは恐々ワンに囁きかける。
無言で男を見つめていたワンは、そのまま黙って腹まで床に密接させて、その場に伏せてしまった。
「ワン、行った方がいいって。頼むよ」
自分のために男の方に行ってくれとジュウゴは懇願したが、ワンは前足に顎を乗せて完全にジュウゴを無視している。
「なんでだ」
男が言う。ワンが鼻息で答える。白目まで覗かせて男を見上げていたワンは、ちらりと長椅子の方に首を伸ばした。ジュウゴと男は導かれる様にそちらを見る。研究所に戻ってきてすぐに、ワンが座りこんでいた場所だ。あの座面と床の間の空間こそがまるで自分の居場所とでも言わんばかりに、その身をすっぽりと収めていた。
長椅子を見つめていたジュウゴが視線に気付いて下を向くと、見上げてくるワンと目があった。無表情の無言でジュウゴを見上げていたワンは、やがてふいっと顔を背ける。
「……コウが?」
男が言う。ジュウゴは男を盗み見る。男は苦々しげに眉根を寄せると短く息を吐いて項垂れた。
ジュウゴはワンと男を見比べる。どうしたものかと考える。なんだかよくわからないがワンと男は仲違いしたらしく、そして男が負けたようだ。と思う。ワンは言葉を一切話さないのに男はまるで会話をしているような声かけばかりして、そして最終的に押し黙ってしまった。独語とも違う。明らかな会話だ。返って来る物がないのに自分から投げかけ続ける姿は、存在しないジュウシと会話を続けるシュセキに似ていた。
「おにい…」
言いかけてまた怒られるのではと思い至り口籠る。しかし他に何と呼べばいいかわからなくて、ジュウゴの手はまた頭を掻いた。
「ええと、その……。出て行けと言うなら出て行きます。サンも新しい仲間と行動を共にしたいと言っていたしナナもしているし、シュセキもそれを望むならそうすればいいと思います」
寂しいけれども。
「だけどその、もしもシュセキの故障の原因がジュウシが近くにあることなら、僕はシュセキはここを離れるべきだと思います」
言ってしまってからジュウゴは再び怖じ気付く。
「あ! で、でもシュセキが決めることだしシュセキが何と言うかなんですけど、僕はそう思っていて……」
そこでちらりと男を盗み見た。
「……でもシュセキがここに残るならその、お、お願いしたいです」
男は微動だにしない。
壁に張り付き男の出方を窺っていたジュウゴだったが、やがて壁から手を離し、一歩踏み出して、
「『心配』してください」
託したい思いを伝えた。
「彼には『心配』が必要だと思うんです。そうでないと、」
死んでしまいそうで。
「イシガメはクサガメの『心配』で死なずに直りました。だからシュセキのこともおにいちゃんが…!」
「……カメ?」
男が突然そう言って顔を上げたから、ジュウゴは再び壁に肩をぶつけた。今度は何が失言だっただろうかと自分の言葉を思い返していると、耳触りな音を立てて奥の通路へと続く扉が開かれた。見ると植物を両手に抱えたシュセキが立っている。
「シュセキ……」
ジュウゴはシュセキをまじまじと見つめた。シュセキは目を凝らすように上瞼に力を入れていたが、やがて部屋の明度になれたのか廊下の中から足を踏み出した。
「何をしているんだ?」
「植物を運んでいる。見てわからないか。その目は君の現状把握能力をさらにも増して低下させたようだな」
質問への回答に必要以上の非難を加えて返される。
「そんな言い方…!」
「彼との会話は難解だろう」
憤りかけたジュウゴを完全に無視してシュセキは男に向かって言った。
「彼は現状把握能力だけでなく言語構築能力及び理解力並びに意思疎通力等会話に必要とされる多くの技量が異様に低い。欠落していると言っても過言ではない。君がこの小一時間彼との会話を成立させられたとしたならば僕は多いに驚くしある意味尊敬する」
シュセキの早口を男は鼻息で受け流す。
シュセキも男の反応を期待していなかったようだ。無視も無言もまるで意に介した様子も無く、あっという間に義足を使いこなした足運びで屋外へと繋がる扉へ向かう。
「どいてくれ」
シュセキが言うと男はあっさりとその場を空けた。その関係性にジュウゴは目を瞬かせる。
「イヌマキたちの分はこれでいいか」
「頼む」
「いいだろう」
ジュウゴは閉まりのない口をさらに開いて首から上を突き出す。
まるで男の方が謙っている。そう言えば先もシュセキの言い分を男は聞き入れていた、とジュウゴは思い出した。
シュセキは男の態度を当然のことのように受け止めて、片手で扉を開けて星空の下に出て行った。閉じかけた扉の隙間にワンが鼻先を差しこみ、シュセキの後を追っていく。
「わ…」
おいていかないでくれ、とジュウゴがワンを呼び止めようとした時、男が眼前に立ちはだかった。ジュウゴは唾を飲み込む。ぎこちない動きで男を見上げる。
「お前に二、三聞きたいことがある」
断われるはずがなかった。