00-177 ヤチネズミ【距離】
過去編(その128)です。
シチロウネズミなどという男はそもそも初めからいなかった。
そう思え、思い込め、忘れろ。
そう言いきってカヤネズミは俯き、押し黙ってしまった。半月ぶりに目覚めて騒いで怒鳴り散らした後で静まり返った男の横顔を、ヤチネズミは見つめる。
カヤネズミは間違っている。ハツカネズミはシチロウネズミを忘れたと思い込んでいる。
事実、ハツカネズミは自分たちにそのように思いこませるような言動を見せたし、ヤチネズミ自身も当初はそう思っていた。
だがそれはハツカネズミの嘘だった。
ハツカネズミはシチロウネズミを忘れていない。ちゃんと覚えている。全て覚えている。ハツカネズミは記憶のどの部分も失ってなどいないし、ちゃんと自覚を持って行動している。
ただ、思考回路が少しおかしくなっただけで。
どんな理由と目的があってかはヤチネズミにもわからないが、ハツカネズミはおそらく自分のために嘘をついている。嘘をつき続けてきたらしい。その一環としてハツカネズミはシチロウネズミを忘れたふりをしている。
そうカヤネズミに伝えようとした。カヤネズミならばハツカネズミの真意を探れるかもしれないと思ったし、ハツカネズミが嘘をつかなくても良い方向に導いてくれるかもしれないと期待した。したのだが。
ヤチネズミは視線を落とす。胡坐の上で無意味に組んでみた指を解いたりまた組み直したりしながら、「わかった、ごめん」とだけ伝えた。本当は何もわかっていなかったけれども。
しかし考えてみれば、これ以上この話を続けることの意義は低いようにも思えてきたことも確かだ。病み上がりとも言えるカヤネズミを興奮させるのは避けねばならないし、あの強情なハツカネズミがちょっとやそっとじゃ真意を告白することも無いと思う。ならば今は控えるべきだろう、自分の欲求を。
ヤチネズミが食い下がってこなかったことが意外だとでも言いたげに、顔を上げたカヤネズミはまじまじとヤチネズミを見つめてきた。自分の中でどう振る舞うかの結論を出し終えたヤチネズミは、その視線に答えるようにして顔を上げる。
「……何だよ」
「……随分飲み込みが早いなと思って」
ヤチのくせに、という本心は飲み込んだようだったが、カヤネズミの顔にはきっちりとその言葉が書かれていた。ヤチネズミは伏し目がちに視線を逸らして息を吐く。
「三十秒考えろって言ったのはカヤじゃん」
「三十秒?」
言ってカヤネズミは斜め上を見上げた。おそらく何のことかわかっていない。自分の放った言葉をころっと忘れて罪悪感すら抱かないのは、口達者にはよくあることだ。
しかしヤチネズミはその点には触れずに、もう一度息を吐きながら座り直した。
「で? これからどうすんだよ」
「は? どうするって何が?」
質問に質問で返すなよ、とヤチネズミは呆れてカヤネズミを見遣った。
「『何が?』じゃなくね? この状況だよ。今後の俺たちの身の振り方。塔からは指名手配くらってるしオリイジネズミさんにもいつまでも甘えてられないし。っていうか塔から離れてこれからこの部隊はどこに向かおうとしてるんだ?」
「言いだしっぺが何言ってんの?」
「へ?」
諭しているつもりで話していたのに、予想外のことを言われてヤチネズミは間抜け顔で固まる。
「言いだしっぺって…?」
「お前だって」
今度はカヤネズミが呆れ顔、ではなく蔑み見下した顔を向けてくる。
「めっちゃ啖呵切ってたじゃん、『お前には従わねえぞ!』とかってアイに。……アイって禁句?」
カヤネズミが尋ねてきたからヤチネズミは頷く。
「ハツが怒るんだよ。あいつすっかりアイを目の敵にしてる。わかんなくはないけど名前出しただけでぶち切れるってなくね? でもなんとなくみんな流されて…」
「アイちゃんは義脳くんになった、と」
ヤチネズミは無言で頷いた。カヤネズミも呆れて項垂れる。
「まあな? 『実験台』とか『失敗作』とか、言葉選びが悪かったのは俺の責任でもあるよ。でもそれはハツだけじゃないって。なんでそんなしょうもないところにひっかかるかなあ?」
「それだけじゃないだろ」
ヤチネズミはカヤネズミのぼやきを遮り、カヤネズミが横目を向けてきた。
ハツカネズミが怒っているのはそこではない。もちろん、自分がアカネズミの踏み石だったことや、ヤチネズミの薬を入れられたために失敗作認定を受けたこととか、憤って然るべき点は多々あるしハツカネズミもそれなりに腹を立てたかもしれない。しかしハツカネズミはどちらかと言えば薬に感謝している口だ。トガリネズミの薬を受け継いだことには誇りを持っているし、ヤチネズミの受容体であることすら自慢の種にしている。ハツカネズミが怒っているのは自分のことではなくて、
「あいつ子ども好きだからな」
カヤネズミのぼやきにヤチネズミは頷いた。
ハツカネズミが怒っているのはアイの子どもに対する扱い方だ。子ネズミたちや治験体を検査の名のもとに死線に大量投入していることはもちろん、許せなかったのは夜汽車の扱いだろう。そして受け入れていないのは地下と自分たちの関係。
「カヤぁ、」
ヤチネズミは下を向いたまま呼びかける。
「本当に俺らって、地下の連中と繋がってんの?」
「お前は納得したと思ってたけど?」
むっとした声でカヤネズミは言う。「納得って言うか……」とヤチネズミは言葉を濁す。
「感覚? 同じって言われたら、『ああ、確かに?』みたいな、土筆と杉菜みたいな…」
「ちゃんとわかるように喋ろって」
感覚を言語化するのは難しい。ヤチネズミは口籠ってしまう。
カヤネズミは喉の奥で咳払いすると、二、三度、咳込み、それから洞窟の天井を見上げた。
「検証するか」
「検証?」と、ヤチネズミは顔を上げる。
「俺の仮説の検証。実験、観察、検証の検証。くっちゃべってるだけじゃ埒が明かないじゃん。だから実地調査してちゃんと検証して結論出してから身の振り方を考えっかって言ってんの」
「……つまり?」
ヤチネズミが説明を求めたからカヤネズミの嫌味と悪口がしばらく続いた。ヤチネズミをそれなりに落ち込ませてからカヤネズミは上を向いて息を吐く。
「まあ、俺だってこれからどうすればいいかなんてわかんねえって。正直めちゃくちゃ動揺してるし途方に暮れて泣きそうだよ」
乾いて充血気味の目が言う。
「けどここまで来たんだ。どうせ塔にはもう戻れないだろ? っつうか戻る気でいたわけ?」
ヤチネズミは首を横に振る。
「だったら塔にいたら出来ないことをやるべきじゃね? 塔内の探りはオリイジネズミさんたちが進めてるみたいだし、俺らは俺らで俺らだから出来ることをやればいいんだって」
「俺らの出来ること?」
「地下との対話、とか?」
「カヤ酔ってる?」
ヤチネズミはぎょっとして尋ねたが、カヤネズミはへらりと笑ってかわした。
「冗談はおいといて、」
「冗談に聞こえなかったけど……」
そう言えばワシの電車の中でワシの男に話しかけていた、とヤチネズミは思い出しながら目の前の男を信じられない気持で凝視する。
「冗談だって。あっちには話す気がないのにどうやって会話が成立するんだよ」
カヤネズミが遠い目をしてぼやく。
―こっちが何思っても向こうが何考えてるかわかんないのに―
ヤチネズミは置いて来てしまった後輩を思う。
「……たらいいけどな」
カヤネズミ呟きを聞き逃してヤチネズミは顔を上げた。しかしカヤネズミはすっかり思案顔になり、その頭の中は既に先を向いている。
「カヤ……」
「まずはどこからいく?」
カヤネズミがぱっと顔を向けてきたからヤチネズミは戸惑った。
「手始めに居住不可能地域で生きていけるヤッさんには、どこまで行けるか単独行動とってもらって…」
「おい!」
カヤネズミが楽しそうに肩を揺すり、ヤチネズミは横を向いて息を吐いた。その横顔に今度はカヤネズミが真剣な目をする。
「なあヤチ、」
「単独行動してくるわ」
言って立ち上がりかけたヤチネズミの上着を掴んでカヤネズミは尋ねる。
「お前、なんかあった?」
「あ?」
眉間に皺を寄せてヤチネズミは睨み下ろす。まるで凄味を持たないその気迫をカヤネズミは無視してさらに身を乗り出し、
「お前、まじでどした? なんか変だって。ちょっとおちょくったらすぐに怒鳴ってくるのが鬼のヤッさんじゃなかった?」
「怒鳴られたいなら怒鳴るけど」
ヤチネズミはじっとりと見下ろして答える。「じゃなくて」とカヤネズミ。
「全然『鬼』じゃないじゃん。俺、起きてからお前が怒ってる姿、全然見てないんだって」
「今、結構苛々してるけど」
「それだよ! ヤチは怒ってなんぼだろ? 怒りの前段階の苛々の状態で保ってられるって時点でお前おかしいし気持ち悪いんだってやめてくんない?」
身勝手な言い分もここまでくれば潔いのかもしれない。ヤチネズミは自分に対して礼儀や遠慮といった類の物を一切持たないカヤネズミを見下ろす。
「ほらその目! 何呆れてんのって話だって。お前の中に静かに呆れるとか誰かを見下すなんて概念はないんだよ。一つ言われたら三つ四つ悪い方向に捉えて勝手にぎゃーぎゃー喚き散らすのがバカヤチじゃん。どうしちゃったの? まじで」
「三十秒考えた結果だよ」
ヤチネズミはカヤネズミの手を払って背を向ける。
「なあ、三十秒って何だよ」
やっぱり忘れてる、ヤチネズミは息を吐いた。
正確に言えば三十秒ではない。三十時間、いや、三百時間くらい考え抜いた結果だ。
自分はネズミもどきの治験体だった。そのせいで同室には迷惑をかけて嫌な思いをさせ続け、手を煩わせてきた。その事実を突き付けられてもなお、それまで通りに振るまえと言う方が難しい。ヤチネズミは大いに狼狽し、苦悩し、恥じて、悔やんで、項垂れた。謝罪などできない。自分が楽になるために相手の気持ちを強制的に変更するよう要求する身勝手さこそ許されない。埋め合わせる手段も無い。ハツカネズミに全てを話せばシチロウネズミの話を出さざるを得ないし、出さずに話せたとしてもハツカネズミは笑って許してくれるだけだろう。許される資格など自分には無いのに。
後輩たちにもしてやれることが無い。今さら育児をやり直すことなどできないし、あいつらがまず望まない。後輩たちは出来そこないの育児担当のせいで、質の低い教育を受けて幼少期を過ごしたのだろうし、それによって矛盾と理不尽に戸惑い苦労しただろうし、その結果が今の自分の嫌われようであることは否めない。自分の失敗をやり直させてもらうために、自立済みの後輩たちを巻き込むのはお門違いだし、誰も過去には戻れない。
不幸中の幸いはヤマネもカワネズミもセスジネズミも、皆、癖はあってもそれなりにまともなネズミになってくれたことだ。ならば今の自分が出来ることは、出来るだけ彼らから距離を置くことだろう。迷惑をかけないようにこれ以上苦労をかけないように。
距離を置くことだ。今までが近過ぎたのだ。自分の思い通りにいかないことを相手に求めて何になる。それは同一視という名の固着だろう。相手を自分と同じか自分の一部のように考えていた。だから動かせると思っていたのだ、自分の思い通りに。変えられると思っていたのだ、自分の都合に合わせて。勘違いにも程がある。間違い過ぎていてい嫌になる。自己嫌悪したところで誰かに当たれば、八つ当たりされた方はもらい事故だ。迷惑以外の何物でもない。
だから距離を置く。ハツカネズミからもカヤネズミからも子ネズミたちからも。周りに誰もいなければ視界も開けて自分をよく観察できるはずだ。見つめるのだ、自分自身を。省みるのだ、過去の自分を。これ以上迷惑をかけないように。これ以上誰も死なせないために。
「なんか、」
カヤネズミが唇を尖らせた。
「つまんなくなったな、お前。ヤチからバカを取ったら何も残んないじゃん」
考え抜いて出した結論を一言で否定される。
「……なんだよそれ」
だったらどうしろって言うんだよ。
散々自分の馬鹿のせいで迷惑をかけてきた同輩が、自分に何を求めているのかヤチネズミにはわからなかった。