00-175 カヤネズミ【必要不可避】
過去編(その126)です。
死んだと思っていた。てっきり寿命が尽きたのだと。
だから意識が戻った時、カヤネズミは初め、そこが『あの世』とか『向こう岸』とか、とにかくそっち系のあっち側にいるのだと本気で思った。だが目に移る顔ぶれはあの時生き残った連中だ。こいつら全員が死んだとは考えたくないし、それに「よかった」と口々に言っているところを見ると、どうやら自分はまだ生きている。
しかし驚きと喜びの感動に浸れなかったのは、口元の違和感と全身の不快感のせいだった。
ドブネズミが泣いている。泣きじゃくると言い表すにはあまりにむさ苦しく、むせび泣くと呼ぶにはあまりにも激しい。自分の無事を喜んでの嬉し泣きなのだと頭の中ではわかっていても、カヤネズミは素直に感謝を述べることが出来ない。
「カヤだんよがっだ。おれぁぼうどおずればびびがぁあ!」
何がいいんだよ、よくねえよ。
「け、がぼずごいしやちざ…だよりだぃじ…」
「悪かったな、頼りなくて」
ヤチネズミがぶすっと呟く。拗ねる暇があるなら説明しろ。
「ブッチーは一睡もしないで看てたんだよ。カヤは感謝しときなよ?」
ハツカネズミが耳打ちしてくるが、動揺が強すぎて感謝どころじゃない。
「ぶっざんだぎずぎでげべげずぐでええ!」
ヤマネも鼻水を撒き散らし、
「お前が言うな」
ヤチネズミが端っこでひとりごちる。
「お前がゆうだよやまぶぇ……」
ジネズミも泣きわめいていて、
「お前もな」
ヤチネズミが再び息を吐く。
おいバカ、ため息ついてないで説明しろって。カヤネズミはヤチネズミを殴りたくて仕方ない。
「何だって?」
だから説明!
「がやざんだんで言ったんでっかぁ?」
説明! せぇつぅめぇいい!!
「何と言っているんでしょうか」
セスジネズミが首を傾げると、タネジネズミが咽び泣きながら、
「感激で、こ、言葉に…でぎない、とか…」
違う!!
カヤネズミは仲間たちに必死に訴える。しかし誰も自分の意を汲まない。
「とりあえずさ、えっとお…」
泣きじゃくる子ネズミたちを困ったように見回し、頭を掻きながらハツカネズミが、
「…ぉ万歳! でもしとく?」
しない!!!
カヤネズミが怒鳴ると、ようやく仲間たちはびくりとして顔を上げた。
「どうしたカヤ! どこ痛い?」
医療担当者として真顔になったヤチネズミが尋ねる。だから、と言いかけたカヤネズミを待たずに、
「がやさん? かやだああああん!!!」
ドブネズミが泣き崩れた。だから泣くなって…、
「俺たちに何かを伝えたいのではないでしょうか」
セスジネズミが言ってカヤネズミは目を見開いた。そうだ、セージ。その調子だ。
「ねえ、これ抜いてみたら?」
ハツカネズミが言って、カヤネズミの口元を指差した。即座にヤチネズミに否定されたが、カヤネズミは激しく頷く。しかし周囲には小刻みに痙攣しているようにしか見えない。
「ヤッさん!! カヤさん変な動き!」
ワタセジネズミが動揺して後ずさりし、
「え、なに? わかんない! どうするのこれ?」
ハツカネズミがおたおたし始めて、
「お前ら黙れ!! 聞こえねえだろ!!」
ヤチネズミが怒鳴り散らして、
「カヤだん! がやたあああああん!!」
ドブネズミがそれ以外の単語を発さなくなる。言外の意図を汲み取ろうとしない連中は足並み揃えて混乱しっぱなしだ。誰か、誰でもいいから話を聞け。カヤネズミは頭に血が上り過ぎて気が遠くなりそうだ。
「抜きますね」
セスジネズミが言って、カヤネズミの口から伸びる管を掴んだ。止めようとしたヤチネズミを肘打ちで黙らせ、セスジネズミは一思いにそれを引っこ抜く。嘔吐とも違う、えもいえぬ不快感が腹の底から這いずり上がってきて、えづきと共に管を吐きだしたカヤネズミは咽て、咳込んで、肩で息をして涙目を上げた。
「カヤ!」
「カヤざ…!」
「がやだあん!!」
仲間たちが口々に自分の名を叫び、顔を覗きこんでくる。カヤネズミは右から左にその顔を見回し、反対方向にもう一巡してからセスジネズミが握る管で視線を止めた。
「い゛……」
「『ぢ』?」
「『り』?」
「え、なに?」
ごくりと唾を飲み込む音の中でカヤネズミは首を回し、今現在、一番まともそうなバカの顔を見つめた。
「……ぃず。喉、かわいて…」
「駄目だ」
しかしヤチネズミは真顔のまま首を横に振る。
「誤飲の心配もあるし我慢しろ。お前、半月も寝てたんだぞ? 全身の筋肉もそうだけど内臓の機能とかも…」
歯ぎしりして医療担当者を睨みつけた。カヤネズミはヤチネズミを蹴りつけたくてたまらない。
「おぃ、ふぁかや…」
「ブッさんが倒ればしたあ!!」
ヤマネが悲鳴をあげた。カヤネズミの細い声は完全にかき消される。
「ブッチー!」
言ってハツカネズミが駆け寄り、カワネズミやタネジネズミも続いた。カヤネズミも同室の後輩を心配したが、なんにせ身体が言うことを聞かない。首を伸ばそうにも筋が突っ張る。
「泡吹いてません!?」
あわあわしたワタセジネズミがおろおろしながら素っ転び、足で何かを蹴り倒した。盛大な音がカヤネズミの鼓膜を震わせ、頭の芯がきん、と痛む。
「すい、すいませ…」
「暴れんなワタセ!」
「ブッさん? ブッさん!」
「貧血じゃないですか?」
「ヤチ! ブッチー!」
「わかったからそこどけ…」
「あいつら起きたんじゃね?」
「これ何なんですかあ!?」
「ワタセは触っちゃいけません!!」
大混乱のお祭り騒ぎの向こう側からは、聞き覚えのある音程の唸り声まで響き始め、カヤネズミの頭痛はさらに増していく。辛うじて動く右腕を伸ばして、唯一身動ぎもせずに突っ立っていたセスジネズミの上着の裾を掴んだ。
「どうしました?」
「ぃず……」
「…はまだ飲んではいけないとさっき…」
言いかけてセスジネズミは自分の手が握っていた管を見下ろした。カヤネズミは目を細める。と、次の瞬間、
「へ? ぇじッ…!?」
「飲ませられませんが注入することは出来ますから」
長い指が頬と額にめり込んでくる。片手でカヤネズミの顔を抑えつけるセスジネズミは、今しがた自分の口から抜き取った管を頭の上に振りかざした。
「はぇーじ!!」
「挿入しますよ」
駄目ですよ!? カヤネズミは必死に抵抗する。しかし拒む気持ちと裏腹に、身体はセスジネズミのされるがままだ。何のための何なのかわからない太い管が眼前に迫り、その悪臭に顔が引き攣る。何かわかんないけどとにかく嫌だ、カヤネズミは唇を噛みしめて必死に抵抗していたが、セスジネズミの蛮行は突然止まった。恐る恐る目を開けると、半目のヤチネズミがセスジネズミの手から件の管を奪い取っていた。
「何すんだ、じじい」
「こっちの台詞だ、くそがき」
セスジネズミが眉毛をハの字に寄せてヤチネズミを睨み下ろした。同時に解放されたカヤネズミは息を吐き、憧れの存在でも目の当たりにした顔をしてヤチネズミを見上げる。
「カヤさんが水飲みたいって言ってんだよ」
凄むセスジネズミに、
「だからまだ駄目だって言ってんだろ」
負けずに舌打ちするヤチネズミ。
「だから管から注入してやるんじゃねえのかよ」
「使い捨てだ」
手の中の管を顎で指してヤチネズミが言った。
「一回抜いたら捨てんだよ。衛生的に問題あるだろ。医術は俺の方が詳しいんだからお前はいちいち出しゃばんな」
セスジネズミの舌打ち。こいつの舌の筋肉はよほど鍛えられているのだろう、とその音量からカヤネズミは思ったりする。
「じじいのくせに偉そうに」
捨て台詞を吐きだしてセスジネズミは踵を返した。今気付いたが松葉杖をついていた。
「…っちい?」
カヤネズミは首だけで後輩の安否を気遣う。ヤチネズミが振り返り、
「喋れっか?」
若干感心したような声で尋ねてきた。「ぶっ…ちは?」とカヤネズミはさらに尋ねる。
「お前と同じだよ。力尽きて寝たんだろ。あの日からずっと起きてたから、お前が目ぇ覚まして安心したんじゃね? カヤの薬って言ったってもう切れてたと思うけど、最後の五日間は気合だろうな」
ワタセジネズミとドブネズミの辺りがまだぎゃあぎゃあとうるさかったが、その騒音の中でヤチネズミはぼそぼそと憶測を並べていた。聞かせるつもりならばもっとはきはきと話してほしい。カヤネズミは少しいらついたが、すぐに違和感の方が上回った。その違和感の正体を確かめようとしたのだが、
「つば出る?」
反対にヤチネズミに見下ろされて出鼻を挫かれる。言われて唇をすぼめ、口中に神経を集中してみると、あれほど干乾びていると思われたのに舌の上には水分が集まってきた。
「飲める?」
当たり前だって、と言い返したい気持ちを視線に込めて、カヤネズミは自身の唾液を飲み込んだ。がしかし直後に咳込む。ようやく落ち着いたのは、仰向けだった身体を横に向けさせられ、駆けつけたヤマネに背中を擦られた後だった。
「やっぱりまだだな」
背中越しにヤチネズミの声を聞く。
「もっかい管入れるから上向かせといて」
「あ、はい」
ヤマネがヤチネズミに返事をした。カヤネズミはまた違和感を覚える。違和感の元に振り返ろうとしたが、
「水分補給はしばらくこれに頼っとけ」
ヤマネによって仰向けにさせられた視線の先には、既にヤチネズミの顔があった。そしてその手にはまたあの管。
「カヤさん、口押さえますね」
言ってヤマネが上唇と下唇を押さえつけてきた。嫌な予感は当たり、再びあの太い管が迫ってきた。カヤネズミは拒絶する。必死に嫌だと訴える。しかし、
「暴れないでくださいよ、カヤさん。水分摂るためですってヤッさんが」
「栄養もな」
ヤチネズミが管を捏ねながら言う。そんなもんつっこまれるくらいなら水いらないって、カヤネズミは叫ぶ。水いらない、栄養? いらない、いらない。酒さえあれば…。
「カヤさん噛まないでくださいよお!」
「誰か手伝え」
ヤマネの悲鳴を受けてヤチネズミが背後に呼びかける。カワネズミが駆け寄ってきてさらにカヤネズミは自由を奪われていく。いやだ、やめてくれ、ブッチー助けて…
「ブッさんは大丈夫です。寝てます」
カワネズミが笑顔で言う。大丈夫と言われて一瞬安堵し、そしてすぐにまた慌てる。よくない、駄目だって、起きろブッチー、頼むって!
「ヤチぃ! 俺、ブッチー寝かせてくるね」
ハツカネズミの声がして、ヤチネズミが生返事をする。
「おじさん? おじさんはあ?」と子どもの声。
「いいからほら。お前らもこっち」
タネジネズミが苛立たしげに誘導して、
「こっちだってば!」
ワタセジネズミも手を焼いているらしい。
「おいでこっち! キュウちゃん」
「ジャコウ!!」
ジャコウ。
カヤネズミがぴたりと動きを止めた。
「ヤッさん!」
ヤマネが叫んでヤチネズミが迫ってきた。はっとした時にはすでに遅く、カヤネズミは喉の痛みと不快感に襲われる。酷い声で唸り、えづき、咳込んで唾を飛ばす。唾液同様、反射的ににじみ出てきた涙も見ているはずなのに、ヤチネズミはほぼ無表情でムクゲネズミなような冷酷な仕打ちの手を止めなかった。
一連の地獄の処置が終わった後もカヤネズミの咳は止まらなくて、横向きに丸まる背中をヤマネがしばらく擦っていた。
「悪いな。太いのしかなくて」
ヤチネズミが手を拭いながら声をかけてくる。
「あやわるくらいならふんが!」
ようやく絞り出せるようになってきた声でカヤネズミは悪態を吐く。
「だから悪いって言ってんじゃん」
全く悪びれずにヤチネズミは半目を向けてきた。腹立つ顔してんなあ! カヤネズミは渾身の力で睨みつける。
「ヤッさんも頑張ったんですよお?」
ヤマネが子どもに諭すように語りかけてくる。お前、いつからそんなにヤチの肩を持つようになったんだよ、とカヤネズミは言ってやりたくて起き上がりかけたが、上手く出来なくて結局ヤマネとカワネズミの手を煩わせることになる。ようやく身を起こした時には息が上がり、言葉を繰り出すにはしばし休息を要した。
「鼻から胃に管通して直接栄養入れるから、どんだけ寝てても死ぬことはないってヤッさん必死で」
毛嫌いしていたはずの同室の先輩を庇うヤマネの横から、
「ブッさんだって。ブッさんの方がてんぱってたよ」とカワネズミ。
「さすがに何日も飲まず食わずじゃな」
ヤチネズミが腰を下ろしながら言う。
「でもハタネズミさんの『器具』の中にもちょうどいいものが足りなくて」
「『ひぐ』?」
ヤマネに尋ねると、
「ここ、ハタネズミさんの秘密基地なんすけどとにかく色々あって不自由しなくて。でも細い管は一本しかなかったから、鼻は諦めて口から管突っ込んでていかん栄養してたんです」
カワネズミが代わりに答えてくれたが、
「『経管』」
ヤチネズミが横から訂正した。
眠り続ける自分の水分・栄養補給をするために、口から胃に管を通して水分と栄養を注ぎ入れ、命を繋ぎとめてくれていたらしい。本来ならば鼻の穴から管を挿入するところだったが程よい細さの管が足りなくて、やむなく口から管を通していたのだそうだ。口もかなりの痛みと気持ち悪さだったのに鼻にあれって……。想像してしまってカヤネズミは、悪寒に身を震わせた。
でももう俺、起きたじゃん。ちゃんと口から飲み食いするから抜けって、と主張したが、「誤嚥の可能性があるうちは駄目」というヤチネズミの命令の方が勝った。その言い方がいつものヤチネズミではなくて、カヤネズミは腹が立つよりも違和感を募らせる。違和感と言えば、
「いっひょんあったんなら、使えわいいやん」
何かを咥えて喋るのがこれほど難しいことだとは。自分で自分が何を言っているのか聞き取れなくて、案の定、後輩たちも困った顔を向けてきたが、
「使ったって」
ヤチネズミはちゃんと聞こえていたらしい。お前、意外と耳いいよな、とカヤネズミは感心したが、
「使った…ってさてた?」
ヤマネが気まずそうに唇を結んで俯いた。カワネズミも何故か目を泳がせる。カヤネズミは後輩たちの態度が何を示しているのかわからなかったが、
「捨ててないって。入ってるじゃん」
半目のヤチネズミだけが平然と答えた。『入っている』? 現在進行形でどこかに? カヤネズミは顔を顰める。水分補給と栄養補給のこの管以外に、点滴か何かもされていたということか? だがそんなものは身体中どこを見回しても……。
上半身を起こしたカヤネズミは項垂れた格好で固まる。血走った目は黄色い管を凝視している。半分捲れた毛布はぼろぼろで、所々かぴかぴしていて臭くて不快だったが、自分が眠っている間は体温を保ってくれていたのだろう。その毛布から伸びる黄色い液体が満たされた管。
「歩けるようになるまでは導尿も継続な」
後頭部をぶん殴られたように、ヤチネズミの言葉が頭に響いた。どーにょー? どうによう? どう、にょう。
………まあ、入れたら出すよな。必要な処置だって、うん。と、自分に言い聞かせるが、大切な何かを失ったような気がしてならない。それからすぐにはっとしてカヤネズミは青ざめた顔をさらに俯けた。導尿ってことはまさか…
「あ、浣腸する? 一日置きだから今日だわ」
そっちもか。
カヤネズミは愕然とした。仕方ないこと、必要なこと、医療処置、医療だ、医療だってと自分に言い聞かせるが、自分の尊厳が著しく蹂躙された気がしてならなくて、後輩の目も構わず落ち込んだ。
「あのっ、カヤさん? 俺は何とも思ってませんよ?」
ヤマネが慌てた様子で感想を述べてくれたが、そういうことじゃないとカヤネズミは思う。
「安心してください。ブッさんは見張っておきましたから」
カワネズミが耳打ちで追加情報をくれたが、どういう意図で教えてくれたのか。
「おいカヤ、うんこするか? って聞いてんだけど」
ヤチネズミが無神経に畳みかけてきて、カヤネズミは突っ伏した。