00-174 コジネズミ【命令】
過去編(その125)です。
「コージさん!」
ヤチネズミは膝まで濡らしながらコジネズミに駆け寄る。大分潮が満ちてきた。空は半分赤みがかってきている。
コジネズミは立ち止まると黙って振り返り、凶悪な視線を向けてきた。呼びとめておきながらヤチネズミは尻込み、項垂れることでその視線から逃げる。
「……なんだよ」
「……や、その…」
「ぁあ?」
びくりとしてさらに顎を引き、意を決して腰を曲げた。
「すみませんでした!」
コジネズミが眉根を寄せる。
「迷惑ばっかりかけてすみませんでした。ハツとかハツとか、その……。うちの奴ら匿ってくれて、アズミさんたちにばれたらコージさんだってただじゃ済まないのに、アイからきっと尋問も受けるのに、俺らが全員無事だったのは…、無事ではないですけどみんなぼろぼろですけど誰も死なないでここまでこ…」
話の途中で頭頂部を殴られた。ヤチネズミは声にならない声で息を止めて耐える。
「長ぇよ」
「……すみません」
ヤチネズミは項垂れたまま口籠る。
「くっだらねえことで時間とらせんな」
舌打ちするとコジネズミはまた背を向け、波を蹴散らして歩き出した。
「どこ行くんですか?」
ヤチネズミは本気で疑問で尋ねたのだが、
「帰んだよ!」
当然だろうと言わんばかりにコジネズミが唾を飛ばしてきた。そっか、そうだよな、とヤチネズミは頷く。
「……大丈夫ですか?」
「何が!!」
相当苛ついてコジネズミが怒鳴り返してきた。ヤチネズミはちらりと元上官を盗み見て、
「……み、耳…」
「なわけねえだろが!!!」
海面が音波で揺れたかと思った。ヤチネズミは即座に「すみません」と頭を下げる。それからまた伺うようにコジネズミを下から見上げる。
「すみませんけどあ…」
「ぁあ!?」
びくりとしつつもごくりと喉を上下させ、一息に言い切る。
「アカ…、アカネズミのこと、容態…を…」
「アカぁ?」
ヤチネズミは頷く。
「アカ今、その…、多分重体で…」
「なんでアカが死にかけてんだよ」
ヤチネズミは答えられない。
しばらく元部隊員の後頭部を見下ろしていたコジネズミは、その頭が持ち上がって来る気配がないことに息を吐くと、「とりあえず見舞ってくるよ」とぶっきらぼうに告げた。ヤチネズミは驚いた顔を勢いよく上げる。
「え……?」
「なんだよ。部下の心配しちゃ悪ぃかよ」
「いえ………」
意外でした、とは言えなくてヤチネズミは下を向く。もしかしたら自分も心配してもらっていたのだろうか、などと淡い期待すら抱いて。
そんな的外れで過剰な自己評価が、またしてもヤチネズミを勘違いに調子づかせた。この機会にとばかりにヤチネズミは覚悟を決め、改めてコジネズミに頭を下げる。
「すみませんでした!」
「今度は何だよ!!」
苛立ちが限度を超えたのだろう。コジネズミの引き攣った頬は笑顔にさえ見える。しかしヤチネズミは腰を曲げたまま、頭を下げたまま、瞼を閉じて誠心誠意で謝罪した。
「ハタさんのことです」
コジネズミの顔が固まる。ヤチネズミは一気にまくしたてる。
「ハタさんが死んだのは俺のせいです。俺があの時、欲を出さなければ、俺があの時、命令に従ってすぐに退いてれば、ネコにやられることもハタネズミ隊が敗走することも、ハタさんが死ぬこともありませんでした」
否定してくれたアズミトガリネズミの優しさに甘えていた。上辺だけの心地よさに逃げ込んだ。
「全部俺のせいです」
言われて気がついた。いや、自覚していたのに見ないようにしていたことにようやく向き合い始めた。
「コージさんの……、コージさんからハタさんを奪ってしまって、」
遺された者の、本当の無念を目の前にして、
「ほんとに申し訳ありませんでした!!」
死者を偲ぶだけでは足りないことを知った。
ハタネズミへの謝罪だけでは足りなかった。子ネズミたちに詫びるだけでは、シチロウネズミを思い続けるだけでは足りなかった。自分が奪ってきた命の周りの、その死者を思い続ける全ての者たちに与えた物までが罪の範囲だ。償わなければいけない全ての…
「お前さあ、」
コジネズミの声にヤチネズミは目を開いた。先までの怒鳴り声とは違う、波音と同じかそれより静かな低い声。
「本っっっっ気で、救いようのないくずだよな」
沸点を越えた熱湯が蒸気となって音を失い見えなくなるように、限度を超えた怒りも熱を失い、静かに漂う気配になる。熱を失ったコジネズミはとても静かでそして、ひたすら怖ろしかった。
「謝るしかないとか思ってんだろ」
だってそれ以外に思いつかない。
「ごめんなさい、ゆるしてくださいって、言い続けてればいいと思ってんだろ」
そうは思っていない。そんなお座成りなものじゃない。心から申し訳ないと本気で思って…
「『ご免なさい』『許して下さい』って、許せないこっちの身は考えたことあんのか?」
膝丈の波が押し寄せた。ヤチネズミの腿まで上がって、砕けて飛沫が頬を打つ。
「謝るなよ、楽になりたいだけだろ。誰もお前を許さないしお前が許されることなんて無い。一生苦しみ続けろ、一生ッ!」
聞き間違いか、少しだけ鼻にかかった声。
コジネズミは波音の中で息を吐く。それから胸いっぱいに潮風を吸い込むと踵を返して歩きだした。
しかし再びヤチネズミに向き直って近づいてきた。腰を曲げたまま凝固している元部隊員の負傷している方の脚を回し蹴る。女々しく無様にヤチネズミは海の中に尻から落ちた。痛いはずなのにヤチネズミは微動だにしない。コジネズミは拳銃を取り出すと、ヤチネズミの腹の上にそれを落とした。
「お前んとこの副部隊長に渡しといて」
今度こそ踵を返し、背中越しに言ってコジネズミは歩きだす。ヤチネズミは意味も意図もわからなくて元上官の背中を見上げる。
「隊長格が丸腰じゃ話になんないだろ」とぼやいた後でコジネズミは立ち止まり、少しだけ顔を横に向けた。そして、
「俺に言うくらいならオリィさんに詫びろよ。本命はあっちだ」
潮騒にまみれた言い置きはコジネズミのくせに小声で、それなのに聞きとれてしまったヤチネズミは黙って俯いた。
「いつまでそうしているつもりですか」
背後から声をかけられて振り返る。オリイジネズミ隊も塔に帰還するらしい。
「……君は本当に生産体ですか?」
訝るように蔑むように、全身を睨めつけられた。ヤチネズミは自分でも自分の身体を見下ろす。
「痛くないのですか?」
「痛い、……です」
「沁みませんか?」
「しみてます」
「そのようには見えませんが」
言いながら立ち上がるのに手を貸してくれる。同室の後輩が心酔していた理由を噛みしめながら、ヤチネズミはオリイジネズミの厚意に甘える。
「まるであの男の薬が入っているようです」
立ち上がらせたヤチネズミを見下ろしてオリイジネズミが言った。ヤチネズミは俯いたまま反応も示さない。オリイジネズミは鼻から息を吐いて肩を落とす。
「私たちは一旦、塔に戻ります。君たちの後始末はなかなか骨が折れそうです」
「……すみません」
「ここにも備蓄はありますが長くはもたないでしょう。遅くとも十日後までには食糧をお持ちしますので、それまでは仲良く分配してください。小銃や四輪駆動車の類はおいおい…」
「あの、」
話を遮られたオリイジネズミは眉間だけでなく顎にも皺を刻んだ。オリイジネズミの不機嫌を読み取りもしないでヤチネズミはまた、自分の思ったことを思った通りに口に出す。
「なんでこんなに、…よくしてくれるんですか」
自分はハタネズミを死なせたのに。塔を破壊したのに裏切ってきたのに。
「部隊員の健康管理は部隊長の務めです」
「……オリイジネズミ隊の部隊員はワタセだけです」
「部隊員の希望を聞き入れるのも部隊長の務めです」
ヤチネズミは顔を上げる。
「ワタセ君は旧ムクゲネズミ隊の安全と生存を私に依頼しました。あんな子に乞われたら聞き入れるしかないでしょう」
嬉しそうな苦笑にヤチネズミの目は釘付けになる。
「それに私も、」
オリイジネズミは視線を外し、
「アイには懐疑的でした」
目を伏せ噛みしめるように言った。
「あの男が薬について調べれば調べるほど何のための薬と検査なのかがわからなくなり、アイの説明に矛盾を覚えるようになりました。カヤネズミ君がその多くを解き明かしつつあるというならば、手を貸さないという選択肢はないでしょう」
ヤチネズミはちらりとオリイジネズミの隣を見遣った。視線に気付くとエゾヤチネズミはきつく睨みかえして来て、
「オリイジネズミ隊は部隊長についていく」
他の面々も示し合せたように同じ顔で頷いた。
「君たちも自分で判断して臨機応変に動いてください。私に気を使う必要はありません」
「「「はい! 部隊長!」」」
オリイジネズミ隊は全員がワタセジネズミだ。いや、ワタセジネズミがオリイジネズミ隊化したと言った方が正しいかもしれない。
「ではヤチネズミ君、」
呼ばれてヤチネズミは顔を上げる。と、オリイジネズミは顔を顰めて、
「君はもう少し覇気を持ちなさい。手始めに口くらい閉じなさい」
言われて気付いて唇を結ぶ。
「ヤチネズミ君、」
改めて呼ばれてヤチネズミは今度こそ、姿勢を正して口を閉じて見せた。しかし視線だけは卑屈なままだ。
「私の部隊員をよろしくお願いします」
言うとオリイジネズミは直角になるまで腰を折る。慌てたヤチネズミをよそに頭を上げると部隊員たちに指示を出し、四輪駆動車の方に歩いていく。
「あ、あの…!」
「ああ、そうでした」
身を乗り出したヤチネズミを制止するようにオリイジネズミは声を上げ、振りあげると真剣な面持ちで歩み戻ってきた。早歩きだ。威圧感もある。ヤチネズミは怖気づいて二、三歩後退するが、オリイジネズミの方が一枚上手だった。一瞬で間を詰めたオリイジネズミは右手を振り上げかけ、負傷していたことを思い出すとすぐさま身体を返す。背中。なに? 反応が遅れたヤチネズミの腹にオリイジネズミの後ろ蹴りがめり込んだ。
「だ……?」
「すみません。肘が折れていたのでやむを得ず」
突きか蹴りかの選択肢ではなくて、何故自分は突然暴行を受けねばならなかったのかという理不尽さの理由を知りたくて、ヤチネズミは腹を押さえながら背を丸め、細切れの息を吐きながら目だけで疑問を訴えた。
「借り? でしょうか」
疑問に疑問で返されると困る。声を絞り出そうとした時、
「コジネズミ君の話だとあの男が死んだ原因は君だそうなので」
オリイジネズミが明後日の方を見遣って呟いた。ヤチネズミは出しかけた声を飲み込む。
「同室の先輩ですからね、一応。借りは返させていただきました、一応」
では、とカヤネズミのような上っ面の笑顔を置き土産に、お節介な別部隊の部隊長は去っていった。
―謝るなよ―
謝罪の言葉では足りないし、そもそも的確ではない。
―私の部隊員をよろしくお願いします―
―手を貸さないという選択肢はないでしょう―
「……ありがとうございます」
届かない言葉を呟いて、ヤチネズミは暗くなり始めた空に向かって頭を下げた。
*
カヤネズミが目覚めたのはそれから半月後のことだった。