00-166 カヤネズミ【仕事】
過去編(その117)です。
自動二輪が走る。ヤチネズミはぐんぐん速度を上げていく。ワシの乗る電車を目視できる距離で線路に平行に並走し、やがてそれを追い抜いていく。
あれだけ小銃を構えていたのにワシだが一切撃ってくる気配はない。銃声さえ聞こえない。ハツカネズミが何か画策でもしてくれているのだろうか。あの頭では大した時間稼ぎもできないだろうが、ワシが仕掛けてこないことがあいつの無事な証拠だろうと願う。
朝日が昇る。すでに『朝』とは言えない温度と熱波が男たちを襲う。他の連中は無事に辿り着いているだろうか、カヤネズミは吐き気の中でも部隊の子ネズミたちのことを思う。
「飛ばすぞ掴まってろよ!」
ヤチネズミが言ってさらに速度を上げた。まだ上がるのか? カヤネズミは血走った目で運転手の背中を凝視する。その背中が二重、三重にぶれて歪んで、目を瞑って頭を振った。
ハツカネズミの救出しか頭にないヤチネズミは、カヤネズミの容態に気付かない。真っ青な空の下で、蒼白な顔に血走った白目、瞼は持ち上げているのがやっとの形相だ。
ただの車酔いではないことをカヤネズミも薄々勘付いていた。しかし原因がわからない。この荒ぶる運転以外で何かあっただろうか。肩の傷か? こんなのムクゲネズミに与えられた痛みに比べれば屁でもない。では何だ。考えようとすると頭痛が襲う。気力を振り絞って目を見開けば視界が回る。ヤチネズミの上着を握りしめ、そのがなり声を遠くに聞きながら内容もよく飲み込まずに頷くだけ頷く。しかし頭を振るとやってくるのは強烈な吐き気。止まれば治まる、この自動二輪から降りれば治まるはずだと自分に言い聞かせて、本当にそうか? と不安が押し寄せた。そして一つの可能性に思い至った。
寿命だ。
クマネズミから受け継いだ薬の効能は不眠だった。類似の薬を入れられたタネジネズミやジネズミが数日から十数日に一度は必ず入眠するのに対し、カヤネズミはクマネズミ同様、完全な不眠だった。そしてクマネズミはそれ故、突然死に見舞われた。
―前借りしていたんだと思う。クマは一生分の覚醒時間を前借りする代わりに全く寝ない力を手に入れて、一生分の覚醒時間を使い果たしたから寿命が来たんだと思う―
アズミトガリネズミを伴ってやってきた変態の言葉だ。そうなのか、とカヤネズミも理解した。そしてそれがいずれ自分に訪れることだということも覚悟した。
でもなんで今なんだよ!
なんでこんな大事な時に……。カヤネズミは目を瞑る。奥歯を噛みしめヤチネズミの上着を握る手に力が入る。
いつ『その時』が来てもおかしくないと思っていた。誰にでも平等に訪れるものだしそれが普通だ、そういうものだと理屈としては納得していた。それが自分よりも年下の部隊員に先に来てしまったことに、おびき寄せてしまった自分の過失に懺悔して後悔して狼狽して悔やんで悔やんで。だったら自分に来いよどうせもうすぐ来るんなら俺にしとけよと祈った。
でもなんで今なんだ!? 今は駄目だろう、今は。霞む視界を広げる。頼むってまだ、もう少しだけ待ってくれってと知りもしない、居もしない相手に懇願し、握っていたはずの手の痺れに気付く。くそ、という鼻声の呟きは走行音に埋もれ、薄い膜で包んだような、くぐもったヤチネズミの怒鳴り声は、壁を隔てた先から響くみたいだ。
「……だ!! ……から!」
何だって? 聞こえないって。ぐわんぐわん音を立てて回る視界を広げる。
「…こでと…る!! …ろ!!」
ああ違う、馬鹿はちゃんと喋ってんのか。自分の感覚の方が機能していない事実を思い出す。
「カヤ……!!」
「わぁって…って……」
ヤチネズミの頭に手を置いて滑らせた。平手で叩いたつもりだったが、優しく撫でたみたいになってヤチネズミがぎょっとした視線を寄こす。こっち見んな、カヤネズミは思う。お前は前向いてろって、言おうとする。バカは前向いて、走って走って、突っ走ってればいいんだって。その後始末は俺の仕事だ。
カヤネズミはもう一度だけ拳に力を込めた。肩にかけた小銃を手にする。動け、俺の上腕筋。働け、俺の外眼筋。踏ん張れ、俺の全細胞。
自動二輪が止まった。後輪を振ることもなく正確に直角に、緩く婉曲した線路の横で迫りくる電車を待ちかまえる。輪郭の覚束ないワシの顔。でもこちらを向いている。出来れば話してみたかった。でも時間ないしな。
「カヤ!!」
うるさいって。
閉じかけた瞼で動く的を睨みつけ、震える指先で小銃の引き金を引いた。
*
カヤネズミが放った銃弾は走る電車の先頭車両の鼻先に狙い通りにめり込んだ。時間差で原動機が爆発する。黒煙が噴き出しその中に火の手も見える。止まるか? ヤチネズミは息を呑んで期待した。しかし自らが吐き出す黒煙を左右に散らして、電車はなおも走り続ける。
「カヤ! もう一発!!」
言いながら振り返ったが、背後にいるはずの男の姿がそこに無くて、ヤチネズミは俄かに焦った。そして探し者が地面に横たわっているのを見つける。
「カヤッ!?」
驚いて自動二輪を降り、片足跳びでカヤネズミに駆け寄る。カヤネズミは肩口から血を流し、力なく開いた手の平から小銃が砂の上に落ちた。
「なに寝てんだよ、おい! か…」
呼びかけながら思い出す。カヤネズミは寝ない。そういう薬だ。完全な不眠こそがカヤネズミの持つ唯一の効能だ。
「カヤ……?」
嘘だ。
「カヤ! カヤ…!」
電車が炎を上げながら近づいてきた。こちらは止まらない。カヤネズミは目覚めない。嘘だ、起きろ、頼むって、頼むから、
「連れてくなよシチロウ!!」
混乱の最中でヤチネズミは願望と悪態を泣き叫ぶ。誰に何を懇願しているのか、ヤチネズミ自身もおそらくわかっていない。考える前にただ口から出てきた、それだけの言葉。
「カヤ!!」
シチロウ。
「起きろって!!」
誰か。
「カヤ………」
誰も。
―おっせえよ! じじい!―
そう、遅すぎだ。
なんで気付かなかった? 遅すぎるだろ、俺。
「ヤッさん!!」
ヒミズ?
呼ばれて振り返り目を疑った。砂煙を撒き散らしながらこちらに向かってくるのは四輪駆動車に乗ったヤマネ。
「や…?」
「ヤッさん早いって!!」
とても丁寧な安全運転で、模範的な停車をしたヤマネが言う。
「なんでおま…」
「ブッさんに言われたんだよ、自動二輪は二尻が限界だし動けるのは俺だけだから手伝ってこいって。でも俺が自動二輪で出たら、『四輪駆動車の方がいいだろ!』って怒られちゃってって言うかヤッさん早すぎ…」
「ヤマネぇ!!!」
カヤネズミを放り投げて運転席のヤマネに抱きついた。「ぅわあ!!」と当然の反応を見せて全身全霊で拒絶したヤマネの膝の上には治験体の子ども。
「そいつ……」
砂に手と尻をつき、見上げるヤチネズミの目には、青空を背景にしたヤマネと子どもが神々しくさえ映る。
「ハツさん追いかけていの一番に走ってっちゃったじゃん。っていうかヤッさんたち冷たくね? 健気に走ってるこの子をおいてどんどん行っちゃってってカヤさん!?」
「そいつコージさんだよな!!」
だらだらと駄弁るヤマネを遮ってヤチネズミは飛び上がる。
「コジ!? どこ? なに??」
って言うかカヤさんは? と首をひょこひょこ動かすヤマネを差し置いて、ヤチネズミはカヤネズミを担ぎ上げ、四輪駆動車に投げ込んだ。