00-165 カヤネズミ【対話】
過去編(その116)です。
首をへし折られるかと思いながら耐え抜いた重圧から突然解放されて、カヤネズミは息を吐いた。口と一緒に目を見開き、ついでに頭を傾げて耳の穴に詰まった砂を落とそうとする。
「いた!」
ヤチネズミが叫んだ。何が?? と言いかけて、自分が何を目指していたのか思い出す。慌てて我に返り目標物を探す。しかし見回した左右は空。太陽が真横にいる。地面どこ!!
「……とっ!」
飛んでいた、空を。浮いていた、地面から。なんで? なんで?? 自動二輪って地面を走るもんだって! 浮かないって! 飛ばないって!!
「あそこ!!」
ヤチネズミがなおも叫ぶ。カヤネズミは前を見て、運転手が見下ろす先に視線を動かす。停止した車輪の真下、走る電車の床の上、こちらを見上げるワシの男たちの中に一つだけ見慣れた間抜け顔。
「はっ…!」
見つけた仲間の名前を呼び終える前に、浮遊感は吐き気を催させる反重力に置き換わった。自動二輪が落下し始めたのだ。それはそうだ。自動二輪はそもそも浮かない。空を飛ぶものではない。浮遊時間としてはおそらく一秒にも満たなかったと思われる。しかし初体験のカヤネズミにとっては数分間にもそれ以上に長くも感じた。急速落下がカヤネズミに与えたのはえも言えぬ恐怖だ。絶叫しながらカヤネズミは、さっきもあったな、と似たような嫌な体験思い出す。ハツカネズミが地上十七階から飛び降り無理心中未遂をやり遂げた時と同じだと気付く。何だよ今日は! なんて厄日だ! カヤネズミは目の前の背中を睨みつける。厄ばっかり運んで来やがってこの不死身の地味な厄ネズミ!!
自動二輪は着地すると同時にその車輪は回転を始めた。しかし着地した場所は地面の上ではない。地面の上ならもう少し安定している、こんなに揺れない、こんなに怖くない!
「おまヤッ! バカどこ走って…」
「こっちのが早い!!」
ヤチネズミはまるで聞く耳を持たずに走る電車の車両の縁を自動二輪で爆走した。ワシの男たちの視線が刺さる。刃物で刺してこないところをみると奴らも呆気に取られているのかもしれない。不幸中の幸いだ。幸いか? カヤネズミは恐怖に叫びながらヤチネズミにしがみ付きつつ殴りつけたい衝動を抑えこむ。落ちたらどうすんだよ不安定だろまじ怖いって駄目だ漏らす……
「ハツ!!」
ヤチネズミが低い姿勢のまま叫んだ。
カヤネズミもヤチネズミの背中から顔を上げる。見ると次の車両の床に寝転がるハツカネズミがいた。何やってんだ? カヤネズミは目を凝らす。そしてすぐに理由に気づく。
「でんっ…!」
「ハツ乗れ!!」
ヤチネズミが叫んで自動二輪が加速した。ちょっと待て! その先、危険!!
車道…、もとい、車両の縁はもうすぐ切れる。高速走行で連結部分を飛び越えるつもりか? 無理むり! やめろって!! カヤネズミは叫ぶ。口から出るのは割れた雑音だけだ。制止したいが間に合わない。そうこうするうちにまたあの嫌な浮遊感。そして直後に臀部と顎に衝撃。咄嗟に閉じた瞼を開くと、今度は車両の縁ではなくその中に着地していた。
ワシの男たちを縫うように走る自動二輪。光る刃物、奴らの得物。振り返る顔、顔、顔。
ヤチネズミが叫ぶ。自動二輪を全身で傾け、ハツカネズミに接近する。
「カヤ!!」
うるせえ、バカ。無理だ、聞け!
思いながらもカヤネズミは一応、打ち合わせ通りに手を伸ばした。しかしハツカネズミは手を出さない。向けてきたのは困ったような、申し訳なさげな間抜け顔だけだ。だよな、とカヤネズミは顔を顰める。
「ハツ!?」
気付かないのはヤチネズミだ。窮地に飛んできた助けを無視する意味が解せないらしい。車両の端で急停車し、方向転換して再びハツカネズミをとっ捕まえようと試みた。しかし、
「撃て!」
ワシたちが一斉に小銃を構え始めた。丸腰の考え無しは途端に慌てる。カヤネズミは舌打ちして小銃を構え、最も効率的と思われる的を探した。あれか。
「コノリさん!!」
両脇を抱えられながらも号令をかけた男を撃った。足元の揺れのせいで急所は外してしまったが、ワシの動揺は誘えた。アイから支給されたばかりならば小銃には不慣れだろうという目算も当たっていたらしい。被弾した男にワシたちが群がる。怒り狂って腰の刃物を手に取り、こちらに向かってくる輩もいる。小銃があるなら撃った方が早いだろうが、ばか。カヤネズミは銃弾を装填しながら鼻で笑った。
「出せ」
無数の銃口を向けられて委縮し固まっていたヤチネズミを急かした。考え足らずの運転手は叩きたくなる衝動に拍車をかけるべく腹立たしい、とぼた顔を向けてくる。もちろんカヤネズミはその頭を叩く。前を向かせ、「いいから出せ!」と恫喝した。
「でもハツ…!」
「一旦退去! ここ降りろって…」
「か…!」
頭部二か所から流血した男が斬りかかってきた。カヤネズミは小銃の銃身でその刃を受け止める。切っ先は文字通り目と鼻の先。小銃に鉄が使われていて良かった、全部木製だったら自分も切れていた。遅れてやってきた恐怖と動悸に息切れが隠せない。
ワシの男が一旦刃を退き、別の方向から振り下ろしてきた。カヤネズミはハツカネズミばりの小銃の持ち方で、再び応戦する。
「カヤ!」
「出せバカ…!」
「撃て!」
「駄目だお頭に当たる!!」
その時カヤネズミは見た。斬りかかってきた男の、揺れた外套の下に偲ばされていた見慣れた機械、携帯用の薄型画面を有する端末を。
カヤネズミははっとして男の顔を見る。『おかしら』と呼ばれていた男は動じた様子をおくびにも出さずに、冷静さと冷酷さを感じさせる淀んだ視線はネズミという『物』を見ている。
「あんたが『クマタカ』か?」
カヤネズミは男に尋ねた。男が初めて自分を見る。
「あんた、アイから何聞いた。どこまで知ってる」
クマタカが眉根を寄せる。
「アイは俺たちのことを何だって…!」
「掴まれ!!」
ヤチネズミが叫んで自動二輪を後退させた。男が右足でたたらを踏む。カヤネズミは首を大きく振ってクマタカの持つ刃物の切っ先を避ける。頭は無傷だ。だが肩を掠った。男が唇を開く。
「カヤッ!!」
ヤチネズミが自動二輪を発車させた。カヤネズミは舌打ちして行く手を遮る車両の側壁を撃った。
電車の壁が穿たれひび割れ、その亀裂を自動二輪の車輪が打ち破る。車両に残ったワシの男が身を乗り出して小銃を構えたが、
「待て!」
何故か逃げたネズミをかばった頭目に、その部下は目を丸くした。
*
「ハツあれなんだよ!!」
ワシの乗る電車から距離を取りながらヤチネズミが叫ぶ。カヤネズミは男に斬られた左肩に顔をゆがめながら「電池切れ!」と叫び返す。
「『電池切れ』ぇ?」
ヤチネズミが聞き返してきた。
「電池切れって何だよ!」
「お前同室だろ! なんでそんなことも知らないんだよ!」
カヤネズミは痛みに歯を食いしばりながら次の銃弾を装填しつつ答える。駄目だ、痛い。指先が震える。
「知らないから聞いてんだろ!」
ヤチネズミが車体を傾けながら怒鳴る。咄嗟に力んだカヤネズミの肩口に痛みが走る。
「無敵状態は時間制限があんだって!!」
カヤネズミは銃弾を詰め込んでから前を向いた。
「ハツだってアイじゃない! トガリさんの薬で再生したって……の薬で痛みを感じなくたって体力は無限じゃないんだよ! ハツが気付かないだけで身体は限界越えたら動かなくなるんだって!!」
目の前の背中が肩を落として頭を上げた。力が抜けたヤチネズミは荒ぶった運転をやめて数秒、呆然とする。
「おいヤち…!」
「やばくね? それ。じゃあハツ…」
自動二輪の速度が目に見えて落ちる。砂の隆起に車輪が取られて車体がぶれる。ぼけっとするなと注意しようとした時、再び荒ぶり始めた運転にカヤネズミは首を振られて空を仰いだ。揺れる、頭が。強烈な肩の痛みと共に押し寄せる吐き気。
「作戦変更!! カヤ!」
ヤチネズミの提案だが懇願だかよくわからない絶叫に、カヤネズミは目を開ける。
「ハツを拾って電車止めて地下を足止めってやつ!」
泣いているような絶叫でヤチネズミがまくしたてる。
「先に電車止めてくれ!! 爆破でも発破でも何でもいい!! お前の射撃は天才なんだろ? とにかくあそこからハツ出さないとハツの奴すぐにでも…」
「先頭車両に回り込め」
動揺して動転するヤチネズミを諌めるように静かに言った。「なんだって!?」と不細工な半べそがこちらを見る。カヤネズミはその頭を叩いて前を向かせる。そのままヤチネズミの上着を掴んで目を瞑った。車酔いか? 気持ち悪い。
「カヤ!?」
「行け」
いまだかつて感じたことのない吐き気と肩
の痛みを堪えながら、カヤネズミはヤチネズミの背中を叩いて作戦の実行を急かした。