00-162 コノリ【……鬼】
過去編(その113)です。
ネズミが着地した、混乱の最中にあった三両目の車両に。顔を上げると同時に体勢を崩していた男を殴りつけ、蹴り倒し、小銃を奪ってその頭蓋を叩き潰す。
「構えろ!」
声が走る。それより先にネズミが走る。手にした小銃の銃身を両手で持ち、横に構えてワシの男たちに突進していく。ネズミが構える銃床は、まだ立ち上がれない三両目の男たちの頭と言わず首と言わず、一撃必死の急所を殴打する。立ち上がりかけた者は胸や腰に、踏みとどまった者には追加の二、三撃。正面と背後から銃弾を浴びつつも猛進するネズミは、ワシの男たちの息の根を確実に止めて行く。
脇腹を直撃されつつも踏ん張り、ネズミの小銃を掴み取った者がいた。ネズミと対峙した男は歯を食いしばって小銃を抱えながらネズミに足払いをかける。ネズミが体勢を崩す。小銃を奪ったか。いや違う。奪ったのではなく掴まされた。ネズミは倒れながらも小銃を奪った相手の袖を掴むと、男もろとも床に落ちる。次にネズミが立ち上がった時には、動かない身体がまた一つ、その足元に増えていた。
今や三両目にはネズミ以外に動く者はいない。返り血を浴び、被弾で穴だらけの襤褸を纏った男がゆっくりと顔を上げる。二両目、四両目からネズミに銃口を向けていたワシの男たちは、一様に息を呑み身を引いた。
四両目の男が引き金を引いた。意図してではなく弾みだった。銃弾はネズミの頬を掠めて耳を撃ち抜く。返り血ではなくネズミ自身の血飛沫が舞う。そこでワシの男たちは見た。ネズミの耳が再生していくのを。抉れた肉片が意思を持ったかのように蠢き、膨れ上がり、たちどころに穴を塞いだ瞬間を。
元通りに戻った耳側からネズミが四両目に振り返った。悲鳴が上がる。引き金を引いてしまった男は腰を抜かす。ネズミは小銃を握り直すと、上瞼が見えなくなるほど顎を引き、四両目に向かって歩き出した。
五両目から四両目に移り、部下たちの救出に奔走していたコノリが見たのはクマタカの姿だった。二両目の奥から助走して縁に至り、足をかけて三両目に飛び移ったクマタカは、ネズミが振り返るより早く、その首から股に掛けて太刀を振るった。自分が長年仕えた男の息子は、父親以上の俊敏さでネズミに斬りかかり、誰よりも正確な太刀筋はネズミの急所を斬り捨てたと思われた。ネズミが初めて後ずさりする。討ちとったかと期待する。
しかしコノリの思いとは裏腹にクマタカは眉間の皺を深くした。
ネズミが顔を上げる。浅かったか。あれで? コノリが訝った瞬間、ネズミは手にしていた小銃をクマタカ目掛けて振り切った。クマタカが上体を反らす。間一髪。しかし振り切ったそばからネズミは逆手で小銃を振り戻す。なんてよく動く、コノリは言葉を失う。あんな体勢から返せるものだろうかと我が目を疑う。
ネズミの振り回した小銃の台尻がクマタカの右瞼を掠った。クマタカが顔を歪める。ネズミから離れるために半歩退く。その間合いにネズミが踏み込んだ。先の一太刀はまるで効いていなかったらしい、コノリは身震いする。駅の頭目が死闘の最中にいるというのに違う点に目を奪われる。しかしそれはコノリだけではなかった。
コノリと同じく、当のクマタカもまた集中が切れた。僅かな間ではあったが、クマタカの左の眼球が負傷した右側に寄った。瞬きほどの短い時間、息を呑もうにもそれさえ叶わないほんの刹那、それをネズミは逃さなかった。
ネズミの左手がクマタカの胸座を掴む。クマタカが首を大きく後ろに振りながら引き寄せられる。振り子のようにされるがままの無防備な頭部をネズミの頭突きが襲う。脳振とうでも起こしたか。クマタカは目に見えてふらつき、片膝をついた。顔さえあげられないクマタカの頭頂部目がけてネズミが小銃を振り被る。両手で握りしめた銃身から、銃床の重みを味方につけて思いっきり振り下ろしたが、その鈍器が凶器となる前にネズミは体勢を崩し、ネズミの攻撃は空振りに終わった。
クマタカは片膝をついたまま床と水平に太刀を振っていた。ネズミの右脚が脛の途中で斬れる。身体が右側に傾き、肘から床に倒れる。振り被っていた小銃はその手をすり抜け、飛ばされ、回転しながら四両目に返ってきた。屈んで避けたコノリの横で、ハチクマが顔面でそれを受け止める。
のびたハチクマに手を貸さねばと思いつつ、コノリは頭目たちから目を離せなかった。
床に手をついたネズミの前にクマタカが立ちはだかる。形勢逆転。得物と右足を失ったネズミは両手をついて片足で立ち上がろうと腰を上げたが、クマタカがそれを阻んだ。ネズミの左手首を刎ねる。ネズミの頭ががくんと下がる。さらに右手も。それでもまだ足りないと言わんばかりにクマタカは太刀を振るう。ネズミの身体は四肢の先から短くなっていく。断面の繊維は先の耳のように悪あがきをして見せるが、その先をクマタカは許さない。
クマタカは知っていたのだろう、とコノリは思った。お頭は知っていたのだ、ネズミの中には外傷をたちどころに修復してしまう者がいるということを。一発や二発の銃弾ではその動きを封じられないことを。
その情報源はおそらくあの亡命夫婦だろう 。オオワシが言っていた、息子は塔と関わり過ぎだと。妙な考えを吹きこまれやしないかと。危惧していた、あいつに駅の頭目が務まるだろうかと。自分の気持ちはほとんど見せない癖に、弱者の弱音に感化されやすいのだと。
―罷免してやってくれ、その時は。お前の判断でいい、やってくれ。あいつは優し過ぎる……―
頭部は二か所から血筋を作りつつも能面を張りつけて、ネズミを切り刻む手を止めない姿は最早、鬼の所業だった。ネズミは再生も追いつかない。むしろ一思いに殺してやってほしいとさえコノリには思えてくる。ネズミの強襲を止めることが目的であれば既に果たしているだろう。それ以上のいたぶりは悪意しかない暴力だ。
誰が優しいって? コノリは口中呟く。何に肩入れするって? 長年仕えた、気の置けない上司に尋ねる。オオワシさん、あんたそれは親の贔屓目だ。いや、あんた、なんにも見えちゃいなかったんじゃないのか?
ネズミが顎から床に落ちた。頭部以外を失くした胴体をクマタカが見下ろす。ネズミは冷静には見えないが冷たい目でクマタカを睨み上げる。クマタカが太刀を逆手に持ち替えて振りあげ、惰性のような動きでその切っ先をネズミの背中に突き下ろした。ネズミの身体がびくりと跳ねる。ようやく顔色を変えたネズミをコノリ始め、ワシの男たちが固唾を呑んで覗きこむ。心臓を貫かれたネズミはわずかに痙攣した後、目を開けたまま事切れた。
「……やった…?」
イヌワシが呟く。三両目の生き残りは赤ん坊のように車両の縁につかまり立ちして身体を持ち上げ、周囲の者に尋ねている。
「た……?」
「多分……」
「………った。やった!」
イヌワシたちの声に張りつめていた空気がほぐれた。ハチクマだけが頭を振って起き上がり、気付けば終わっていた緊急事態の結末に困惑している。誰もが頭の勝利に感謝し、安堵し、歓喜した。
コノリも息を吐きだし脱力する。改めて先代の息子を見遣ると、クマタカは斬り落としたネズミの脚を持ち上げて断面を覗きこんでいた。歩み寄ってきたハゲワシにそれをつきつけ、調べておくようになどと命じている。
父親とはえらい違いだ。もしあれがオオワシならば、自分の功績を褒めろ称えろと周囲に強要し、放置すれば絡んできて従えば上機嫌でげらげら笑って、つまりは面倒臭いことこの上なかっただろう。その面倒くささこそがオオワシの魅力でもあったわけだが、息子の方は父親とは違う道を行くようだ。
当初は若過ぎる頭目のやり方に駅の誰もが辟易していたが、この実力と冷静さで、クマタカはクマタカなりに駅をまとめていくのだろう。俺の仕事は終わったのだな、とコノリは改めて痛感した。
感慨に浸っていたコノリは我に返り、自分たちの置かれた状況に目を向ける。三両目の車両が音を立てて揺れていた。まるでそこだけ地震が続いているみたいに。脱輪しかけている。
「減速ぅー!!」
緩みきった男たちが耳を覆うほどの大声を張り上げた。クマタカさえも目を見張って振り返る。しかしコノリが乗っていたのは四両目。先頭車両の奴らは聞こえていないのか見向きもしない。
「ノスり…」
「ノスリッ!!」
コノリよりもよく通る声でクマタカが呼びかけ、踵を返して先頭車両に向かった。よくよく見るとノスリは運転手と共に運転台に張り付き、制御器に全体重をかけている。事態に気付いてはいたようだ。早くも適切な行動に出ていたノスリの後ろ姿を、コノリは感心して見つめた。
生意気だけが取り柄かと思っていた後輩は、突然託された立場に奢るだけでなく、なすべき役割も理解し遂行していたらしい。俺も歳をとるはずだ、とコノリは息を吐く。いよいよ世代交代が身に沁みる。向こうは若い奴らに任せて自分は死傷者たちの回収をと思った時、コノリの視界が何かを捉えた。
三両目には再び多くのワシの男たちが乗り入れていた。仲間たちの遺体を運び出そうとしていたのだ。事切れたネズミを覗きこむ者も少なくない。その男たちがにわかにざわつく。やがてうろたえ、たたらを踏み、悲鳴混じりに右往左往し始めた。
クマタカが振り返る。ノスリが運転手に怒鳴っている。イヌワシが及び腰になってあわあわ言いだしたその先で、
ネズミが立ち上がった。