00-52 ヤチネズミ【疑問】
過去編(その5)です。
受容体のネズミは比較的簡単な施術で済む。平易に言えば投薬と観察、それだけだ。投薬数が増すごとに副作用の危険性も上がるから常に数値と症状には細心の注意を払わねばならないが、塔にはアイがある。アイに任せておけば大概の失敗は避けられる。
だが問題は上階の奴らが干渉してくる時だ。アイに任せておけばいいものを、何を血迷ったのかただの暇潰しなのか、自分たちの手でネズミの検査をしたがる輩がいるから困ったものだ。あいつらが下手な真似さえしなければトガリネズミの不幸は避けられたかもしれないのに。
しかし奴らがいなければ薬そのものの開発さえ、薬という概念さえ存在しなかったのだという。それは困る。地上に上がるという目的がある限り薬は必要不可欠だ。その開発者たちである奴らを否定することはできないのだそうだ。
それにしても手際が悪い。アカがかわいそうだ。たかだか注射一本に何を手間取っているのか。特にハンノキとかいうこの男。絶対に俺の方が上手くやれるのに、とヤチネズミは思う。
簡単な検査後すぐに投薬が始まる受容体に対し、生産体は少しだけ複雑だ。まずその生産体が生産し得る薬の特定から始まる。当該生産体から採取した細胞に体外で既存薬を投与し、一定期間以上、細胞が薬に耐えられれば検査の第一段階は通過となる。
次に生産体の遺伝子が持つ欠損部分に合致するように生産体ごとに薬は成型され、アイによって確実にそれははめ込まれる。薬は遺伝子情報を書き換え、上書きされた遺伝子によって生み出された細胞は決して死滅せずまた無限に増殖することで生産体の全細胞は薬を半永久的に生産し続けるがしかし単に細胞分裂を待っていたのでは時間がかかり過ぎるために薬のはめ込み作業はアイを介して生産体の数十ヶ所から同時進行で施され……
途中までは聞いていたが途中から理解するのを諦めた。
一体誰がこんな話をこの状況下で最後まで聞くだろうか。身体を動かすことさえままならないのに頭を働かせる余裕などあるはずがない。自己免疫が云々と言っていたが要するに拒絶反応だろう。
合っていないのだ。期待は裏切るくせに副作用だけはしっかり出る。自分の身体はとことん自分のことが嫌いらしい。ぼやいてみたところで痛みは一向に和らがないのだから手の施しようがない。
痛み、という言葉では微妙に表現しきれていない。苦しいことは苦しい。劇的に耐え難い時間もあるにはあるが小康状態の時間もあるものだから、ひたすら苦しい、辛い、と訴えるのも違う気がする。強いて言えば「だるい」だ。疲れる。酷い痛みと吐き気と息苦しさに襲われている間は自分以上の苦しみを味わっている奴などいないとさえ思うのだが、小康状態の時は別の思いが沸いてくる。
シチロウよりはましだ。
アカよりはずっといい。
ハツでさえがんばってるんだし俺もがんばらないと、と。だってそういうものだから。
だって俺もネズミだから。
トガリネズミの薬の再生産を期待されて上階に来たと言うのに、ヤチネズミの身体はそれを受け付けなかった。アカネズミもシチロウネズミもハツカネズミでさえ受け継いだというのに。
なんで俺ばっかりと思っていた矢先に告げられたのが新薬の精製だった。誰の薬も受け付けなかった身体は、誰の身体でも造られなかった薬を生み出した。それはそれで稀少だ。トガリネズミと同等だ。しかし新薬には違いないがその効能がいただけなかった。誰もほしがらない。上階の奴らでさえ目もくれない。
しかしこれで検査室からは出られる。薬になったのだ、地上に出る条件を得たのだ、その点においてだけは幸いだ。個室でアイの話を延々聞かされずに済むなら何であれどうでもいい。
宛がわれた機械は小銃という名前だった。練習させられた乗り物は自動二輪と呼ばれていた。小銃は指一本で標的が破裂した。車輪の下敷きになったものは立体が平面と化した。調査に邪魔が入った場合はそれらを用いて邪魔者を除く。邪魔者たちも必死に抵抗してくるから油断してはならない。奇襲が最善だ。背後から仕掛けるのが効果的だ。目的が終わったら即刻撤収しろ。長居は無用だ。どうせ奴らには追いつけっこない。
邪魔者たちは地下に住んでいる、自分たちと同じように。しかし奴らには日々の義務も行動規制も無いと言う。吐き気と痛みしかなかったあの時間も、アイに抑え付けられて聞きたくもない話を聞かされ続けたあの時間も一切ない。自由を謳歌するだけ謳歌しながらさらに、奴らは地上に上がる。地下に住みながら気まぐれに地面に這い出てきて、空を堪能するという。トガリネズミは一度も見られなかったのに。俺だってまだ見たことないのに。そして挙句の果てには夜汽車を――。
いらないだろう。
むしろ何のために生きている?
奴らの存在に何の価値がある。
小銃は痛いかもしれないし車輪は重いかもしれないけれども、是非味わわせてやりたいと思った。そんな奴ら、車輪の下敷きになればいい。撃たれて中から爆ぜればいい。そうなって当然だ。|夜汽車(子どもたち)のためだ。俺たちは当然のことをするんだ。
ただ一つだけ問題が残った。肝心の調査目標がわからなかった。ネズミの仕事は地上の調査だ。塔以外での居住可能地域と『おんな』を探すことだ。
でも『おんな』って何だ?
塔の地階には無いものだという。塔にないものと言えば……空みたいなものか? 青いのか、黒いのか、赤いのか。
「どちらかというと白い」とアズミトガリネズミは言っていた。
「割りといい匂いがする」とトクノシマトゲネズミも教えてくれた。
「見ればわかる」と誰かが言った。
「俺たちとは全く違う」と別の誰かが言った。
とにかく男じゃないものだそうだが、どれほど詳細な説明を受けても言葉はそれ以上に変化しなかった。一度見ておけ、とハタネズミに言われて地上に出された。
赤かった。際限がなかった。さらさらした砂と呼ばれる無数の粒が敷き詰められた床はどこまでも果てしなく伸びていて、それが描く緩やかな弧の上に空があった。空と地面は接合している。でも接地面は垂直ではなさそうだ。壁がない。床と天井がいつのまにか融合してしまったといった感じだ。
「赤い」
赤かった。真っ赤な空とその下の黒い弧を描く地平線と呼ばれる黒い影。
「青い」
首をすっかり曲げて上を仰ぐ。確かに赤い空は段階を経て、というよりも途中色を失くしてから部分的に青く光っていた。
「黒い」
ヤチネズミはぐるりと後ろを向いた。黒の中に白い点が所々に瞬いていた。中には黄色やこれまた赤い光も混ざっている。
「すげぇ……」
話には聞いていたが、映像でも見たことはあったが、画面の中の縮小された小物と本物は全然違った。トガリネズミにも見せてやりたかった。見てほしかった。
けれどもトガリネズミの薬はアカネズミたちが受け継いでいる。自分は何もできなかったけれども同室たちがトガリネズミを地上に連れ出してくれている。
現実逃避でしかない都合のいい解釈。そんなことわかりきっていたが同室の同輩たちなら共感してくれるような気がした。今、アカネズミたちはどこにいるのだろう。自分はどれほど離れているだろう。なかなか縮まない距離は歯痒いけれども皆もこの空を見ていると思うと目頭が熱くなった。
赤くて青くて黒かった空は、時間の経過と共に赤と青の部分を消した。真っ黒くて白いぶちぶちが辺り一面を覆う様もまた圧巻だ。
様々な色と臭いと温度の空の下を走り抜けて、ようやく目指す場所に到着した。
『駅』と呼ばれるその建物は線路沿いに隣接されていた。夜汽車は定期的にここに停車し、水や食べ物を積むのだという。備蓄があるから好きに使え、塔から距離がある時は駅を目指せと教わった。
改札という名の入り口をぬけて階段を降り、塔によく似た通路を進むとなんだか突然空気が変わった。一番奥の部屋から複数の奇妙な声が聞こえる。アズミトガリネズミがその扉を開いてハタネズミが顎をしゃくり、促されて中を覗いたヤチネズミはそこで立ち尽くした。
一目で分かった。
自分たちとは明らかに全く違った。
これが『女』だ。
「男の地下は掃除対象だ。でも女は殺すな。女は『培地』だ。生産体みたいなものらしい。女を塔に運ぶのも掃除と同じくらい大事な業務だ」
女も地下に住む者だという。|夜汽車(子どもたち)を脅かす、駅さえも襲撃してくる奴らの一員。
「これくらいの奴はまだ『培地』には使えないから駅に置いとく。使える女だけ塔に運べ」
子どもたちのために俺たちは当然のことをするのだ。するのだけれども……
―いたい、いたいよ―
シチロウネズミみたいに悲痛な声で、まだあどけない顔で。
―地下に住む者は捨てる。当然じゃん!―
そうなんだけれども、でも、でもだって、こいつもこど…
「聞いてるか、ヤチ」
「は…」
俺が間違ってるのか??