00-153 セスジネズミ【ただいま】
過去編(その104)です。
カヤネズミたちが四輪駆動車で転げ落ち……、駆け下りてきたのは、オリイジネズミ隊の避難が完了した直後だった。ハツカネズミは四輪駆動車の後部座席で身を乗り出す。
「や……」
カワネズミが助手席から飛ぶように降りて駆け出した。その後ろを別の四輪駆動車から走ってきたワタセジネズミが追う。ハツカネズミもオオアシトガリネズミの忠告を聞かずに無理矢理座席を立ち上がった。
「カヤさん!」
運転席で荒い呼吸の中、げっそりとした顔を上げたカヤネズミは、カワネズミをちらりと見ただけでまた項垂れた。
「ヤマネ?」
「こ、こ……」
「『こ』?」
車体に手をかけて同室の先輩を覗きこんだワタセジネズミの頭に手を置き、ドブネズミが身体を起こす。
「ブッさん」
ワタセジネズミがドブネズミの手を払い、カワネズミが四輪駆動車の面々を見回す。カヤネズミ、ヤマネ、ドブネズミ、無口な子ども。
「セージは?」
カヤネズミが息を切らせて項垂れたまま顔を向ける。
「ヤッさんは?」
ドブネズミが項垂れる。
「ヤッさんとセージはッ…!!」
カワネズミが大声で問い質したその瞬間、凄まじい爆音が辺りを包んだ。その場にいた全員が塔に振り返る。塔の土台付近には砂煙、遅れて気付いた振動、誰の目から見ても明らかな処刑室の崩落の瞬間だった。カワネズミの背中に負ぶわれた子どもだけが興奮してはしゃぎ狂う。
「ヤマネ! カヤ!」
塔に視線を奪われていたカワネズミは、真横に来たハツカネズミに驚いた。上から下に視線を走らす。驚くべきことにハツカネズミは一本足だけでここまで移動してきたようだ。普段ならばすかさず後輩たちの無事に微笑むハツカネズミは、この時ばかりは四輪駆動車の面々を険しい目付きで見回してから、
「……ヤチとセージは?」
低い声の真顔でそう言ったきりだった。ヤマネが荒れた呼吸のまま唾を飲み込み、咽ている。
「カヤお前、さっきヤチと一緒にいたじゃん」
ハツカネズミは運転席のカヤネズミに凄む。「ハツさんあの…」と言いかけたヤマネは、ハツカネズミに睨まれて次の言葉と呼吸を忘れる。
「ヤマネはセージと一緒だったじゃん」
ヤマネが俯く。
「なんで一緒じゃないんだ…!」
「崩落に巻き込まれました」
怒鳴りかけたハツカネズミにドブネズミが答えた。ハツカネズミの血走った目がドブネズミに向けられる。ドブネズミは鼻血を流したままハツカネズミを見上げ、同様に睨み返した。
「生産隊を撒くために天井を落としました。言いだしっぺは…、言う前に行動を起こしていたのがセージです。セージの作戦を汲み取ってカヤさんが俺たちに指示を出しました。生産隊が撤退してからセージとヤマネを回収してどさくさに紛れて脱出するはずでした。でも…」
「セージが巻き込まれてヤチが探しに行った」
カヤネズミが結論を引き継いだ。
「や、ヤッさんは……、だぃ、じょ…ぶで…」
ヤマネが弱々しく希望を語る。
「俺らも逃げるだけで精一杯だった」
言ってカヤネズミが頭を下げた。ワタセジネズミがぼそりと何かを呟いて漫然と塔を見上げた。
「ハツさん?」
カワネズミが弱々しく疑問を投げかける。見るとハツカネズミは一本の足だけで飛び跳ねて進み、塔を目指していた。
「ハツ」
カヤネズミが窘める。その横顔をヤマネが不安そうに窺う。
「ハツさん」
ワタセジネズミが駆け寄ったが、ハツカネズミは肩を振って後輩の手助けを拒絶した。
「ハツさ…」
「ヤチたちまだあの中なんだろ? 迎えに行ってくる」
「ハツさん……」
「泣いてるよきっと。セージじゃ駄目だ。俺が行かないと…」
言いながらよろけ、地面に着くべき手は動かずに、ハツカネズミは頭から砂に滑り込む。
「ハツさん………」
ヤマネの呼びかけにさえ聞く耳を持たない。切れた導線が放電しながらのたうち回るように、ハツカネズミは肩を振って胸と顎で砂を掻いて、左膝と爪先だけで前に進もうともがいている。今のハツカネズミならば、鈍足ヤマネでも簡単に追い越せるだろう。
「やめろハツ」
カヤネズミがため息まじりに憤った。もちろんハツカネズミは止まらない。
「止まれバカ!」
「ハツさん!」
カワネズミが駆け寄って肩を押さえた。ハツカネズミの悪あがきはそれでも止まらず、顔は徐々に砂の中に沈んでいく。
副部隊長のエゾヤチネズミから右肘の手当てを受けていたオリイジネズミは、目を細めて息を吐いた。胸の隠しから煙草を取り出して咥えると、すかさず部隊員が火を差し出す。礼を述べてから煙草に火をつけ、肺いっぱいに吸い込んだ煙を空に向かって吐き出すと、傍らの部隊員に何かを告げた。命令を受けたミカドネズミが数名の部隊員を引きつれて旧ムクゲネズミ隊に近づいてくる。その最後尾についたナンヨウネズミが何かに気付いて立ち止まった。
「部隊長」
煙草を吸うオリイジネズミとエゾヤチネズミが揃ってナンヨウネズミに振り返る。ナンヨウネズミは地面を見つめた。オリイジネズミ隊の面々はすぐに気付き、部隊長の声を待たずに霧散した。
反応が遅かったのは旧ムクゲネズミ隊の面々だ。聞きわけもなく暴れるハツカネズミに手を焼いていたせいもあるが、そもそも彼らは知らなかった。ネズミの乗り物が砂の中に潜れることを。
地面が弾けた。風圧に巻き上げられた砂が顔に当たり視界を奪い、ハツカネズミは前進を諦める。ハツカネズミの足側の後ろ、見慣れない、知らない光景に旧ムクゲネズミ隊のネズミたちは唖然として固まる。ワタセジネズミは腰を抜かし、ヤマネに至ってはあんぐりと開けた口の中に砂が積っていくことにすら気付いていない。カワネズミは驚いて振り返ったが、背中の子どもが嬉しがって暴れ出したために身を屈め、首から上だけで背後を窺う。我に返ったドブネズミだけが重たい身体をもたげて四輪駆動車から降り、仲間たちを守るべく腰を落として構えた。
カヤネズミは細めた視界の中で砂柱を見ていた。砂の柱、それ以外に表現のしようがない。突如目にした現象が何かに似ていて、記憶の中に答えを探す。そうだ、どこかの資料の中だった。本物は見たことが無いけれども動画でそれを見た時、地上にはおもしろいものがあるのだな、と興味深く思ったから印象に残っていたのだ。『間欠泉』という名称をその時のカヤネズミは思い出せなかったが、夜の終わりの光を受けて輪郭が輝くそれは美しく、カヤネズミは状況も忘れて呑気に見つめていた。
その砂の柱の突端から何かが飛び出したのを、カヤネズミの目は確かに捉えた。初めて目にした美しい現象とは真逆に、平素からよく知る小汚い塊は、地面に降り立つと耳障りな音と砂を巻き上げ、ほぼ一回転して停車した。
「ヤッさん……?」
カワネズミが呟き、ハツカネズミが首と胴部だけで振り返る。
「……セージ」
ヤマネが治験体の子どもを抱えたまま四輪駆動車を降りた。
カヤネズミはまだ信じられない。初めて見た砂柱も、自動二輪が地面から飛び出してきた機能も、ヤチネズミが託した仕事を完璧にこなしてセスジネズミと共に帰ってきた現実も。全てがカヤネズミの持つ常識とはかけ離れていた。
腰を抜かしていたワタセジネズミが立ち上がり、ドブネズミが構えを解いて、カヤネズミも四輪駆動車を降り、全員が注視する中でセスジネズミが突如、
「何すんだくそじじいッ!!!」
空気を震わせるほどの声量で運転していたヤチネズミの背中を蹴りつけた。ヤチネズミは体勢を崩す。自動二輪はセスジネズミもろとも横転する。砂の上に倒れて痛々しく起き上がったヤチネズミの腰目がけて、同じく砂の上に落ちたセスジネズミは尚も靴底で蹴り続けた。
「びびんだろ! 先に言え! んなことしろって誰が言った、ぁあ!?」
セスジネズミの足を払い除けてヤチネズミもがなりだす。
「説明してたら潰れてただろ! ちゃんと出て来れたんだから文句言うな、くそがき!!」
言いながら両手を地面について、動く方の左足でセスジネズミを蹴ろうとしている。しかし如何せん、脚が短い。圧倒的に不利。セスジネズミの蹴りはヤチネズミの顎や腿、腰に痣を作っていくが、ヤチネズミの足は目標物に届いていない。
「くそくそうるせえんだよ!」
「お前は偉そうなんだよ!」
「偉いんだよ俺は! てめえよりはずっとな!」
「よく言うなこら! 死にそうな顔して泣きべそかいてたくそがきが!」
「泣いてたのはそっちだろうが!! 記憶障害か? アイの介護でも受けてろよ!」
「俺が記憶障害ならお前な、んて…」
ヤチネズミが言いかけて動きを止めた。無防備な頬にセスジネズミの靴底が炸裂する。
いきなり蹴り甲斐がなくなったうるさい先輩にセスジネズミも足を止め、狭くなっていた視野を広げた。薄明るい青みがかった空の下で、周囲にいたのは他の部隊員、仲間たちだ。その中で同室の同輩であるヤマネが一歩前に出た。同じくカワネズミも。セスジネズミは何を言えばいいのかわからなくなって、意味もなく居心地が悪くなって肩を竦める。その拗ねたような、子どもじみた横顔に、鼻水と涎と涙まみれのヤマネと、下顎を痙攣させたカワネズミが同時に無言で覆いかぶさってきた。途端に時が動き出す。
「ヤマね……」
セスジネズミが呼びかけてもヤマネは声を上げて泣き叫ぶばかりだ。
「カワ…」
「セージだ! セージだお前……、おま…ッ、せ…」
カワネズミも泣きだして、
「おーかぁーえーりぃいいいい!!!!!」
叩かれる、泣かれる、絞めつけられる、叫ばれる。ドブネズミやワタセジネズミまで加わってきてセスジネズミは揉みくちゃだ。セスジネズミは何も言えない。困って、気まずくて、でもやっぱり嬉しくて、しかし手放しでは喜べなくて。何とも言えない表情でされるがままだ。だがその顔は既に無表情とは言えなかった。
頬を擦りながらヤチネズミは起き上がる。保護者としての義務感と、仲間としての心配と、必死な努力と無事生還した成果の全てにけちをつけられ、八つ当たりされたのだ。怒るのも無理はない。むしろこの時ばかりはヤチネズミの怒りは正当だっただろう。
しかし憎たらしいセスジネズミを見遣ってヤチネズミは固まった。後輩たちの喜びように見とれる。死にそうな思いをしたことも、理不尽なセスジネズミの仕打ちも、自分の罪も受けるべき罰もアイも、何もかも一瞬で吹き飛んだ。明るみ始めた空の下で戯れる後輩たちの姿に、目頭が熱くなり鼻の奥がつんとする。
「泣くなって、『じ・じ・い』」
振り返るとカヤネズミが立っていた。にやにやと笑顔の仮面をつけて白い歯を見せて爪先で小突いて来る。
「泣いてねえし! 別におま…」
言い終える前に後頭部を思いっきり叩かれる。痛い。
「何すんだてめえ!!」
もちろん怒る。真顔で怒鳴る。だがカヤネズミは腹を抱えて満面の笑みだ。さらに飛んできた平手打ちを咄嗟に避けたが、今度は肩と頭頂部に手を置かれて前後左右に揺さぶられる。
ヤチネズミは気付く。カヤネズミは今、多分本気で喜んでいる。嬉しくて楽しくってたまらなくて叩かずにはいられないらしい。どういう感情表現だよ、と呆れたが、痛いのに目が回るのに、あまりにカヤネズミが笑うものだからヤチネズミもつられて笑った。揺さぶられながら腹を抱えて涙が出るまで笑っていたところに、
「ヤチ」
声をかけられてヤチネズミは振り返り、その姿にぎょっとした。